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作品を受け取るというのはどんなに装っても恥知らずなものだし、それでいい。

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なんか、いつもみんな新鮮にうるさい。

本は気の向くまま読めばいいし、音楽は好き勝手に聴けばいいし、絵はただ見ればいい。つまんなかったら今の自分には早かったか遅すぎたか関係なかったかでしかなくて、どんな駄作も刺さる人には刺さってしまうから作品はおそろしい。

正解のようなものをでっちあげて、「まじめ」にそれに合わせていても、誰でもない誰かに似ていくだけで、それは現状の社会の域を出ない。

作品との関係は、無難にそこそこに収めるよりも、盛大にズッコケたり、スベったり、痛かったり、恥ずかしい大失敗をしたほうが楽しい。

失敗に居直ろうとしても、失敗もまた「正解」と同じ程度には凡庸なものだとすぐに気がついてしまうけれど、「正解」の見事さや面白さは自分で間違えたあとでないとあんまりよくわかんない。

そう思っていたはずなのに、うっかりすると安全に気を遣ってしまって、なんも面白くなくなるな。

無謀に挑みかかってみっともなく転ぶのが年々こわく、難しくなっていて、そんな自分の状態が腹立たしくもある。

評価されていたり時流に乗っているいい作品が、僕が楽しめたり面白がったり作品とは限らない。すこしさびしいがそういうものではある。
酷評されていたりそもそも誰からも見向きされていないような作品が、なにより心を打つこともある。
どちらもわかりきったことのはずなのだが、自分の感覚を周囲の評価と関係なしに維持するのはけっこう難しくて、たやすく揺らぐ。

作品というのは作るにせよ受け取るにせよ、社会だとか他人のようなものよりも、もっと別のものに信を置くということであり、それはべつに自分の好みを貫き通すとかでもなく、そうとしかできない、何に対して自分をひらいてくのかという態度表明だ。

読んだもの聴いたもの観たものよりも、読んでないもの、聴いてないもの、観てないものの開示のほうが自己紹介になる。

天羽尚吾さんはペダステで観ていたが、鈴のような声と涼やかな顔で、線が細いのに芯の強さが滲んでいて魅力的。海老原恒和さんは初めてで、この人は何者なのだろう。剛胆さからナイーヴさまで表現する演技力があり、一度聴いたら鼻唄が溢れてしまうメロディを作り、きれいな声で歌を歌う。最強では…?

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たぶん来年以降、どんどん人気が出て小屋が大きくなっていく企画だと思うので、いまの小さな小屋での贅沢な芝居を観ておいたほうがいい。
東京の人、おすすめです。
開演20分前まで前売りチケットを販売してるみたい。
t.livepocket.jp/t/nowloading

公演サイトはこちら。
amoshogo.com/nowloading/

(なんだかかなりステマっぽいが、僕は関係者の誰とも知り合いでもないし、素朴な観客としていいものを観てふわふわしてます)

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『NOW LOADING』観劇。とってもよかった。キャパ40弱の空間での贅沢なアーバン・ポップ・ミュージカル。至近距離で歌い上げられるポップミュージックの親密さと、それでも客席と劇空間とははっきりと隔てられているという遠さの共立。
演劇における近さと遠さの奇妙な同居を、動画配信者の非対面の交流というプロットと重ね合わせていく。俳優のお二人の体重移動がすごい。目の前でかなり大きなマイムもあるにも関わらず、まったく足音が聞こえない。この音のなさもまた近いのに遠い距離を表していた。
無謀な約束を果たすべく一人がゲーム空間を駆け出すシーンがあるのだけど、このシーンの静けさが見事で、思わず涙ぐんでしまった。あと素朴に歌が上手い。このサイズの小屋でこれだけの歌が聴けるというだけで嬉しくなる。

既存の大きな流通経路に乗りやすいように自らをわかりやすい規格にはめこむのでなく、小規模でも自前で制作と流通を準備して、自分がいいと信じるものを誠実に制作できる環境を自作していく態度は、なんであれ素晴らしいものだな、と思う。

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二人の俳優が企画制作からじぶんたちで立ち上げる舞台作品について、あれこれと雑談しているポッドキャストを聴いてる。

「脚本脱稿した!」「スタッフさんがオファー受けてくれた!」「劇場おさえなくちゃ」「予算組どうしよう、助成金いけるかな……」みたいな話が盛りだくさんで、稽古終わりのサイゼリヤでなされるおしゃべりみたい。作品の生成過程の、具体的な段取りが帯びるわくわく感がパッケージされていてとても楽しい。

アルバイト事情など、生々しい話が素直になされているのもいい。

open.spotify.com/show/7u2xJpHh

なんか間違えてjp のドメインブロックしちゃった……誰がどこだったかわかんないな……

カントの「味気ない、ひからびた包装紙のような文体」(by ハイネ)にオートチューンがかかるだけでかなり面白いと思う。

柿内正午 さんがブースト

言語や貨幣から、セルフレジやスマホアプリに至るまで、あらゆる道具には取り扱いのルールというか仕様があって、それらに準拠した使用をしないとうまく機能しない。

機能しなさにはグラデーションがあって、言語なんかは多くの人がめちゃくちゃな使い方をしてて、それでもなんとかなっちゃうことも少なくない。

デジタルツールはそういうめちゃくちゃな使い方はできなくて、「や、それは仕様にないので……」と突き返されるぶん、よりいっそう人間の側が設計の仕様に合わせていくことになる。

すくなくとも90年代以降の生まれの僕のような個人は、こちらの生理でなくて道具に合わせるように、自分を規格に寄せていくというのがふつうで「自然」なことになってる。

こういう時代の感性は、要件定義の枠の内外を明確化し、規格に合わないものを外へと排除していくことに疑問を持ちにくいのかもしれない。じっさいインターネット上のコミュニティは簡単に排他的な閉鎖性を確保できたりもする。だからこそ、ここでなされるやり取りはどうしても「出ていけ」「追放しろ」に帰着しがちだ。

実生活における政治は、本来「開かれている」というか、「閉じこもれない」ことが前提のはずなので、追い出す/追い出される外なんてどこにもないのだけど。

誰にも受け取られるあてのない文字の配列をフフフ……とひとり試しては捨て置く場。それが僕のインターネット。

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日記を書くための助走としてとにかくなんでも公然と書き散らかすというのを前まではツイッターでやっていたのをマストドンでやると、何かが変わるでもなく文字数制限だけが140文字区切りから500文字超になった。短文にいちいち区切られることで考えが前に前に進んでいく感覚というのは確かにあったが、あんまり字数の制限を意識せずにだらだら書けるというのはいいもので、だったらメモにでも書いていればいいものをわざわざ公開するのは、読まれるかもという意識が最低限の体裁を整える気にさせるからで、じっさいに読まれるかどうかはあんまり関係ない。相手にされようがされまいがてきとうに書いて広げて散らかしていくのが楽しい。

『墓場鬼太郎』のアニメ、おもしろーい。

何年でも寝かせておくけど必ず読むと決まっているような本は、とりあえず買っておいて平気で待たせておく。読む本と買う本とでは待たせられる年数がちがくて、ただ読みたいだけなら期限に急かされて読める図書館のほうが読める。買った本はすぐには読まれない。それでも、これまで、いま、これからに渡る読書の文脈を作っているのは、買ってかたわらに放っておいている本たちのほうなのだ。

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とにかく気になったらすぐ取り寄せて、図書館で上限ギリギリまで借りて、別の人の予約が入って延長もできないまま返却期限が近くなってきたやつから読んでいくというのは、こちらの気分と関係なしに読む本を選ばされてしまうところがとてもよくて、いまこれを読む感じでもないんだよな、という一冊が偏って凝りがちな読書の気分をいい感じに撹乱してくれる。

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