一年以上ブーツ履いてない気がするんですが、持ってるブーツの形は好きだし本当にかわいいしかわいいし、えっかわいい………………すき……………………と思って買ったやつなので大事に大事に取ってあります。10年くらい前に買って、大体年に1~3回くらい履いている。履く度にえっかわいい…………ってびっくりしている。これね内側にがっつり装飾性のあるファスナーついてるんだ〜〜!!
もちろん「ガチで拡散したい物事がある」という目的がある場合だと、やっぱりデメリットもいくつか思いつくのだけど。例えば、ネップリはどんなに安くて気軽でも、いいなあ〜と思った人が立ち上がって靴を履いて出かけて、そうやって積極的に動かないと手に入らないもので、だから基本的に関心がある人じゃないと手に取らない。“広く知らしめたい” 発信の場合、大概は「関心がない人」に届けるのが目的であるので……そこらへん難しいよね。その場合はネップリ「だけ」では難しそう。そういう意味で、アルビジアさんの反骨装身具は自前で刷りつつ、ネップリとDLで周囲の関心のある人を「主催」にさせることで拡散させていってて、めちゃいいなあと思っていた。お金かかるけど泣
BT 「ネップリで自分の意見を発信する」というの、いいなああめちゃくちゃいいなああ!!!
自分が選んだ言葉を、ネットに流れていく形ではなく、目の前に存在させる、というの、かなり “強い” よね。「あ〜なんかいいものネットで見たんだけどなんだっけな……」がない。流させない。
物理的にペーパーが存在するというこの “強さ”。手に持っている、机の上にずっと置いてある、部屋の隅に飛んでいってしまった、質量のあるその一枚の紙というものを持て余す人もいると思うんだけど、その「持て余させる」という現実への影響力はデジタルでは得られないものだと思う。……なんかネガティブな言い方になってしまったな…………違うんだ…………関心のない、そういう人たちにも残りやすいなっていう…………
こないだ、とりにくさんという方のZINE(ネットプリント)を読んだ。
https://twitter.com/trnk_days/status/1613798346531168258
この7カ月の間にあったことがランダムに、生活のいろんなことが書かれて(描かれて)いたのだけど、その真ん中ちょい右ぐらいに大きめに書かれていたのがお金の話だった。
〈金って道具で、交換券で、おたのしみチケットみたいなもんで、それに生活が左右されているのをみんながヨシとしてるの、なんで???とおもう〉
というところが本当にそうだそうだとなったし、その前後ももうほんとに握手したいことだらけで……(同じ「来月収入なければいよいよ詰む、の頻度も増している」一人としても)。
さっきの田淵さんの投稿もそうだけど、「『しょうがない』ことなんかなんもない」って言っている人がいることが私を支えてくれたみたいに、私も「『しょうがない』ことなんかなんもない」って言う必要があって、その手段はいろいろあるなって思ったのだった。
だからこそ、私は今年こそは日記をなるべく続けて書くんだ……それを紙でなんかしたいんだ……
BT これは私も、ちょっと驚きとともに思ったなあ…………。私もTwitter使い続けてるし、完全に切るってことはしていない。していないけど、していないことにこう……思うところもあったりするんですよ。何せTwitterあんな感じなので…………。まあ使うんですけど。
まさに私は今のとこ、『特に拡散したいこと、周知したいこと、Twitterで問題になっていること、はTwitter。それを含めたどーーーーーーでもよいこと楽しいこと悲しいこととにかくなんでも、はマストドン』になってる。
完全にアカウントを消すとか投稿をやめるとかいう「ストイック」な形じゃなくても、クロスポストで同じ投稿を同じ量だけするのでも、なんというか『住処の軸足をどこに置くのか』の選択は、pixivやnoteに反応するのと同じようにTwitterに対してもとりあえず “悩む” もんだと思ってて、というか私は少なからず模索してこうなったので…………。それがメインの動きじゃなさそうかも?? ってとこが単純に意外だった。「これTwitterじゃなくてもいいよね(つまり拡散の必要性がないやつ)」というやつは、こっちでキャッキャしたりしんみりしたり怒ったりしている。
Twitterが使える間は使うって人を見てて思うこと
@ichikawathrives もちろん、ソーシャルサービスって自分だけが使用ツール変えるのって難しくて周りの人とかとか一緒に移動しないと意味ないから「移行したいけどできない」場合もあるんだろうなとは思うよ。
あと、移行後も、情報拡散とか戦略的にTwitterで活動するのは自分もやってるし全然「あり」だと思ってるけど、なんというか普通にマストドンでもよさそうなのに日常の呟きとかをTwitterに戻してる人たち見ると、あーやっぱり使い慣れた取りに戻ったのかな?って感慨を持つ。
慣れ親しんだ環境を変えること自体は難しいし社会もこーゆーことの積み重ねだから変えるなかなか変わらんよねと思ったってこと
Twitterが使える間は使うって人を見てて思うこと
マストドンに殺到した人かなりTwitterメインに軸足を戻してて、結局リベラルとかクィアと言っても、Twitterの運用ポリシーではなけ、単にTwitterが「使えなくなる」と思って移行焦ってただけの人がかなり多いんだなーと痛感してる
別にそれがよいとか悪いとか価値判断してるわけではなく、シンプルに事実として興味深く。
自分もTwitterにクロスポストはしたり、スペースをまだ使っているかど、基本軸足マストドンに移行してて、マスクのオーナーシップのもとでのTwitterを使い続けることに対してuncomfortableな気持ちが常に消えないので、切実に拡散させたい!とかそーゆーの以外でTwitterにだけ日常ツイを出し続けるとか、そーゆーのを見ると自分との違いを見せつけられる。
個人の考え方の違いといえばそれまでだけど、普段様々なトピックで社会を変えようとしたり、社会問題に取り組んでる人自身が、結局自分のツールを変えることをできないのだとしたら、まぁ社会とか人間の行動とかがなかなか変わらないのもむべなるかなとか思ったり。
これが “しょうがない” わけがないじゃん……電気代のために食事を切り詰めてる人達の前で、軍事増強は “私たち” を守るために必要だとあろうことか増税する。ランチ切り詰めてんのに!?
もう散々言われているけど、その “私たち” は、これを書いている “私” と “あなた” と “あなたとあなた” ……の積み重ねじゃないんだな。あくまで “あなたたち”。私が私の権利や幸せを欲しいなって思うことは、たぶん贅沢でわがままで邪魔なものなんだ。重要なのは個じゃなくて。政権が、人権、個人の権利、尊厳を邪魔だとしているのも頷くしかない。きっと簡単に殺されるだろう。全体を構成するのは “私” でなくたって全然いいので。感染したら家で寝ていろ、と言われたように。
今朝の新聞の一面、
『東電、電気代29%値上げ申請「ランチ代を切り詰めるしか……」』と、『防衛費倍増、国会素通りの安保大転換を正当化「今を生きるわれわれが将来世代への責任として対応していく」と断言』が並んでいて、これが戦前でなくてなんなのよ、と思いました。なんなのよ。
そうかあ、そっちが大事かあ、ってなるよ(ならない)。
ジーン・シャープ じーん・しゃーぷ 3回目-2
ゴルバチョフ政権が軍事介入
テレビの力で欧米が非難
もっともらしい攻撃理由を与えない
エリツィンとモスクワ市民の非暴力による非服従→ソ連はバルト三国の独立を承認
失敗例の話
無計画
楽観的な闘争、メディアで取り上げられたことによる慢心は厳禁
心の底では信じていない 半信半疑
#100分de名著
ごるばちょふせいけんが ぐんじかいにゅう
てれびの ちからで おうべいが ひなん
もっともらしい こうげきりゆうを あたえない
えりつぃんと もすくわしみんの ひぼうりょくによる ひふくじゅう→それんは ばるとさんごくの どくりつを しょうにん
しっぱいれいの はなし
けいかく
らっかんてきな とうそう めでぃあで とりあげられたことによる まんしんはげんしん
こころの そこで しんじていない はんしんはんぎ
ごった煮アカウント。漫画と文章と食べ物が好きです。2016年のアニメYOIをひたすら噛み締めています。たまに粉を焼く。人種、ルーツ、外見、障がい、ジェンダー、セクシュアリティ、トランス差別に反対。
最近ちらほらフォローしてくださる方、こっちはほぼ動かしていないサブアカになりますのでご留意ください。
大体こっちにいます→ @kitsunekirin