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酔うよりも醒めるほうが面白い。

醒めた人の酔っ払いの演技は楽しいけれど、酔っ払いそのものは大したことない。

5月21日(日)12時〜17時。東京流通センターで開催の文学フリマ東京36。会社員の「自由」や「責任」を問うエッセイ『会社員の哲学』、エッセイと小説が読める栞『エッセイ「栞」/小説「栞」』、ゾンビ映画にまつわる文化的雑談集『雑談・オブ・ザ・デッド』、緊急事態宣言下FGOに救けられる日記本『あまり読めない日々』などを頒布します。是非お立ち寄りください。

山本ぽてとさんのポッドキャストで文学フリマ東京36の注目本についてきゃっきゃっとお話ししてきました! Part3まであります。これを聴いてわくわくを高めつつ、会場でお会いしましょう〜
open.spotify.com/episode/6Glaj

思想書を言語で読むみたいなことは、必要上ある程度できた方がいいんだけど、そこを極めるよりも和歌や漢詩に親しむ方向に時間や手間を割くのがいいかも、という予感。

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日本の古典と呼ばれるものを、ナショナリズムへの嫌悪から避けてきたのだけれど、実際問題これからの人生で外国語を本格的に習得をする可能性は極めて低く、であればこの日本語というものをとことん学んでいくほかないのではないか、みたいな考えにゆるやかに変わってきている。

この自分という個の成立与件を探るためであって、安易に国家などに回収させてはいけないものであるというか。

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インターネットよりも『古今和歌集』とかを読んでいる方がいいな、みたいな境地、これはただ年寄り臭い懐古みたいな話ではなく、けっこう重要ななにものかが賭けられている気がしてきた。

えも言われぬこの生の相貌をあらたに言葉で書き表そうという無茶への憧憬は深まるばかりでもあり、側から見るとそれは現実から遊離した虚像と戯れているだけにしか見えず、とくだん変わり映えしないかもしれない。

けれども、これまで他人事として鑑賞や消費の対象だったあれこれが、実存へと照らし返されるものとして迫ってくるような感じが、ようやく自分にもやってくるようになったというか、そんな感覚がある。

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汲み尽くせぬコンテンツの濁流に飛び込んで現実の実相とは別様の概念体系の奥行きや深みを味わうような享楽のたのしさを至上のものと据えてきたけれど、加齢による体力や気力の低下ゆえか、あるいは単純にこの生の有限性に対して重たい実感を抱くようになったからか、この生や眼前にひろがる他者たちへの素朴な驚愕のほうが切実さや面白味を帯びてきた。

SNSは元気いっぱいの時だけにするほうがいいのだが、愚かなことに心身に余裕がなくて暇だけがある時こそ捗ってしまうのがSNSなのだ。

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元気いっぱいなときは他人のいいところがとっさに五、六個は見つかるものだが、くたびれていると悪いところばかりが百億個見つかる。

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岩浪れんじの描く人間、怖くてかわいくて好き。
ynjn.jp/title/9993

そういうようなことを書きたかったのかもしれない新刊『会社員の哲学』、よろしければご一読ください。
akamimi.shop/?p=2715

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誠実であろうとする人ほど、遠くの誰か、石を投げても安心な抽象的な「社会」を憂い憤ることに心身を消耗して、自分の生活が疎かになってしまうの、やだ。

とはいえこれはある程度の生活の余裕を確保したからこその発言であって、なけなしの余裕すら想像できない境遇にいる人は、すべて社会のせいだから、できていないことを気に病む必要はない。

そんなクソな社会にちゃんと中指を立てるためにも、まずは利己的に生活の余裕を確保することに全力を振り向けてもいいとは思う。

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「自己責任」などという名分を押しつけて自らの機能不全を正当化する行政を批判することと、社会のことばかりインターネットに書き散らかしていないで身の回りの生活からすこしでもマシなものに整えていこうよという気分はほんらい同居するはずなのだが、「自己責任」というタームを一元的に適用することでうまく並記することができないでいる。

個人的なことは政治的なことであるが、それは「ぜんぶ個人のせい」から「ぜんぶ社会のせい」へシフトするための号令ではない。

この固有の生活がほかならぬ社会システムによって大部分を規定されているというのは事実であるが、だからといってこのことを自覚するだけでは無力感を募らせるだけでもある。個人で直接に社会のシステムを書き換えることはできないからだ。

個人の生活における政治とは、日々知らない人に親切にするとか、ポイ捨てをしないとか、誰かの不当な行為を見かけたらお節介にも介入するとか、そういうことでもあって、具体的な範囲での社会の変革はそういう地味でしんどい行動の積み重ねから始められる。

与えられた前提から疑い、いちいち考え込んでしまうというのが知性なのであって、即断即決は知性の不在でしかない。

たとえものを知っていようが、まるで何も知らないような地点から考えを始めることができるのが頭のよさなのであって、既知を所与のものとして問い直すこともできないでいるというのはむしろ愚かさである。

効率の追求は知的な態度ではないし、それは現状肯定にしか繋がらない。

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いちから順を追って考えていけばある命題について、現状における妥当性を判断できるというのが本来の頭のよさであると僕は考えている。

だから膨大な量の情報と動作のカップリングを学習して、自動応答のように高速処理するような姿に対して、頭がいいな、と感じることがない。(AIの「賢さ」みたいなものにピンとこないのもこれが理由かもしれない)。

これは「学校で学ぶようなことを四角四面に守るお利口さんにはわからんかもだが、世間には世間の知というのがあるんだ」というような現場のベテラン語録みたいな話とも違って、こういう暗黙の世間知ほど、思考の節約に特化する形で固定化された情報処理もない。

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「ものを知らないこと」「無知であること」は、「頭が悪い」ことを意味しないのだが、現在ではほとんど同義のようで、気になっている。

思うに、現在の社会で「頭がいい」とは、情報の処理速度がはやいことを主に指していることが原因ではないか。

高速でなにごとかを処理するために必要なのは処理すべき情報の量を縮減することだ。このためにはあらかじめ基本的な処理に必要な情報を既知として蓄えておくことが求められる。事前に与えられた情報と実行すべき処理とのセットをたくさん設定しておけば、多くの場面で即断できる。これを「頭がいい」とするならば、いちいちモタモタすることは「頭がよくない」ことになる。

事前に準備できたはずの設定を怠ったことにより情報処理が適切に行えないという愚かさを「頭の悪さ」と指示するとき、手持ちの知識の多寡が「頭の良し悪し」を決めることになるのも納得はできる。

しかし、実感としてはむしろ前提を疑い、いちいち立ち止まって問い直す態度にこそ知性を感じることが多い。知識はしばしば知性を曇らせる罠にもなるということに気がつくことのない人たちのことをバカだなあと評することもまたありふれている。

柿内正午 さんがブースト

お取り扱い店舗は下記リンクで随時更新。「働くってなんなんだ?」「会社で働いてれば立派な“社会人”なんだっけ?」「サラリーマンって本当に退屈で不自由なの?」そうした事を問う哲学エッセイです。

ゴールデンウィーク明けの通勤電車でリュックやポケットに忍ばせたこの本を読む。そんな場面をひとつでも多く作れたらと思います。どうぞよろしくお願いします。

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