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当事者としての身体感覚と思想のどちらかではなく両方ともを使って塩梅を探るほかない。

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弱さに寄り添うようでありたいけれど、自分から弱いほうに近づいていって弱ってみせるというのは欺瞞だ。構造のなかで相対的にもっている強さを否認するわけにはいかない。弱さの側からの視点を装ってものを言うのではなく、こうむっている優位をことさらに卑下するでもなく、強くも弱くもあるこの地点からの言葉を探すこと。安易なポジションに自己を定位してしまわないようにすること。

FGOというスマホゲームにこの二年ほどハマっていて、キャラクターやアイテムをランダムに獲得するいわゆる「ガチャ」を回すためは「石」というゲーム内通貨が必要なのだけど、先日サービスの周年記念でこの「石」が無料で何百も振る舞われた。

ふだん一回か二回ガチャを回せるかどうかという状態だったのに、十回を超える試行が可能な数をいきなり手に入れてしまうと、何度も回せてしまうというのがストレスになって、好きなキャラクターが特集されるのを待たずに無為にパーッと使い切ってしまいたくなる。

人は可能性がふんだんにあるという状況に、そこまで耐性がないのではないか。

文學界、めためたに売れて増刷して本にならないかな。

日傘がとうとうばらばらになってしまって剥き身で外歩いてるのだが、酷い。

柿内正午 さんがブースト

本日発売の『文學界』9月号に「エッセイという演技」という文章を寄せています。エッセイに限らず表現全般への賛辞として「嘘がない」という文句が膾炙している状況への異議を申し立てています。「論考」と銘打たれていますが、僕はこのエッセイ自体も一種の演技として書きました。僕は嘘つきが好き。

寒いより暑いほうが気鬱が促される感じがあるな。

本日発売の『文學界』9月号に「エッセイという演技」という文章を寄せています。エッセイに限らず表現全般への賛辞として「嘘がない」という文句が膾炙している状況への異議を申し立てています。「論考」と銘打たれていますが、僕はこのエッセイ自体も一種の演技として書きました。僕は嘘つきが好き。

週明け7日発売の文學界9月号。エッセイ特集ということで、公開を前提とした日記を起点にひろくエッセイ的なものについてあれこれと考える文章を書いています。今号から電子版も配信とのことでめでたい!

どれだけ元気いっぱいな人でも不意に死んだりするからショッキングなのであって、だからこそダラダラ歩くゾンビ映画におけるジャンプスケアは例外的にきらりと輝く。走ってちゃ驚かされてもただうざいだけでしょ。

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ゾンビはゆっくりとしかし確実に迫ってくる死の表象なのだから、せかせか走ってきちゃ駄目なの。若くて元気なうちはそこまで脅威でもないけど、ふとくたびれてしまったとき、ああもう逃げられないんだな、と気がつく瞬間がいいんだから。

走るゾンビが流行るというのは、それだけ「だらっと続く日常」が失効し、毎日の生存のシビアさが生活感覚に根付いてしまっているということでもあるのかもしれないけれど。

どうせ走るんだろ、と敬遠していたゾン100のアニメを見始めたが、じっさいは「走るゾンビと走らないゾンビがいる」という折衷案で、この節操のなさはすごいと思った。しかしやはり走らないほうがアニメーションとしても楽しいし、カタストロフィ以後に個人としてのささやかな日常をやり直すという主題からしても、走るゾンビのせわしなさは相性がよくない。ぜったい走らないほうがいいと思う。

臓物ぶちまけ描写のスプラトゥーン演出は目に楽しい。

毎月の給与明細を眺めていると税の高さにゲンナリする。資本主義よりも国家のほうが悪だろ。

みんなどうやって音楽を聴いているのだろう。散歩中や読書中に漫然と聴くのはよくやるのだが、それこそ批評的な態度で注意深く聴くというのがどうも僕はできない。優れた音楽評を読むとき、これまで僕はいったいどれだけの音を聴き逃してきたのだろうという気持ちになって、しかし僕は耳だけで音楽を聴くというのはどうしても手持無沙汰であれこれ気を散らしてしまう。映画であれば注視ができる。本はわりと散漫だが、しかしその気になればかなり集中できる。音楽はどうも、聴覚だけに身を傾けるようなことが苦手なのかもしれない。音楽を論じる文章を書く人はそうやって音楽を聴いているのだろう。椅子に深く腰掛けて目をつむるのだろうか。目を開けていてもなお音楽だけに注意できるというのはどうも想像できない。この前の録音ではなぜひとはライブに行くのだろうかと話したが、これはあるていど映画館と同じことで、そうでもしないと人は音楽にだけ集中するということができないからなのではないだろうか。僕は音楽を聴くのが苦手なのかもしれない。人によってはこれと似たような困難を観劇や読書におぼえるのだろう。

みんなどうやって音楽を聴いているのだろう。散歩中や読書中に漫然と聴くのはよくやるのだが、それこそ批評的な態度で注意深く聴くというのがどうも僕はできない。優れた音楽評を読むとき、これまで僕はいったいどれだけの音を聴き逃してきたのだろうという気持ちになって、しかし僕は耳だけで音楽を聴くというのはどうしても手持無沙汰であれこれ気を散らしてしまう。映画であれば注視ができる。本はわりと散漫だが、しかしその気になればかなり集中できる。音楽はどうも、聴覚だけに身を傾けるようなことが苦手なのかもしれない。音楽を論じる文章を書く人はそうやって音楽を聴いているのだろう。椅子に深く腰掛けて目をつむるのだろうか。目を開けていてもなお音楽だけに注意できるというのはどうも想像できない。この前の録音ではなぜひとはライブに行くのだろうかと話したが、これはあるていど映画館と同じことで、そうでもしないと人は音楽にだけ集中するということができないからなのではないだろうか。僕は音楽を聴くのが苦手なのかもしれない。人によってはこれと似たような困難を観劇や読書におぼえるのだろう。
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