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どうにも最近は、腕力や精力がふんだんにあり所作ががさつな者たちを「マッチョ」と呼び嫌悪するような、ひょろひょろした男たちがもつマチズモが、なまじインターネット上で声を得てしまったことでとても悪い方向に効力を発揮している感じがある。

「おれたちは弱いからマッチョじゃない、なんならマッチョな粗雑さを憎んでいる」という自認のもとに繰り広げられる過剰に闘争的な言行。これらを男性性の問題として指摘するとこじれやすいのは、彼らの根底にあるのが男性性からの疎外や失敗の感覚だからなのではないか。じぶんのことを男らしいとは思っていない人たちは、カリカチュアされた「マッチョ」には敏感であるが、自身のマチズモを見過ごしてしまう。知らんけど。

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どこかへ行けばそれで収まったものが、どこかで何か為さなければいけなくなっている?

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「ここではないどこかへ」から「何者かになりたい」への変質。

昨年くらいからすこしだけまじめに自宅でできる程度の筋トレをしていて、枝だった体に申し訳程度に厚みがでてきているのだけど、自分のマチズモにかんしてはむしろ筋肉をつけたことによってより抑制できるようになったという実感がある。みずからの有害さを飼い慣らすにも体力がいるのだ。

痩せっぽっちだったとき、見た目は可愛くて好きだったのだがいまよりもずっと疲れやすく、疲れると余裕がなくなってまわりに優しくできなくなったり、もっと悪いと不機嫌を撒き散らしてしまうことがあったのだけれど、いまはないといったら嘘になるが、だいぶ減った。

柿内正午 さんがブースト

本屋lighthouse で新刊ZINE の予約を受け付けてもらってます。愚痴も多いですがおおむね楽しい日記の本です。

lighthouse24.thebase.in/items/

コーヒー一杯飲んでればちょうどだな、みたいな気持ちのゆとり、すごい。僕はうっかり間に合わなかったらどうしようと心配で、会場の半径三分くらいのエリアでうろうろうろうろしてしまう。

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観劇とかイベント参加とか、開始時間が明確に決まっている用事があって、目的地周辺に会場10分前とかに着いて、すこし早いな、というようなとき、さらっとカフェとか入れる人を尊敬する。

話が長いからというより、「どうすか!」ってこっちに向かってくる感じがあんまりないのがいいのかも。

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Twitterの投稿は優秀なキャッチのようなもので、声をかけられた、目に入ったと認識すると同時に論旨が頭に入ってしまうから強烈だ。マストドンは話が長いから、スルーしやすい。

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体感としては、一日二時間以上SNSを見ると、生きる喜びが七割減退する。

新しく出すZINE の告知をすると反応が気になってSNSにへばりつき、結果的に体調や気分を損ねる。

筋肉とお金(製作費)で全て解決しちゃうみたいな大雑把な映画が観たい気分。最後は車とかアジトとかが派手に爆発するようなやつ。

知性を感じるお行儀の悪さ、気遣いのあるチャラさ、ものを知らない教養主義、物腰柔らかな不遜さ、そういうものを格好いいなあと思う。

日記本『差異と重複』を出します。2021年と2022年が並走する、A5版780ページの大きな本です。図体ばかりデカくて内容の大したことなさはいつもどおり。大したことない日々は、どうでもよくはないのです。4月9日(日)11:00-17:00、下北沢BONUS TRACK で開催される「日記祭」でお披露目予定です。

300部限定。税込売価3200円、卸値7掛け(買切のみ、2冊から)を予定しています。本を売るお店、空間、運動、個人でのお取り扱い、大歓迎です。事前のご注文状況によってはもうすこし価格や条件を下げられるかも……

akamimi.house@gmail.com までお気軽にお問い合わせください。

素朴に自分のことを好きなのであればそれに越したことはないとも思うが、好きか嫌いかと問われると、そんなに好きでもないな……と気がついてしまう。面白い遊び場だとは思う。

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「自分大好きですね」みたいな揶揄をいただくからこのことについてよく考えるのだけどいまだにうまい言葉が見つからない。だからまだよくない解釈の幅があるというか、受け取る各人のなかにある語義の個体差が大きいようにしか言えないのだけど、自分のことがとくべつ好きでなくても自分のことに関心を持ったり気にかけてあげることは可能だと思っていて、好き嫌いのような感覚や、才能だとか能力だとかいった社会的な評価軸に照らし合わせて自分をジャッジするような感性や、この自分を肯定できるかどうかといった倫理とはまったくべつのところで、自分に自足するというか──この自足というのがどうも現状肯定みたいなニュアンスを引き連れてきてしまうからあまり適切ではないと思ってはいる──とにかく自分のことを、とても好感は持てず価値も感じられず否定すべきところも多いものであるところの自分を、一個の事実として認めつつ、それを面白がるというか、玩具のようにいじくっていくような態度で、あわよくばすこしでもマシな方向にもっていこうという遊びの感覚があり、そのような感覚において僕は僕のことばかり考えている。他人のことを玩具のように扱うのはダメだから手近な自分で遊ぶのだが、これを自己愛とだけ片付けられてしまうとなんとなく物足りないような気持ちになりはする。

毎年この時期こうで、でもまわりのひとがビチャビチャになってるのをみると自分はちがうのかなと思っていたけれど、しかし。

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鼻水も涙も出ないからちがうかもだけど、この全身の重怠さ、頭の回らなさも花粉なんじゃないか。

投入した労力が目に見える効果として即座に現れるわけではないということを納得するためだけにでも、自分でなにか作ってみるという体験はしておいたほうがいい。

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Fedibird

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