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全盛期の喫煙所みたいなノリで読書室を設けてほしい。

宇多田ヒカルってすごくいい音楽を作るなあと思った。今さらなことに今さら気がつくのは大事。

道具はその使用がもたらした結果がすべてだから、話者や書き手の意図というのは関係ないんだよな。失言への対応の錯誤はここにある。

それとは別に「そもそもろくに読めていない=受け手側が手渡された道具を使えていない」という問題もあって、読解力のない人たちが引き起こす事故まで結果論で追認してしまうのも違うとは思っている。

道具としての割り切りと、「とはいえもっと皆ちゃんと読もうよ」という期待とは、いつまでもぐるぐるとせめぎ合っている。

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言葉は嘘をつく道具であり、全面的に信頼するものでもないということが、つねに頭の片隅にある。

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最近は「友だちを作ろう」と言いふらしてるけれど、べつに友だちを沢山つくる必要はない。無際限な交友関係の拡張も、きっぱりとした切断も、どちらもやり過ぎはよくないというだけで、その時々のコンディションでどちらかの極を強調することはあれどそれは一種の方便である。
バランスをとるためにそのときどきで論の重みづけを調整しながら、両極のあいだで塩梅を探るのが大事。どちらかを取るような価値判断はつねにある種の詐術であることを自覚していること。

17時からのおしゃべりイベント、とても楽しみ。配信チケットまだ買えますので、もしよければふらっとご参加ください。
peatix.com/event/3528150

ぐいぐいいって、ダメそうならさっぱり手を引く。多感な頃はとりあえずさっぱりしていたくて、ぐいぐいいくのができなかったけれど、あれはたぶん黙っていれば可愛がってもらえるという前提があったんだろうな。
加齢とともに「初手で好印象を持たれることはない」みたいな心持ちになってからは、とにかく前のめりに売り込んで、きれいに諦めるというのができるようになってきた。

文字がいっぱいあって、自分でも書ける。それがただ楽しい。

だんだん告知がしたいのかただツイートしたいのかわからなくなってくる。ただてきとうに書き散らかすだけならこっちでいい。

イベントや新刊の告知のためにあくせくツイッターにいたらスクリーンタイムの使用制限時間を余裕でぶっちぎってしまう。

名刺ってあったほうがいいのかなという気持ちがやってきた。

イベントの告知や自主制作本の営業のために意識的にSNSでむだなことを書くようにしているのだけど、言いっぱなしてタイムラインは見ないでいるとそこまでぐったりしなくていいな。無駄なこと書いてなんか効果があるかはさっぱりわからないけど。

ダサい話なんだけど、自分で本を作って出すようになってから、好きな本の話をするのが具体的な人間関係にもとづくものとして見られないかと不安で──つまり知り合いや友達の本を内輪で褒めて満足してるみたいに見られたらやだなという心配があった──、うまくできなくなっていたのだけど、ここにきてようやく「とはいえ自分は普通に無名だし、自認通りのただの読者という立場でいいと思ったものをいいってはしゃいでればいいんだよな」と思えるようになってきた。

じっさい狭い交友関係のなかできゃいきゃい自閉してると見られることはあるだろうけれど、もう仕方ないというか、いっそ内輪の外縁を広げるように誰でも招くようなパリピ精神でいたいような考え方になってきた。内輪かもだけど、参加したい人はみんなおいでよ、一緒にはしゃご〜、みたいな。僕はもっと友達を増やしてはしゃぎたいので気軽に話しかけてくれたら応えたいし、自分からも前のめりに人に会いに行こうと思う。

読みきれないというのは希望だな。世界がいつまでも自分のサイズに収まらないでいるというのはとても大事なことな気がする。

4月8日に登壇するイベントでおふたりとお話しするのが楽しみで仕方がなくて、イベント当日までに間に合いそうにない量の本を読み進めながらにこにこしてる。

本の話を存分にできるのは嬉しいなあ。

当日のお題に合わせて明治・大正期の文学や文壇について勉強しつつ、お気に入りのエッセイの再読や、未読だったものの発掘などを行なっていて「本ってなんて楽しいんだろう!」とうずうずする。はやくこの楽しさをお裾分けしたり、まだまだこんなのもあるよと教えてもらったりしたい。

peatix.com/event/3528150

書き出しから曖昧な「やさしさ」に決別が告げられるこの本では、他人との出会い損ねと出会い直しが何度も描かれる。抽象的な通念からくる「なんだこいつ」という反感が、時間の経過とともに具体が積み重なって「こうだったのかもしれない」に変わっていく。そのうえで語られる「人を信じよ」という言葉の重み。ふわっとした想像の圏域に留まり踏み込むことをしない「やさしさ」の外側に、ひとつの理屈ではとても割り切ることのできない多面的なひとりひとりの相貌が立ち現れてくる。この本の「信じよ」とは、目の前のその人とちゃんと関係せよという激励だ。

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青木さんとしゃべっていて欲しくなって、ウニタ書店で買った『送別の餃子』(井口淳子著、佐々木優画、灯光舎)。とてもいい本だ。小学生のころ『河童が覗いたインド』を夢中で読んだ、あの感覚を思い出している。造本の遊び心も、土地と個人とを描く目の塩梅も、手触りの凹凸がたのしくて、体温が感じられる。

練習や稽古は楽しい。そこには重さも深さもないから。でも多くの人はその奥行きのない単調さに耐えられないのかもしれなくて、ここに躓きがある。

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