真木悠介『自我の起源』のあとがきはほんとうにいいな。これまでに誦じられそうなくらい繰り返し読んだ。なんでもかんでもすぐ忘れるから誦じられないけれど。
「この仕事の中で問おうとしたことは、とても単純なことである。ぼくたちの「自分」とは何か。人間というかたちをとって生きている年月の間、どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか。他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか。そういう単純な直接的な問いだけにこの仕事は照準している。
時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに、ほんとうに切実な問いと、根柢をめざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに、わたしはことばを届けたい。
虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言説は未だ崩壊していない。だからこの種子は逆風の中に播かれる。アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちの内に、青青とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類の仕様のない書物を世界のうちに放ちたい。 」
真木悠介『自我の起源』(岩波現代文庫) p.207」
見田宗介の言葉を借りれば、「近代的合理性」とは生活を生産に全面的に奉仕させる「生の手段化」の謂である。
この「生の手段化」を正当化する近代の理念とは「自由」と「平等」であり、じっさい「近代的合理性」が実現してきた経済成長はいくらかの人々の「自由」と「平等」の領域を拡充したことはまちがいないが、「合理化」のプロセスの内外において疎外され、「生の手段化」を強いられてきた者たちにとっては「自由」や「平等」を抑圧するものでしかない。
幼少期に自身を魅了した映画を、大人になったいま観返すこと。そのなかで得た直観は、ここにありえたかもしれない現在の「父」の姿が予感されている、というものだった。いまだこの国に蔓延る家父長制の粉砕を夢見るとき、自身をフェミニストと自認しすこしでもマシな実践を模索するとき、「父」なるものの有害さばかりが意識され、「男らしさ」をそのまま悪なるものと断じてしまいたくなる。しかし現状を確認したときにすぐさま気がつくのは、打倒すべき「父」なるものはすでに失効しており、ただ構造としての家父長制だけが残置されているということである。産湯と共に赤子を流すというが、むしろ「よき父」という赤子だけが流されてしまい、居残った臭い産湯が「男」の本質であるかのように捉えられているのが現在の状況ではないだろうか。(…)
では、「父」においてよきものとは何か。僕はこの問いを前に長年立ちすくんでいた。そのようなものが果たしてあるだろうか。(…)そんななか、『ベイブ』を再発見したのである。当然、飛躍である。本稿は、映画論を方便としたごきげんな男性論の試みでもある。
(「はじめに」より)
Now Playing: "Believe E.S.P." from "Friend Opportunity" (Deerhoof)
#NowPlaying
8/27(日)夜、『文學界』9月号のエッセイ特集にまつわる座談会が緊急開催されます。論考を寄稿しているライターの宮崎智之さん、『文學界』編集長の浅井茉莉子さんと共にエッセイの現在地を探ります。
来週末といきなりの開催ですが、会場参加も配信もアーカイブもありますので、ぜひぜひこの機会に一緒に『文學界2023年9月号』の特集を読み込んでみませんか。今号からは電子版もあるので、イベントチケットと一緒にいますぐ買って読むこともできます。ぜひに!
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配信予約:https://unite-books.shop/items/64df29e440aa620a722e8939
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真実らしさに惹かれるとき、「らしさ」の演技性ではなく、「真実」のほうに重きを置いてしまうというのは非常に危険な錯誤であるとすら思う。真実を求めれば求めるほど、国家も資本主義も自我も、すべてある時代や環境によって構築された価値体系を前提としたひとつのフィクションであることへの盲目がいっそう深く根付いてしまう。これしかないという感覚は、息をしづらくする。楽しくやっていくのに必要なのは、これ以外もある、という予感だ。
よき噓つきは、凝り固まったものの見方を誇張的に演技することで「らしさ」を成立させる条件を明らかにしたり、いま主流である真実らしさとは別様のホラを吹くことで「真実」のありようを複数化して相対的な価値判断への道をひらく。ああ、こうしなきゃいけないわけじゃなくて、ああいうのでもいいんだ、と肩の力が抜けるような嘘。そういうのが好き。
子供のころに眺めていた『不思議どっとテレビ。これマジ⁉︎』や『奇跡体験!アンビリーバボー』、夏の心霊特番のようなオカルト番組が本当に好きで、でもいつからか「嘘じゃん」「やらせかよ」みたいな言及をワイプで抜かれたタレント自身がコメントするようなバカげた事態が進行し急速につまらなくなった。これはエッセイの裏にほんとうの経験を読み取ってしまう読者の問題と裏表だ。嘘かまことかを軸にして面白くなることはない。明らかな嘘に「でも、もしかしたら……?」とこちらの認識を揺らがせる説得力を持たせる技こそが魅力であったのに!オカルト番組は真実らしさの演技をやめた途端に、なにもなくなってしまう。誰も真実などという中身は求めていなかった。喚起力に富んだパッケージに惹かれていた。内容ではなく、身振りのほうにこそ果実があったのだ。
エッセイにせよ私小説にせよ、あるいはミュージシャンや俳優なんかもそうだ。パフォーマーのパフォーマンスは一種の方便つまり演技である。こう言うと、「人を嘘つき呼ばわりするなんて」みたいな、どちらかというとネガティブな指摘であるという印象をもたれがちのようだ。僕は真実よりも「らしさ」のほうが大事だと思っているので、演技にこそ惚れ惚れする。「その嘘のつきかたがすてき!」「鮮やかに騙されてきもちいい!」みたいな。
これからのエッセイ・随筆シーンを考える起点のひとつになるであろう『文學界2023年9月号』。きょうから電子版も販売開始です! 文芸誌デビューにももってこいの内容でもあるので、この機会にぜひ〜
https://www.bunshun.co.jp/business/bungakukai/backnumber.html?itemid=980&dispmid=587
そんなことを考えつつ、いまの関心はすこし別のことで、もしかして「僕って頭いいのかも」ということだ。
どういうことかというと、僕はこれまで(いまでも)自分のことを「この世の誰よりも頭よくない」と思っていて、だからこそ他人の合理性につよい関心がある。人と話したり本を読んだりして、誰かの合理性を支える価値体系のようすを知るたびに「すごい!」と面白がっていた。
でもこの調子で面白がることじたい、かなり「頭よいこと」なんじゃないか? その「頭よさ」に無自覚なまま振る舞っていると、かなり有害ななにものかになるな、という感覚がさいきんはある。
貧乏な幼少期を送った成り上がり者が新自由主義的な価値観を素朴に内面化してしまうように、「頭よくない」という感覚を持ちすぎるとほかの「頭よくなさ」に対する不寛容が根付いてしまうのではないか? 俺はちゃんとやってるからこの程度の「よくなさ」で済んでるのに、誰々ときたら、みたいな振る舞いをなんも考えずやらかしてしまってないか?
まだうまく言えないけど、自分は「頭よい」ものとして書いたり喋ったりするほうがいい場面もあるかもしれないなと思い始めたという話だ。
かきないしょうご。会社員。文筆。■著書『プルーストを読む生活』(H.A.B) 『雑談・オブ・ザ・デッド』(ZINE)等■寄稿『文學界』他 ■Podcast「 ポイエティークRADIO 」毎週月曜配信中。 ■最高のアイコンは箕輪麻紀子さん作