全国
定点 2024-30W
診断日 7/22~7/28
接触日 7/16~7/25頃
定点14.58
一週間変化率 7%(27%){152%}
予測定点(試行中)
2024-31W
診断日 7/29~8/4
接触日 7/23~8/1頃
定点15.61(18.47){20.32}
31Wは、15~19の範囲で下方重心と見込まれる。
沖縄県、南九州で減衰期に移ったと見られる。
九州四国で医療飽和ないし極大期とみられ、31~32Wにも明らかとなる。
西日本全域で増加率が鈍っているが、医療飽和ないし極大期とみられ現時点で判別不能。
11-1st Surgeの成長中心は、東北に移りつつある。
北海道で11-1st Surge再燃。
沖縄および南九州では、すでにML.1 に支配株が移行。沖縄県では、11-2nd Surgeが主波であった。
ラージャマウリとヒンドゥー至上主義とRのラーマ
ラージャマウリ監督のドキュメンタリーで監督の宗教感について話す部分。
交通事故に遭ったとき神に祈る自分はいなかった、ただ必死で現実に対処しているだけだった(から自分はやはり無神論者だ)というのを聞いて、毒蛇に噛まれて死にそうになっても祈ることをしなかったラーマは無神論者として設定されているんだと改めて思った。
だからクライマックスのアクションで見せるラーマの姿はあくまでもモデルとなったアッルーリ・シータラーマ・ラージュの姿であって、ラーマ神万歳!というヒンドゥー至上主義的なものとは違うことを確信できた。そもそもあの場面ではビームも実際のコムラム・ビームの姿になっているしね。
それをヒンドゥー至上主義者が利用している面はあるし、また監督がその危険を排除しようとしなかったとは言えるかもしれないけど、少なくとも作品の意図としてそういう意味で作ってる訳じゃないことは明白だと改めて思った。
『ツイスターズ』(2024、リー・アイザック・チョン)
冒頭で主人公が竜巻の観測・実験中に研究仲間を3人一度に失う。失意で研究を離れ、気象情報サイトのアドバイザーか何かをやってたところへ、何年かぶりでその時のもう一人の生き残りがやってきて、新たに研究チームを立ち上げたから協力してくれって言われて、乗り気になれないまま一度だけというのでオクラホマの竜巻多発地帯に行く。というのが話の始まり。
PTSDもあるトラウマを抱えながらもなんとか生きてる人物像になっている。何故かクローズアップかそれに近いショットの割合の多い”人の顔”の映画になっているのが意外だった。
女性主人公に対して相手役イケメンが登場するけど、恋愛の手前で止まってるのもよかった。
『洲崎パラダイス 赤信号』(1956、川島雄三)
川島雄三は『幕末太陽傳』しか見たことなかったけど、アマプラ見放題終了間近で出てきて、マジかと見てしまった。
遊郭街の一歩手前という舞台設定とか俳優の演技(三橋達也の絶妙なダメっぷり)とか色々凄いとは思うものの、好きな映画という感じにはならない。なんでだろうね。
50年代の神田の電気街、めちゃめちゃ活気があるね、というドキュメンタリー的な面白さがあった。
岡本喜八についての続き。『独立愚連隊』『独立愚連隊西へ』『どぶ鼠作戦』あたりのアクション中心の戦争映画について、娯楽としての戦争映画に拒否感を覚える人もいるかもしれない。でも個人が政治によって圧殺されることに対する怒りや、国威の虚しさとバカバカしさは常に描かれていて、主人公たちがどれほど英雄的な行いをしても最終的には日本という国を捨てる、日本という国から捨てられる道しか選べない、華々しく見えても苦い結末が待っている。
私はペキンパーの『戦争のはらわた』の12年も前に『どぶ鼠作戦』が作られていることになんかすごく感動してしまうんだよね…。
当時流行した東宝のサラリーマンものの系譜上にあるように見える『江分利満氏の優雅な生活』も、戦争を挟んだ親子2代の大河ドラマ的な要素があり、敗戦後の現実にどうにも馴染めない男性の居心地の悪さを描いた傑作だけど、これが大コケして撮りたい映画が撮れなくなったそうです。この映画、繊細な感情のバランスが崩れる瞬間を大胆なアクションで見せる場面がいくつかあって、なんかほんとに胸がいっぱいになるんよ。監督本人が一番好きな映画だそうで、私も大好き。佐藤勝の音楽もうららかさと悲しさが共存してて素晴らしい。
バカじゃね?????
【速報】岸田総理 金融・経済めぐり“アドバイザー相談料8割引きのクーポン券配布”表明
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1336135?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
ノンバイナリーもXで攻撃されているようですが。
そもそも、「ノンバイナリー」もまた自身の内的感覚や生きている状態を「説明」するための言葉であり、形容詞(adjective)です。
名詞ではありません。
この言葉があることで、社会のなかでどちらの性別集団にも帰属感を抱けない自身(あるいはシスノーマティビティやジェンダー規範の枠組みのなかでは生きられない自身)のあり方を言語化して説明できるようになり、そしてマジョリティに埋め尽くされたこの世界の大海原のなかで同じ言葉で自身を説明している極少数の者同士が出会う目印となって、言葉や経験の交換などのコミュニケーションが促進されたり、ロールモデルを知る手掛かりにもなります。
もし、より多くの人と出会っていくうちに、「ノンバイナリー」という言葉だけでは自分の内的感覚を共有しきれない/共有できないと感じたなら、よりフィットする言葉や表現で自身を語り直していけばいいだけのことです。
赤の他人が、こうした人たちにとって大切な大切な言葉を無効化したり、奪ったり、ジャッジしてはダメなのです。
『恐怖の一夜』(1950、マーク・ロブソン)
病身の母親と二人で暮らす少年、花屋の配達の仕事は薄給で貧し生活の中、遂に母が亡くなってしまう。母親に満足な医療を与えられなかったことを悔いてせめて葬儀だけでも立派なものにしようと奔走するがその中で相談に行った教区の神父を誤って殺してしまう。
捜査から逃れつつ、母の立派な葬儀を諦めきれない少年。ところが別な強盗容疑で捕まった街のゴロツキが神父殺害で誤認逮捕され、罪を逃れられたかと安心するが、柩で葬儀を待つ母の顔を見るうち良心に目覚め自首を決断する。
と言うお話。犯罪映画いうより少年の成長ドラマ。今の言葉ならヤングケアラーと言えるかもしれない少年を『夜の人々』のファーリー・グレンジャーが繊細に演じていて素晴らしい。貧困の中仕事と母の世話に必死で、18,9にはなっているが中身は未熟で視野の狭い子どものままと言うような痛ましを表現していると思う。
少年の住む安アパートの吹き抜けの周りに様々な人が暮らす空間の感じも印象的。
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映画の感想などを呟くことが多いです。(←となる予定です)
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