アリストテレスの「修辞学」は、とりわけ、立証の、推論の、近似的三段論法(エンテューメーマ)の修辞学である。それは、意識的に程度を落し、《公衆》の、つまり、常識の、世論のレベルに適用された論理学である。
その大衆文化では、アリストテレス的な《真実らしいこと》、つまり、《公衆が可能だと思うこと》が支配しているのである。なんと多くの映画、新聞小説、商業的ルポルタージュがアリストテレス的規則をモットーとしていることだろう。《真実らしくない可能なことより、可能でない真実らしいことを》。現実に可能なことでも、世論という集団的検闇によって拒否されるならば、それを語るよりは、たとえ科学的に不可能であっても、公衆が可能だと思うことを語った方がいいのである。
このような大衆修辞学をアリストテレスの政治学と対比するのは確かに魅力的な試みだ。それは、周知のように、中産階級を主体とする均衡のとれた民主政治に都合がよく、金持と貧乏人、多数派と少数派の敵対を減少させる任務を帯びた中庸主義の政治学であった。そこから、意識的に公衆の心理に従う良識の修辞学が生れたのである。(『旧修辞学』ロラン・バルト、みすず書房p28)
兵庫県知事選挙をどう分析するか。こんなところにヒントがあった。
"男子テニスの四大大会で3勝し、パリ五輪後に現役を引退したアンディ・マリーさん(英国)が、同24勝のノバク・ジョコビッチ(セルビア)のコーチを務めると23日、マリーさんの代理人が発表した。AP通信が報じた。"
BABYMONSTER、NHKで“圧巻のパフォーマンス”予告 11・30『Venue101』出演へ
https://www.oricon.co.jp/news/2355687/full/
わたしは分離主義的な思想や運動にはとても惹かれるところがあるのだけれど、分離主義のなかには徹底的に自分を無力な存在として位置づけ、他者とともに社会を変えることを放棄した先にある「敗北主義的な分離主義」があると思っている。現代にもある。
敗北主義の悪いところは、ひとつには、自らがなす加害について、はじめから自己を免責しているところ。無力な自分には他者を害する能力もないと、いつまでも開き直ることができる。これは、「影響力がありそうな」人間に対しては何を言ってもよいという意味不明な行動原理ともつながっている。
ふたつめは、発言や行為の結果についてなんの考量もしないところ。敗北主義ははじめから敗北しているので、そもそも社会を変えるための議論や実践、想像を進めるという社会運動のフィールドに参加していない。結果として、そうした敗北主義者は「私たちはこんなにも差別されているのに、なぜあいつらの方が優先されるのだ」という怨嗟によって他のマイノリティ集団の排除の存置に加担したり、現実を生きる人間の権利や福利とは関係のない「原理原則」を勝手に設定して、その設定に乗らない人を糾弾したりする。だめ。
米国がここまで幼児化するのは誰も思わなかったでしょう。
あれだけ自然科学社会科学で世界最高峰の大学を多数擁している国で、なぜこんなことがおきるのか。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1572369
リニアルートをリアルニートに空目
しんぶん赤旗から
リニアルート上に18校/東京・神奈川・愛知 敷地の直下 掘削も https://www.jcp.or.jp/akahata/aik24/2024-11-20/2024112001_01_0.html
デモやります!!!
私のからだデモ ~私のからだは私のもの~
*2024年12月13日金曜日
*19時~20時30分
*東京駅前行幸通り
私の身体(からだ)を生きることを妨げる、全てのものに対してNOを言うために。
「少子化対策」などと言いさえすれば、どんな暴論でも許されるかのような政治家にNOを言うために。
自分の身体(からだ)を生きるために必要な医療へのハードルがまだまだ高い現実を変えるために。
自分の身体(からだ)を生きるために必要な性教育を受ける機会を、あまねく取り戻すために。
自分の身体(からだ)よりも会社の都合を押し付けられる、超長時間労働の生活破壊システムに「おかしい」と改めて言うために。
―――そのほか、なんでも。あなたの声を聞かせてください。どなたでも、前で話していただけます。
絶望しそうになる世の中で、集まって声を上げましょう。互いのからだを大切にする社会を作るために、集まりましょう。
https://watashinokarada.my.canva.site/
デモやるよ―――🔥🔥🔥 [参照]
「ここにある一切は、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。」―「彼自身によるロラン・バルト」扉表紙