川の中州に小鷺さんの羽を発見したので家から長靴を持参し点検用手摺からアタックをかけ無事ゲットしましたヒャッハー(仕事しろ)
社会正義が生死に直結する個人ないし集団もいるわけだが、「仲間だと思ってた人たちから石投げられてしんどいですぅ~」で社会正義からちょっと距離を置けるって、大層良いご身分ですねぇくらいのイヤミは言ってもバチはあたるまい。
昨日から話題の朝日新聞星野智幸寄稿、これについているコメントプラスを読んで、いろいろびっくりした。
いずれのコメンテーターも、ひどく「正義」に疲れていたり、「正義」に依存なさっていたご様子だが、それはホントなのか? それってバーナム効果なんじゃねえの?……と思うが、いずれのコメントにも欠けているのが、こうした「正義疲れ」を満喫できる自分ってなんなの?という自問だ。
https://www.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html
「「正義」の無謬性に完全服従し全身を預け、個人を重視するはずのリベラル層が「正義」に依存するために個人であることを捨てている状況。」(能條桃子)
おいおい、「個人であることを捨ててる」ホントかよ的に唖然。
「この虚しさを振り切っていくつか論考を書いたのだが、そのとき私の胸に去来したのが「正義」への依存だった。自分は正しい指摘をしている。そう自らを鞭打って、今やるべきことをしなければならないのだと自らを納得させ、進まない筆をなんとか動かした」
(平尾剛)
えっ、それは「正義への依存」なんですか?
「純粋に善や正義を求め、悪を排そうと正義感をかきたてると、集団も自身もカルト化するのになかなか気づかず、ブレーキはかけられないのだろう。」(江川紹子)
はいはい、カルトカルト……
小説家が新聞に短文を載せるって、プロモーション活動の一環やと思うんよ。
ワイはそう思って読んでる。
好きな…というかよく読んでる作家さんが載せてるの見てると、あー、らしいなwみたいになることが多い。
筒井康隆のは、あー、通常運行、炎上しそう…と思ったりしてw(そして炎上する)
星野智幸氏はあれで新規読者を獲得できたんやろかねえ。
話題にはなったから、読もうという人は出るかもしれん。それだけで成功なのかもしれんが、ワイのように、今後一切手に取ることはねえなあ…と思う人も出てくるんちゃうかな。
あと新聞掲載されたからってのと全然ちゃうけどチネンミキヒト先生の小説は断じて読むまいと決めているwTwitterでのプロモ活動失敗例として記録に残すべき。
本棚に居なくて安堵チネンミキヒト(ラップ)
「正義」とか「悪」とかを実体化して語るところからして落とし穴で、担い手である人間が消える。前掲の関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺にしても、ある人間たちが・特定の信念にもとづいて・虐殺したというしくみを、抽象化して文学的修辞におとしこむのよくない。
「「やつら」を懲らしめようとする正義の暴走です。関東大震災の時の朝鮮人虐殺が、まさにこれでした」
https://www.asahi.com/articles/ASR9X3SH1R98UPQJ00J.html
佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪』を読むと、自警団構成員は「殺してもいいという国家のお墨つき」が出たとして倫理のリミッターを外していたことが指摘されている。
「民衆は国家の後ろ盾を強く意識し、「公許の殺人」を犯したと認識していた」
「国家との間には、前線の兵士同様に「殺しても良い」という黙契が成立していた。当初の経緯を考えても、彼らがこの黙契を信頼するのは当然であった。言い換えれば、彼らは町や村を代表して、朝鮮人に「報復」を加えた」(以上、上掲書)
「俺がやる」と「やってもいいらしいからやる」との違い。「せっかくだから殺した」的な証言もあった。
「正義の暴走」と(いささか紋切り型に)抽象化する前に、国家という権威が許せばぶっ殺してまわる根性をえぐり出したい。
(2023年10月3日のツイートを再掲)
Dschinghis Khan - Dschinghis Khan https://www.youtube.com/watch?v=UCpZUs-pCGE&si=yyotjaWdkeRF5SqA
MVの景気がいい
しがないダブルワーカー【ネトウヨ・ペド・レイシスト・宗教・スピ・疑似科学・陰謀論・各種ビジネスお断り】