雨にまでされたものが運ばれて
きて 顔に当たっている
排他的経済水域の外から顔を叩かれている
国籍不明の船を揺らした波頭かもと思うが
実際は藻の生えたプールの臭いかもしれない
駐車場の端
黒く汚れた
先週 雪だったもの
が積み上がったまま
像か関取の重さで沈黙を続けている
雨の粒が顔を叩くのに
影のように残った雪は記憶と同じで
震災前にそこに見たもの
戦前のここにあったこと
歴史上にあったから朽ちた名残
そういうものは 同じ重さで沈黙している
ただ受信する器官が弱いだけで
人生などという身勝手に短かな物差しで
埋葬をしてしまった
パシャパシャと浅瀬を泳いでいるのは
主のない三輪車だと思う
カラのペダルを回して
犬かきのように
泳いでいるのを見ることは
名のない仕組みの輪転を思うことだから
AIにはそう教えたい
通知を
受信する機械の方がすでに感度良く
どうやら隣町に暴風雪警報が発令されるらしい
雨が臭う町から帰る
峠から先の道が もう
一本ずつ途切れていってる
これは「差別をするのは知性のない者だ(知性のある私は差別などしない)」というような切り離しとも接続するものですよね。だからきっと本好きの多くは「自分は差別をしていない」と無邪気に信じてますよ。そしてこの感覚と接続するのが、道徳では100点満点の「誰も傷つけない」の精神ですよね。この「誰も傷つけない」は「いま/すでに傷つけられている者を助ける」ということを含んでいなくて、単に「自分の振る舞いが誰かを傷つけない」ことだけを考えているので。「自分は差別をしない(ので、差別問題に口を挟まなくてもいい)」ということ。むしろ差別を指摘することは「誰かを傷つける」ことになるので避けるべきこととされてしまう。
先日の政府による書店支援に対して本好きの皆さんが無批判にそれを受け入れてしまった構図、たぶん「本は素晴らしいものなのだから支援されて当然」というような、ある種の選民思想的な考えが無自覚に披露されちゃったものだとも思うんですよね。本好きの方々、よく「本を読まないなんてありえない」みたいなこと言うじゃないですか。そこにある傲慢さや暴力性にまったく気づかないまま、本を読めば良い人になれるとか読書は誰も傷つけないとか信じちゃう感じ。きっと毎晩パーティ参加してる人に「パーティに来ないなんて損してますし、社交性ないんですね」とか言われたらそういう本好きは怒るだろうけど、それと同じことしてるということには気づいてない。「本を読む我々は優れているが、本を読まないかれらはそうではない。そして本を読まない人が多いから社会は変わらないのだ」みたいなね。
数日続いた高い発熱の中、暇さえ見つければ睡眠、それと漢方にも頼ってやり過ごした。現在は微熱以下ギリギリまで下がっている。
今日は汗ばむ気温の中、久しぶりに軽い運動をし、コンビニに立ち寄り、夕食のメンマと切り干し大根とポテサラを買って帰宅した。
良い知らせ:「軽い運動なら長引く後遺症の症状である熱を出さない」ということ。あと飲酒は大丈夫ということ。
一方、悪い方の知らせ:「三十分を超える読み、書き、映像の鑑賞、スマホの使用」で発熱するという事実。
とにかく頭使うな、と。わかりやすく発熱するため、休憩や余暇でのネットを控えるという方針(指導か)やるなら本当にごく短時間。
それゆえ数日前に投稿系のサイトの登録を全停止&退会挨拶に切り変えた。
SNSは、このfedibirdとBlueskyのドメインアカ(フォローバックを禁止して、時々followersフィードを読むにとどめる)に限定した。サブアカは消去準備。
面白かった「しずかなインターネット」もスポンサーを解除して、もうできるだけ見ないよう自分に言い聞かせている。
こっそり短く創作はしたい。なのでもちろんWordPressは残す。
上記と合わせ、この三つ以外をどれだけ見ないかでこの先の半年をやっていこうと思っている。
後ろ向きの本
積もった雪がたっぷり雨を含んで、それを避ける道はなかった。
冷たく濡れた靴が、歩くたびに嫌な音を鳴らし、ようやく辿り着いた自動改札機は閉じていて、閑散とした駅構内では「列車の遅れをご案内します」というアナウンスが、機械的に続いているだけだった。
駅前では、傘を差した人々が列を作っていたが、バスもタクシーも、全く入って来ないようすだ。
いろいろと諦めて道を渡り、友人がやっている古書店で、時間をつぶすことにした。
狭い売り場の奥で、石油ストーブの火が揺れていた。
無造作に平置きされた本の一冊が、昔居酒屋で殴り合いになった作家の本だったので、心底嫌な気分になって、友人の店主に嫌味を言った。
「こいつの本なんか置いて、客が離れていったろうが」
すると友人は、歯の隙間から空気を漏らすような笑い方をし、ストーブにかけたやかんの湯で茶を入れ始めた。
彼が背にしている棚は、彼が絶対に売らないと決めている本の棚で、全ての背表紙が見えないよう、反対向きにしまわれている。
天井まで、みっちりと、題の見えない本で埋め尽くされているのだ。
店主に出された茶を啜り、みかんの皮をむいて一房口にしてから、あれを一冊見せてくれよというと「嫌だね」と返された。
「なんでだよ。僕の本くらい置いてあってもいいだろうよ」というと、「いや、それはあるよ」と、彼が一番下段の棚から一冊引き抜き、僕に手渡した。
覚えのない本だった。知らない出来事を、詩に詠んだもののように見えた。
「こんなもの、僕は出したか? 」とたずねると、「出すね」と返され、さっき飲んだ分以上の茶が湯呑みに注がれた。「本を閉じれば、ないことになるが」
友人店主の声は、ストーブの火を見ることのように、暖かく揺れて響くように感じたが、「何を訳わからん」と、僕の口は、さしたる考えもないままそう言ってしまった。
僕は僕が出すという本をたいして見もせず突き返した。
店主が「これで、この本の正面もわからなくなる」などと言いながら、本は背表紙の見えない形で棚に戻され、僕は茶を啜りながら、その様子を見守った。
実のところ、僕は本など一冊も出していなかった。
(詩集だと? 何を馬鹿な)
店のドアから見える駅前ロータリーの状況は一層悪く、駅構内から流れ出てくるアナウンスが、運転再開の見込みなしと告げ始めた。
僕と店主は交互に茶を啜り、そしてみかんを食べて、ストーブの火を眺めた。店主が「残るのは、過ぎたあとで見えるものだけ」と呟く声を聞いた。
現代の社会で「エレベーターガール・ボーイ」に該当するものというかポジションは何だろうと考えていた
AIコンシェルジュとか?
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コロナ後遺症治療しつつの日々(発熱するため読み書きスマホ等控えろの指示)