いくら場が「荒れる」ことだろうと、正しいことを言っているのだから好きなだけ主張するというのは、確かに個人でやるぶんには結構なことだけれど、それが集団のうねりになった結果として「荒らされてしまった」場所で、誰がもっとも傷つくことになるのかとか、そうやって場所が「荒らされた」ことで生まれる傷をケアするためのコストが誰にしわ寄せとして向かうことになるのかとか、まったく想像しもしないのは一体どういうつもりなのか。そんなことは考えるつもりも考える責任もないと言うのなら、もうマイノリティの状況になんて関心がないとはっきり言えばいい。社会運動における「ケア」の問題がこれだけ認識されているのに、どうしてそんな非難の濁流のようなことを続けられるんだ。
ふと思う、人はなぜ小説を投稿する/書くのだろう(商業を目指す場合)
私がぱっと思いついたのはこんな感じです。
1. 腕試し
2. ○○(任意のジャンル)小説家になりたいから
3. 文章を書く副業・本業を持ちたいから
4. 制作が楽しいから
5. 人を喜ばせたい、驚かせたいから
6. 特定の表現/問いを世に出したいから
https://digital.asahi.com/articles/ASR8H6VDYR84UPQJ00W.html?ptoken=01H8X89C896NV870V22NB9Y5JG
国の対応とネットでのバッシングは本当におかしいので、是非読んでほしい。
今日は新宿で井上ひさしさん原作の舞台『闇に咲く花』を観て、終わってから時計を確認したら16:10過ぎだったので、17:00からの芥川賞直木賞授賞式に間に合う!と思って割と駅を必死めに走って、大人の顔と首にはなかなか見ない量の滝汗と共にギリ間に合った。
『ハンチバック』の市川さんの受賞コメントを聞きたいので超走った。
すごくよくて大拍手したし、目尻に少し水が出た。
以下、わたしの曖昧な記憶のメモで不正確ですが…
SNS炎上の話
ナベツネ「悪名は無名に勝る」
読書バリアフリーを標榜しており、電子書籍を出さない作家(ピー)に手紙を書いたことがあるが、スルーされた。
20年も落選させ続けたライトノベル界への呪詛。
しかしこの場を借りて御礼申し上げたい(芥川賞という結果につながったからかな)。
『ハンチバック』で復讐するつもりだった。私に「怒り」を育ませてくれてどうもありがとう。
しかしいまここにいると復讐は虚しいとも感じる。私は愚かで浅はかだと。
愛の作家になれるようがんばりたい。
以上…
「怒り」というキーワードに強く反応した後、とつぜんの「愛」に驚いたし心に届いた。
B型事業所の見学をしたことがある。その事業所では結構立派なお弁当やパンを作っていた。
「健常者が作ったなら能力の高低に関わらず時給1000円はもらえるのに、同じ食べられるお弁当を作っているのに、どうして障害者が作ると時給100円になるんだろう」
そういうふうにしか思えなかった。
その事業所では交通費の支給もなかった。障害者が働けば働くほど赤字。
しかも働く場ではなくて障害者の訓練の場と言ってる割に、就労につながるスキルが身に着く作業はないんだよね。み〜んな嘘つき。
「ジェンダーの人」は私の知る範囲内だと2000年代後半にはフェミニズム系の主張をする人や組織に対する揶揄のニュアンスを込めて使われていて、なんとなくバックラッシュの影響かなと思っていました(その前からあったかもしれないですが)。
ただその時には「トランス」ではなくてあくまでもフェミ系を指す言葉で、それがトランスジェンダー自体を指す形でも使われるようになったのはすごく最近だという気がします。
出所がそこかどうかはわからないけれども、トランスを「ジェンダーの人」と表現するのを見聞きすると、トランス嫌悪を梃子にして感情的動員をかけた反ジェンダー運動の影響がここまで及んでいるのかと思えて、とても嫌な気持ちになります。