弱さに寄り添うようでありたいけれど、自分から弱いほうに近づいていって弱ってみせるというのは欺瞞だ。構造のなかで相対的にもっている強さを否認するわけにはいかない。弱さの側からの視点を装ってものを言うのではなく、こうむっている優位をことさらに卑下するでもなく、強くも弱くもあるこの地点からの言葉を探すこと。安易なポジションに自己を定位してしまわないようにすること。
本日発売の『文學界』9月号に「エッセイという演技」という文章を寄せています。エッセイに限らず表現全般への賛辞として「嘘がない」という文句が膾炙している状況への異議を申し立てています。「論考」と銘打たれていますが、僕はこのエッセイ自体も一種の演技として書きました。僕は嘘つきが好き。
本日発売の『文學界』9月号に「エッセイという演技」という文章を寄せています。エッセイに限らず表現全般への賛辞として「嘘がない」という文句が膾炙している状況への異議を申し立てています。「論考」と銘打たれていますが、僕はこのエッセイ自体も一種の演技として書きました。僕は嘘つきが好き。
『キラーコンドーム』のTシャツ欲しいな。
https://m-nerds.com/news_20230802
ゾンビはゆっくりとしかし確実に迫ってくる死の表象なのだから、せかせか走ってきちゃ駄目なの。若くて元気なうちはそこまで脅威でもないけど、ふとくたびれてしまったとき、ああもう逃げられないんだな、と気がつく瞬間がいいんだから。
走るゾンビが流行るというのは、それだけ「だらっと続く日常」が失効し、毎日の生存のシビアさが生活感覚に根付いてしまっているということでもあるのかもしれないけれど。
みんなどうやって音楽を聴いているのだろう。散歩中や読書中に漫然と聴くのはよくやるのだが、それこそ批評的な態度で注意深く聴くというのがどうも僕はできない。優れた音楽評を読むとき、これまで僕はいったいどれだけの音を聴き逃してきたのだろうという気持ちになって、しかし僕は耳だけで音楽を聴くというのはどうしても手持無沙汰であれこれ気を散らしてしまう。映画であれば注視ができる。本はわりと散漫だが、しかしその気になればかなり集中できる。音楽はどうも、聴覚だけに身を傾けるようなことが苦手なのかもしれない。音楽を論じる文章を書く人はそうやって音楽を聴いているのだろう。椅子に深く腰掛けて目をつむるのだろうか。目を開けていてもなお音楽だけに注意できるというのはどうも想像できない。この前の録音ではなぜひとはライブに行くのだろうかと話したが、これはあるていど映画館と同じことで、そうでもしないと人は音楽にだけ集中するということができないからなのではないだろうか。僕は音楽を聴くのが苦手なのかもしれない。人によってはこれと似たような困難を観劇や読書におぼえるのだろう。
みんなどうやって音楽を聴いているのだろう。散歩中や読書中に漫然と聴くのはよくやるのだが、それこそ批評的な態度で注意深く聴くというのがどうも僕はできない。優れた音楽評を読むとき、これまで僕はいったいどれだけの音を聴き逃してきたのだろうという気持ちになって、しかし僕は耳だけで音楽を聴くというのはどうしても手持無沙汰であれこれ気を散らしてしまう。映画であれば注視ができる。本はわりと散漫だが、しかしその気になればかなり集中できる。音楽はどうも、聴覚だけに身を傾けるようなことが苦手なのかもしれない。音楽を論じる文章を書く人はそうやって音楽を聴いているのだろう。椅子に深く腰掛けて目をつむるのだろうか。目を開けていてもなお音楽だけに注意できるというのはどうも想像できない。この前の録音ではなぜひとはライブに行くのだろうかと話したが、これはあるていど映画館と同じことで、そうでもしないと人は音楽にだけ集中するということができないからなのではないだろうか。僕は音楽を聴くのが苦手なのかもしれない。人によってはこれと似たような困難を観劇や読書におぼえるのだろう。
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かきないしょうご。会社員。文筆。■著書『プルーストを読む生活』(H.A.B) 『雑談・オブ・ザ・デッド』(ZINE)等■寄稿『文學界』他 ■Podcast「 ポイエティークRADIO 」毎週月曜配信中。 ■最高のアイコンは箕輪麻紀子さん作