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サルアが残りの人生を良くない感じで送りそうなのは安心するところだけれども、死を利用したのだと提示したのだからもっと厳しく書いてほしかったとも思う。

以前、「秋田の書く暴力って女に対してのそれはまあまあアレでは?」てな文章を書いたが、好きな作家だからといいように言わず、もっと解体しないといけなかったな。

さておき、「感情(と一般に言われるもの)と自制(と一般に言われるもの)のせめぎあい」であるとか、「人を助けるというのは真にその相手を助けるものなのか?」というテーマが、なぜ「男たちが女の肢体/死体をどう扱うかを密室で語り合う」モチーフを通して描かれねばならなかったのか、という疑問は残る。
「ひとつ火の粉の雪の中」新装版エピローグもまた、その場にいない女によって男たちが結びつくシーンであり……。

ローグタウンはオーフェンの逆鱗だと語られるし、「開戦」でオーフェンはそれに則った脅し文句を吐きつつヴァンパイアを痛めつける。だがその言い方はあまり真に迫ったものではなく、どこか自分自身に言い聞かせている風情すらある。このシーンに限らず、第四部のオーフェンは台詞にしろモノローグ(カッコ書きでない地の文でさえ)にしろ読者が本当のところ何を考えているのか読み取りにくいよう書かれていると思える。嘘もついてはいないにせよ。

「終端」がメッチェンとアザリーを対比させているなら、「鋏」でメッチェンと対比されているのはクリーオウになろう。
「サルアは復讐に奔り、そのために自分の力を振るうことを決断した。しかしその裏には開拓地と都市のいざこざを一掃する打算もあった。つまりメッチェンの死を利用した」であり、導き出されるのは「オーフェンは復讐しない。力を使わない。クリーオウを利用しない」だ。
怒りのままに力の誘惑に乗ったことを責めつつ、怒りばかりではなく立場の苦しさもあるだろう……と考えている。しかしこれは理解を示すものではなく、実は打算、人の死の利用を批判しているのではないか。「未来」で復讐に狂ったのてあれば話は早かった、と胸の痛みを感じていることを考えれば。

「終端」の魔王の力についての問答は、「変化は不可逆である。万能の力は他人の誇りを奪いうる」でありつつ、「男は女を助けない」という確認を行うものだったのではないか。
死者の蘇生がアザリーを指すのか? というのは疑問だったが、メッチェンが引き合いに出されていることに焦点を合わせればそう読める。「サルアはメッチェンに治療の可能性を伝えない。なぜなら魔術『なんてもの』を欲しているかどうかは彼女自身が決めることだから」であるなら、「オーフェンはアザリーを蘇生させない。なぜならアザリーは自らの意思で犠牲になることを決断したから」という話をしていることになる。

風呂の栓をしないまま風呂をわかしてしまった。ちなみに我が家はリモコン式ではない。

「ゲゲゲの謎」について、「日本の戦争の罪について正面から取組んでいる」てな感想をいくつか見かけ、しかし日本のインターネットは「いだてん」をスポーツの政治利用を批判する作品で攻めていると称賛するような言説空間だからなあと思い直す。(一応言っておくと「いだてん」はスポーツ礼賛、五輪礼賛一辺倒ではなかったし批判する意図もあったとは思う。だが、スポーツと政治にしろスポーツとジェンダーにしろスポーツとナショナリズムにしろかなり片手落ちでわたしはまったく褒められない)

「ゲゲゲの女房」がBS12で放送されるらしい。わたしは数年前に再放送で見たのだが、悪書追放運動の描写が昨今のインターネットにおける「表現の自由」ぽく感じられたり、最終回で主人公が内助の功を褒め称えられ「ご主人が成功したのは奥さんの力の賜物です」「奥さん」「奥さん」の連呼があったり、なかなかにキツさを感じた。
本放送で見てたら気づかなかっただろうとも。

トライガンの昔の同人誌を読んで、エレンディラの描写に「あ゛ー」って言わざるをえなかったぜ。そもそも原作からしてあんなんだからな。

二次創作で出てくるのは「原作をどう解釈したか」よりも、書いた人間に内在する社会への価値観ではなかろか。

迷ったが補足を入れる。この手のは二次創作でよくあるやつだし否定的な感情とまではいかない。最後の「なんだかなー」は、描いてらしたかたが普段「原作の描写と矛盾する、しかし二次創作でよくある猫写」に否定的な見解をよく示していたのでそういう感情がプラスされた。「そういうのは趣味じゃない」ならともかく、「原作を読んでないんじゃないか」は言いすぎでしょう、と。

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スタジオディーン版の感想文を書いていて、自分自身が「原作から変更している。加点」という判断をしがちな人間だと気づいた。
原作のニュアンスを変えるとか、台詞をばっさりカットしてカメラの動きだけで表すとか、そういうポイントに好意的な評価をする傾向にある。

そういえば先日「モブサイコ100」の霊幻新隆が子供をちゃんと子供扱いしている云々の話を目にした。しかしわたしにはあれは「子供に頼っているとみせて実は頼られている間柄に依存している人物」と見える。とはいえわたしは途中で脱落してしまったので、あのあと変化しているかもしれない。(というか子供をちゃんと子供扱いするってそもそもなんだろう)

「ゲゲゲの謎」、面白いんだろうと思うが、どうも「男二人が強い絆で結ばれる。女は死ぬ」話ぽいのがな……。
あとこれはアニメの「墓場鬼太郎」の影響で、ほのぼの育児二次創作にはもぞっとする。

成人男性が子供を慈しんでいる感じの二次創作を見ると、育児のいいとこ取りをしてるなという感情が発生する。
似たようなやつで、登場人物の中から任意で三人ピックアップし、それぞれに「おとうさん、おかあさん、こども」と役をそれぞれふっている二次創作を見るとすげえ強固な家族規範だなと思う。(こども役のキャラクターに、原作で親が登場している場合、ちょっと「?」という気持ちになる)(複数の子供がいるキャラクターAに関連するカップリングで、こども役に一人だけが選ばれていた場合はなんかなーという気持ちになった)

気が済んだから削除するか〜ってやってたらせんでもいいのまで削除してしまった気がする。まあいいか。

つまらなかったのは事実だが、視聴にあたっての精神的負担はさほどなかったし、むしろつまらないから適当な態度でよく、それで視聴が続いた面がある。
4クール49話ぶん、無意味な時間を過ごしたかといえば、まあその通りなんじゃないか。視聴しなかったらもっと有意義なことをしてすごせたかというと疑問だが。

アニメなりなんなり、翻案作品の出来がまずかった際にしばしば「原作既読者が気の毒、かわいそう」とか「よく最後まで見た。よく耐えた」とかいう言いまわしがあるけれども、今回についてはそういうふうに見られたりしたらかなわんなー、の気持ちで感想文を書き続けた。

こっちにも投稿しておこう。
スタジオディーン版「魔術士オーフェンはぐれ旅」4期12話感想文を書いた。今月中には絶対投稿すると決めていたので、目標を達成できてよかった。
kisada.hateblo.jp/entry/orp_de

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