どうでもいい日記
最近次男氏の読書スピードに本を買うのが追いつかなくなってきた。本棚も増やすか迷う。
ちょっと難しいかなと思いつつも彼が選んだ本は読書習慣のない大人の中には読むのが大変な本もありそうで、今後が楽しみ。
砂糖の世界史、学校に持っていったまま帰ってこない。私も読みたいのだけど。
ゴリラからの警告は友人からのお薦め本。
意外と読み始めている。少しずつ読んだ本が像を結んでいくには長い時間が必要だ。だからこそ、10代の、義務教育期間のうちに沢山の刺激を受けて欲しいと願うばかりだ。
私はといえば、学校の課題をする以外は体調も覚束ず、何も遅々として進まない。
主に子の学校との調整や病院との連携に忙しい。
この状態はメンタルにとても悪い。なので数年悩んでいたエレピを買った。ちょこちょこ隙間時間に弾いている。
初めて弾いた時と同じ感動があることに驚いた。鳴らしたい音が鳴る、ハーモニーが生成される。ただそれだけで、意図したように鳴る訳でもないのに心が躍る。
少し譜読みを始めたのは
シベリウス/樅の木、ベートーヴェン/悲愴第3楽章、ドビュッシー/亜麻色の髪の乙女、ラヴェル/ボロディン風に
本当はいつか、カプースチンの楽譜読みたいなあ。多分手が小さすぎ問題でどれだけ練習しても弾けないと思うけど。
車椅子の「女性」である私が普段使ってるトイレってそんな最悪なものなんですか、そんなに直立者の使うトイレって素晴らしいんですか、って辛くキレそうになるし、多目的トイレは多目的なので別に誰が使ってもいいと原理的に私は思っている(し、見た目から必要性はわからない)のだけど、多目的トイレの前で待ってる私のことを見てすごくバツの悪そうな顔をしてくる、あの多目的トイレ利用者(もしかすると着替えてるのかもしれない)の顔を思い出したりして、また辛くなる。私はその人たちがそんな顔をする必要はないと思っていて(なぜなら多目的トイレは多目的だから)悪いのは多目的トイレが10階中2階とかにしか作らない施設だと思うのだけど、そういう多目的トイレ利用者の感じる日々のリアルはどこにも存在しないかのように世界があるのに耐えられなくなる。そしてそういう世界が、車椅子を使って多目的トイレを利用する人間と車椅子を使わないけど多目的トイレを多目的に使う人間の間のあの不毛なやり取りを生んでる。
もう100日も何もしてなかったんだーとびっくりした。この100日の間にあった変化を適当に書くと、
大学編入叶わず、仕方ないので入学。
単位はなんとか25単位取得。
この半期で+20くらいできたらな、と。
プチ手術が失敗したのと加えて別の手術のご提案があり、子供をどこに?って悩み、いろんな人に愚痴を吐き、その間にちょびっと回復。なんとかセーフ。
だけど意味不明に悪化している別の病。めんどくさい。
そういやコロナにもなってた。
病院の検査予約とかめちゃくちゃになって、本当に毎日ぎゃーって言いたいくらい参った。
子供も合わせて3人分のリスケ。予定変更には弱い。
ヘンテコな新薬飲んだ。同意書にビビった。治験治療以来のビビり。
学校で今度は歯を折られてきた。永久歯なのにー!
いろいろ言いたいことはあるけど、気持ちが纏まらず結局我慢。
子供の学校の担任の先生、みんな異動。今年もキーパーソンどんどん消える地獄。
Twitter見るの嫌になってちょっと離れたり狂ったようにツイートしたり、下書きに溜め込んだり。
気分を安定させる為に、様々なものと距離をとった。
でも友達は最高。いつもそんなことまで!ってくらいなんでも詳細に言語化されていく。天才。
そんな人達に支えられて、今日も生きてる。
こんな感じ。
トキソの話が面白くて、仮眠しなきゃと思うのにずっと掘り下げてしまった。
様々な不可解な病の原因も、人々の行動も、小さな生き物と無縁とは言えないだろう事が本当に面白い。
病原体による行動操作の話、いろいろ資料見てみたいなあ。
トキソプラズマ原虫に感染したオオカミは群れのリーダーへ
米国ワイオミング州のイエローストーン国立公園に生息するハイイロオオカミ(Canis lupus)は、ネコ科動物を終宿主とするトキソプラズマ原虫(T. gondii)に感染すると、群れのリーダーになる確率が、未感染個体の46倍以上に達することが研究で明らかになりました。研究論文が、Communications Biology(nature)に発表されています。
最初、始めたては何でも、単なる記号やフレーズでしかないものが、小さく繋がっていき、やがて自分の感じたものと結びついていく過程は最高に面白い。
そして、それに触れる(自分の内部的な)タイミングや、その時の時代背景が、それぞれの見え方を用意してくるのも面白い。
人という生き物の発達段階でいわれていることと、自分との参照を繰り返し、随分と早く成長した部分と遅れた部分とが明らかにされそうで怖い(笑)けど、この組み合わせの無数の違いから個性が形成されていくのだろうし、とても興味深い。
発達心理学を今学ぶことによって得られるものは、きっと10年、20年前の自分では分からなかった部分も多いだろうな、とか、逆に体験に結び付いてバイアスかかってるんだろうなと感じたり。
何をやるにしても、どんどんその先が生まれ続ける中で、本当に興味があることだけでも追いかけていたら、世界がもっと楽しく見えるのかもしれないなと思う日々。
そして、自分の収束していく場所のようなものが最近感じられるような気がしていて、とても不思議。
きっとまた、その感覚の深さが変わっていくのだろうとは思うけど。
コスパって言葉にいろいろ集約されているように感じる。
要するに貧しくなったって事なんじゃないかな。
だからコストを抑えて、確実性のあるものはどれか?って話がわんさかある。
だけど、誰かの話を鵜呑みにする事はコスパ良くないと思うのに、なんでなんだろうなあ、そこは丸呑みする人が沢山いる。
本を読む、ということが、今売られている本に、どのような価値を見るかは様々あるだろうけど、少なくとも消えてなくなるような、尾鰭背鰭で元がわからないような"話"よりは、誰かの目が入っていて簡単に変わらない本の方が良いのでは無いかなあと思う。
日本のメディアが、すごく偏った見方を広げている事も大きいと思う。
子供は外国が怖いという。
私は楽しかった話ばかりしてきたつもりなのに、彼等は怖いという。
なんでなんだろうなあ。
急がば回れ。
たくさん見て、聞いて、感じて欲しい。
@masakomaman
こんにちは。
私の世代(35〜45歳くらい)は、
猿岩石のアジア放浪などに影響されて、
海外留学や、バックパッカーで旅行したり、
行動力のある人が多かったと思います。
語学力は完璧ではなくても、なんとかなる、と。
ゆとり世代くらいからだと思いますが、
海外に興味ない、冒険しない、という人が
増えているような…
「普通」ではなくなることを異常に恐れている、
という内容のツイートも見たと思います。
それから、「コスパ」という言葉。
スマホが普及する前に思春期を過ごしたので、
見たい、知りたい、と思うと、
自分で動いて調べたり、その場所に行く、
となるのですが、今はなんでもスマホで調べる。
書店で欲しい本を買うより、ネットで買う。
出かけるよりも、家で、スマホゲームか動画。
世界とつながれるインターネットが、
逆に引きこもりのようなライフスタイルに
なってしまう。
私は、その方が都合がいいと思う人たちが
いろいろと策を進めて、今の日本になった、
と考えています。
行動力のある若者がいると困る人たち。
日本の英語力の話は、もう外国語力の問題ではなくて、日本の多くの人達が半径1、2メートルのことにしか興味ないからじゃないか?と思ったりする。自分の周囲と、直接利害関係のある間柄にしか興味がなくて、その状態で何十年も生きているので知らない世界のことは想像できないし、知りたくもない人達。
フランス語なんて、話題にも出ないのか、他の英語以外の欧州後同様、履修者がどんどん減っているように見える。
日本と日本人はこんな感じで外国語にも外国にも興味なし、って感じの人が増えた気がする。
だけどこっちで会う日本以外のアジアの若者は発音も美しいマルチリンガルが増えたし、知的好奇心旺盛だし、想像力もバイタリティもあって話して面白い人が多くて。
どうしてこんなに違っちゃったんだろう?って正直思ってしまう。あのどんどん世界に出ていってのびのびやっているアジアの若者の中に日本人も沢山いる未来を夢見てたのに。
世界とコミュニケーション取りたいって思う人が少数派だったら、その為の最初の一歩の英語をちゃんと勉強する人も減って当たり前なのかも、と思う。
独り言
何を大事にしているか、は
その人がどんな人なのかを教えてくれる。
大事にしたいものが違い過ぎる人は
共有できるものが限られる。
何かの規則、法則は、あるのでしょうが
それが本当に信ずるべきものなのだとしたら
自ずと、従ったつもりが無くとも
それを満たすようになるのでは無いかなと。
公式を覚え、当てはめる。
そういうやり方が好きな人もいるでしょうが
どうしてもそこに辿り着くのかどうかと
疑問を持ちたい人もいるし
自分の考えを進めた結果がどうなるのかと
結果を楽しみに待ちたい人もいて
私は解を求める公式を持たずに
自分の出した答えが
その先、同じ式の形になるとしたら
とても面白いだろうなあと感じるけど
求める答えが合ってるか間違ってるかなんて
半ばどうでもいいと思っている。
自分の見たものや感じたもの、手触りや温度、そういう体感や経験を通じて得たものに
魅力を感じる。
そういうふうになっている。
離婚とその後の話
DVの実数は把握できないだろうなと思う。
私はDVを争点にしないように気をつけた。その為にややこしくしたくなかった。
子供にとっての親であることは事実であり、其々どうするのかは子供と親の問題で、自分がもう一人の親として過剰に口を挟むべきではないと考えた。
下手にDVということを盛り込んでしまえば彼等の権利に影響が出てしまうことがないとは言えない気がした。
然しながら、自分では何もしない人と何をどのように決めていくかは難しい。離婚はしたけど彼は身内には黙っているようで、それに伴う問題もまだ残っている。
調停での取り決めでも、彼の希望はおかしなものだった。
毎週末は自分と過ごさせろ、って過剰だろう、と思い半々でなければおかしいのでは?と何とか伝えた。
婚姻費用の分担も児童手当等は彼の財布に入ったままだったり、本人が大分おかしい自覚が無かったお陰で調停員や弁護士さんにも状況が伝わって調停成立に持ち込めた気がする。
裁判まで行けば有利な証拠を自分で出しちゃってる事すら気付かない人で助かった。
今でも忘れられないのが、自分が幸せにしたかったと彼がいったこと。
私は自分で幸せになりにいくのでご心配なく、とお伝えした。
調停までが大変すぎて8年もかけて説得した自分本当に頑張ったなと思ってる。
最近面白い話を聞いて咀嚼するみたいなことから少し離れて、手元の資料を纏め直すなどしている。
他者との関係性や背景の違いを考える時、その背景にある罪悪感や痛み、齟齬が生じる原因となりやすいもの、をより考慮した関係性の作り方を内側に作れるようになったら強いよなあと思う。
と同時に、それを経験がない時でも気付けたかは微妙だ。
痛みや苦しみを肌で感じる事でしか気付けないものというのはあるのだと思う。頭で考えたり、言葉にしたり、それでは追いつかない身体の反応としての。
その身体反応がなんだったのかに気付くには時間がかかる事もある。
その反応を正しく理解できれば、齟齬に気を配らずとも済むのかもしれない。
だが、理解するというのは難しく、そして終わりがないようにも思う。どこで落とし所とするのかは人による。
痛みや苦しみとは認識しないようなものであっても、別の方向から見ればそれと大差ない構造のものは多い。それに気付くのは、痛かったり苦しかったりするよりもずっと難しいのではないだろうか。
また、誰かの話をひたすら聞く、というのをしてみたい気持ちになってきた。
うっかり取りすぎた11+5科目。
ほぼフルタイム学生のようになってしまい焦りながら課題に追われる。
5科目は家族のコロナ在宅療養のケアでテストを先送りした分。今回落とすと辛い。
なんとか残すところ、心理的アセスメントと研究法、統計法、というところまできた。締切は1週間後。焦る焦る。
忌避感強すぎて進まなかった科目にガッツリ目を通してみたら、それなりに面白かったのでモチベーションは上がってきた。1カ月かけて今度は全部の関係性を意識してみてみようと思っている。
どんどん興味の方向が定まってきた感あるなあ。
認知が面白い。今わかっている範囲では説明がつかない認知機能みたいなところは興味が止まらなくなっている。
もうちょっとだけ頑張ってあとは明日頑張ろう。
スッキリしてからじゃないと病院の予定組む元気がない。
闘病中の俄か学生、時々親。
友達とおしゃべりする合間に手術と検査と課題といろんな調整中。
最近の関心は心理学と統計学と情報科学。
なんでもないようでいて大切な、どうでも良くない話をしたいと思っています。