井辻朱美の第四歌集『コリオリの風』
基本的な作風はブレることなくファンタジー、音楽、恐竜、魚、歌舞伎などがテーマに選ばれている一方で、新たなモチーフとして〈道化〉が出てくる
巻末のエッセイで言われる通り異界を求める心理の変奏として、祝祭とともにさかしまの世界を象徴するものとして選ばれたのかもしれない
そして題字の菊地信義感が強いけど装幀は菊地信義
個人的な抜粋
藍ふかき都市の夕空クレーンはいつか死にたる恐竜となる
空色の眼を持てる生き物の髪かぜとなり沼に映れる
叙事詩(エピック)のふかき黄昏藁色の森にて会いたる隻眼の神
Othernessという言葉はしみいる雨のなか鮫は高いところを泳ぎいるに
竜殺しのあまたの神話を思いつつエイのはばたく水槽すぎぬ
硝子の箱むすうの異界を閉じこめて水族はついにわれらに会わぬ
汚れつつかがやく半月 体液を爬虫類らは澄ませてねむる
死ねばゆく常若の国(ティル・ナ・ヌオーグ)とぞ波さわぐかぎりなき落暉へ立ちていたりき
十一月の夜のいきもの雨という優しきエイが街をつつめる
象徴の暗き森より流れ出てわれらに出会う青の驚愕
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エッセイで触れられている通り、異類としての魚族を〈他なるもの〉として、短歌に結晶させるのが井辻作品の特徴
そして、同時に「鮫はわたしの無意識のなかに住む…そのなかには幾多の忘れられたおそろしい衝動と外傷(トラウマ)がある」と述べているように、象徴を媒介にして孤絶感を詩的に表現し続ける透徹した感覚が心地よい
しかし、鮫と言ったらアイヴァス。ボヘミアにはかつてケルトのひとびとが住んでいた時代もあったというから不思議な縁を感じる
井辻朱美の第二歌集『水族』
解説は荒俣宏。歌人にしてアイルランド文学の訳者片山廣子と較べるのはさすが荒俣宏
タイトル通り、魚を歌う作品が多い一方、エッセイが掲載されていてなかでも「水族あるいはOtherness」は遂に文庫化されるアイヴァス『もうひとつの街』を連想せずにはいられない秀抜の作
TLでウーしようと思います!(TLにウーがあったら、楽しいので)
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ノー
🗃
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AIとの対話に感じる違和感というか、個人的にはそもそも使ってみる気にならないけど、一方で気にせず使える人もいるのは何故なのか
恐らく〈間主体性〉への関心の強弱によるものかもしれない
暗黙のうちに他者と相互に承認し合うような交差性(コミュニケーション)に無関心であればあるだけ、つまり自己というものだけで世界が構成されているような状況だと相手がAIだろうが人間だろうが気にならないし、
そのような世界観のなかでは他者は単に自己の一部として同化されているので、AIを利用することで実際には自己と自己の対話という状態が強化されていくのかも……というのを「プレコックス感」という術語を見て思った
何か他者の主体性みたいなものへの感覚と相関してるのではみたいな
何となく目に留まった作
ゆめに散る花ことごとく蒼くしてこの世かの世にことば伝えよ
雪も石もてのひらにひびく億年の孤独のうちにほろびしときより
純白の毛皮ふぶけるその胸の傷痕あまた星よりきたる
みずあさぎゆきのあけぼのゆめのはし 花も香りも比喩である島
天心に青風の舌ひらめきて見上げるときの頰白鮫(レクエイム・シャーク)
億年の時分けてゆく蒼き鰭 摩天楼の上に風はなみうつ
水球にただよう小エビも水草もわたくしにいたるみちすじであった
骨となりてのちにあばかるる罪 海牛の歴然と五指をもてる鰭
デボン紀の海に生まれしわれを知る水族館の魚らの回遊
恋人たちが見つめあわずにすむように花火は天の高みにひらく
みずからの上に落つるをさだめにてしろがねりりしき秋の噴水
テールランプが醜くともる雪の昼われらは輪廻の物語する
すきとおる宇宙の中に座していてそれでも夜が明けてゆくのか
輪郭のあわき自分であることもこの水の国に生まれたるため
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井辻朱美が自己を問題にするとき、常に時空を長大に捉えて、大きな流れのなかに置かれたものとして歌うのが、しばしば社会リアリズムに傾きがちな短歌とは異なる作風を呈示していて心強い
ファンタジー詠、SF詠の開祖井辻朱美の第三歌集
届いてから気づいたけど帯文が塚本邦雄だ
で、塚本の言葉にある通り、井辻短歌は短歌に付き物の〈自己の発露〉を斥け、〈孤絶感〉に浸っている感覚があってかなり心地好い
自己肯定感の強い人(要はナルシスト)、最初の印象はいいけど、しばらくしたら一気に嫌われだすという研究ちょっと面白い。実感としてもそんな気がする
過現未