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「ものを知らないこと」「無知であること」は、「頭が悪い」ことを意味しないのだが、現在ではほとんど同義のようで、気になっている。

思うに、現在の社会で「頭がいい」とは、情報の処理速度がはやいことを主に指していることが原因ではないか。

高速でなにごとかを処理するために必要なのは処理すべき情報の量を縮減することだ。このためにはあらかじめ基本的な処理に必要な情報を既知として蓄えておくことが求められる。事前に与えられた情報と実行すべき処理とのセットをたくさん設定しておけば、多くの場面で即断できる。これを「頭がいい」とするならば、いちいちモタモタすることは「頭がよくない」ことになる。

事前に準備できたはずの設定を怠ったことにより情報処理が適切に行えないという愚かさを「頭の悪さ」と指示するとき、手持ちの知識の多寡が「頭の良し悪し」を決めることになるのも納得はできる。

しかし、実感としてはむしろ前提を疑い、いちいち立ち止まって問い直す態度にこそ知性を感じることが多い。知識はしばしば知性を曇らせる罠にもなるということに気がつくことのない人たちのことをバカだなあと評することもまたありふれている。

いちから順を追って考えていけばある命題について、現状における妥当性を判断できるというのが本来の頭のよさであると僕は考えている。

だから膨大な量の情報と動作のカップリングを学習して、自動応答のように高速処理するような姿に対して、頭がいいな、と感じることがない。(AIの「賢さ」みたいなものにピンとこないのもこれが理由かもしれない)。

これは「学校で学ぶようなことを四角四面に守るお利口さんにはわからんかもだが、世間には世間の知というのがあるんだ」というような現場のベテラン語録みたいな話とも違って、こういう暗黙の世間知ほど、思考の節約に特化する形で固定化された情報処理もない。

与えられた前提から疑い、いちいち考え込んでしまうというのが知性なのであって、即断即決は知性の不在でしかない。

たとえものを知っていようが、まるで何も知らないような地点から考えを始めることができるのが頭のよさなのであって、既知を所与のものとして問い直すこともできないでいるというのはむしろ愚かさである。

効率の追求は知的な態度ではないし、それは現状肯定にしか繋がらない。

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