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専門じゃない分野について学ぶにはそれなりに時間を使う。当たり前だけど。まあ、マイペースにいこう。

ところが、いわゆる意味というものは、文がよびさます興味のことにほかならない。それ以外に意味の定義はありえないし、この定義自体、文の新しさと一体をなしている。何時間もつづけて人の話を聞いてみても、まったく興味がもてない……。だからこそ議論をすることが困難になるわけだし、またけっして議論などしてはならないことにもなるのです。まさか相手に面と向かって「きみの話は面白くともなんともない」と決めつけるわけにはいきませんからね。「それは間違っている」と指摘するくらいなら許されるでしょう。しかし人の話はけっして間違ってはいないのです。間違っているのではなくて、愚劣であるか、何の重要性ももたないだけなのです。重要性がないのは、さんざん言い古されたものだからにほかならない。重要性や必要性、あるいは興味という観念は、真理の観念よりもはるかに決定的です。」(ドゥルーズ『記号と事件』261)

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「 私たちは無用の言葉によって、さらには途轍もない量の言葉と映像によって責めさいなまれている。愚劣さはけっして口をつぐもうとしなかったし、目をとじようともしなかったのです。そこで問題になってくるのは、もはや人びとに考えを述べてもらうことではなく、孤独と沈黙の気泡をととのえてやり、そこで初めて言うべきことが見つかるように手助けしてやることなのです。押さえつけようとする力は、人びとが考えを述べることを妨げるのではなく、逆に考えを述べることを強要する。いまもとめられているのは、言うべきことが何もないという喜び、そして何も言わずにすませる権利です。これこそ、少しは言うに値する、もともと稀な、あるいは稀になったものが形成するための条件なのですから。私たちを疲弊させているのは伝達の妨害ではなく、何の興味もわかない文なのです。

荒川ナッシュ展は子どもの主体性というか、子どもが自由に能力を発揮できる空間を装っておきながら、その裏で大人の監視の眼が張り巡らされていることが一番気になったんですよねえ。子どもは制度をなんら共有していないから、普通に作品に触ってくるが、しかしそれは禁止されている。ほかならぬ制度によって。つまり、これもまた「委託された制度批判」にみえてしまった。

あ、今日、高橋さんたちの美術史と批評のイベントやっていたのか。聞き逃した。やっぱツイッターみないと情報拾えないな。

アイデア。作品と批評の関係をある種の恋愛論として書けるのでは。ここ最近の経験から。

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自律的に物を書くとはどういうことか。

物書きには完璧主義(強迫神経症)のひとが多い気がするんだけど、みんな、自分の症状とどうやってつきやっているのか知りたい。

グリーンバーグのフォーマリズムって一種のマテリアリズムで、フォーマリズムの系譜のなかでは特殊な部類。しかも、純粋フォーマリズムの美術史家なんて、ほぼいない。みんなさまざまな方法論の合わせ技でやっている。美術をやっているひとでもフォーマリズムというと、即グリーンバーグですかみたいになる誤解を解くことからはじめるのめんどい。

これいい作品だよ。ピサロはいつか論じたいけど、たいへんそう。

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今日は精神的につらいことがあったが、明日からは自身の活動を粛々と。それが支えになる。

執筆ってなんだか修行みたいだな。

ほかのひとにも聞いてみたいけど、ぼくの場合、基本的にファミレスで書いたりとか、音楽をかけながら書いたりとか音がないと書けない。そして、これが重要なのだが、散々苦しんだ末の疲労を経ないと書けない。これはつまり、「こういう言い回しを使いたい」とか「こう書きたい」みたいな自意識(雑念)があると書けない、ということなんだけど、「私」がいったん削除されたときにはじめて「書けているぞ」と思える。

荒川ナッシュ医展を見てきた。洗練されたとてもいい展覧会だったけど、うーん。

戦うべき「悪」は自分の中にいるんだと
「世界」のせいにしちゃダメだと僕はそう思ったんだ

何かを変えるってことは自分自身を変えるということと
ほとんど同じなんだよ
「僕ら」が変わるってことは「世界」を変えるということと
ほとんど同じなんだよ
リーガルリリー「天使と悪魔 」

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