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「私の出した写真集について、かつてのわれわれの雑誌の仲間であり、今なお最も親しい友人である多木浩二は「身体を世界に貸し与える」ことによって成立する写真であると言い、それにもかかわらず、「主体を超えたものが主体を決めてしまう」こと、そのことに私はロマンティックに苛立っているのだと批評した。当時、酒を飲めば、「いかにも私が居なくても世界はあるだろう。私が居ない限り、世界があろうとなかろうと知ったことではない」などとうそぶいていた私は、いまようやくそのことの意味に気づきはじめているのかもしれない。しかし、もし彼の語ることを本当に突き詰めていくならば、私の写真集よりはあきらかに彼の言葉が先を超えていたと言うべきであろう。いや、批評というものが詰まるところ、一つの作品を媒介にして、批評者が、おのれ自身を語るものであるとすれば、それはなにもとりたてて言うまでもないことであるのかもしれない。だがいままさしく私の思考は私の視線をはじき返す事物の視線というものに辿りついていることだけはたしかかである。」(中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』22–23頁)

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