山本ぽてとさんのポッドキャストで文学フリマ東京36の注目本についてきゃっきゃっとお話ししてきました! Part3まであります。これを聴いてわくわくを高めつつ、会場でお会いしましょう〜
https://open.spotify.com/episode/6GlajIu6skezN0GCffgGbk?si=owkZLY5mQCOVR-glB_xGVQ
インターネットよりも『古今和歌集』とかを読んでいる方がいいな、みたいな境地、これはただ年寄り臭い懐古みたいな話ではなく、けっこう重要ななにものかが賭けられている気がしてきた。
汲み尽くせぬコンテンツの濁流に飛び込んで現実の実相とは別様の概念体系の奥行きや深みを味わうような享楽のたのしさを至上のものと据えてきたけれど、加齢による体力や気力の低下ゆえか、あるいは単純にこの生の有限性に対して重たい実感を抱くようになったからか、この生や眼前にひろがる他者たちへの素朴な驚愕のほうが切実さや面白味を帯びてきた。
疲れた。みんなバカに見える。
岩浪れんじの描く人間、怖くてかわいくて好き。
https://ynjn.jp/title/9993
「自己責任」などという名分を押しつけて自らの機能不全を正当化する行政を批判することと、社会のことばかりインターネットに書き散らかしていないで身の回りの生活からすこしでもマシなものに整えていこうよという気分はほんらい同居するはずなのだが、「自己責任」というタームを一元的に適用することでうまく並記することができないでいる。
個人的なことは政治的なことであるが、それは「ぜんぶ個人のせい」から「ぜんぶ社会のせい」へシフトするための号令ではない。
この固有の生活がほかならぬ社会システムによって大部分を規定されているというのは事実であるが、だからといってこのことを自覚するだけでは無力感を募らせるだけでもある。個人で直接に社会のシステムを書き換えることはできないからだ。
個人の生活における政治とは、日々知らない人に親切にするとか、ポイ捨てをしないとか、誰かの不当な行為を見かけたらお節介にも介入するとか、そういうことでもあって、具体的な範囲での社会の変革はそういう地味でしんどい行動の積み重ねから始められる。
「ものを知らないこと」「無知であること」は、「頭が悪い」ことを意味しないのだが、現在ではほとんど同義のようで、気になっている。
思うに、現在の社会で「頭がいい」とは、情報の処理速度がはやいことを主に指していることが原因ではないか。
高速でなにごとかを処理するために必要なのは処理すべき情報の量を縮減することだ。このためにはあらかじめ基本的な処理に必要な情報を既知として蓄えておくことが求められる。事前に与えられた情報と実行すべき処理とのセットをたくさん設定しておけば、多くの場面で即断できる。これを「頭がいい」とするならば、いちいちモタモタすることは「頭がよくない」ことになる。
事前に準備できたはずの設定を怠ったことにより情報処理が適切に行えないという愚かさを「頭の悪さ」と指示するとき、手持ちの知識の多寡が「頭の良し悪し」を決めることになるのも納得はできる。
しかし、実感としてはむしろ前提を疑い、いちいち立ち止まって問い直す態度にこそ知性を感じることが多い。知識はしばしば知性を曇らせる罠にもなるということに気がつくことのない人たちのことをバカだなあと評することもまたありふれている。
かきないしょうご。会社員。文筆。■著書『プルーストを読む生活』(H.A.B) 『雑談・オブ・ザ・デッド』(ZINE)等■寄稿『文學界』他 ■Podcast「 ポイエティークRADIO 」毎週月曜配信中。 ■最高のアイコンは箕輪麻紀子さん作