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やたらと気が散って思考があちこちに飛びまくり、あれも書こうこれも書きたいそれも書かなきゃ…という衝動&焦りばかりが積み上がってMastodonの下書き的なメモが膨れあがっている。
これ、PMSで脳の調子が良くない状態なんだ、ということに最近気づきました。

ツイッター以前のインターネットにも「炎上」や「バズり」は存在していたと思うけど、個々の投稿に対してのリアクションが「いいね」「RT」で可視化されるようなことはあまりなかった気がするし、「いいね」「RT」をもらうことには中毒性があると思う。そういう意味ではBlueskyにもMastodonにもThreadsにもツイッターと同じ危険性はあるはず。
脳の調子が良くなくて思考がとっ散らかり、ちょっと書いておきたいことがワーッと溢れそうになったとき、こういうSNSは手軽でもあるし、うまくいけば「いいね」「RT」という「報酬」も手に入る。依存してしまう理由しかない。

この投稿の前半とひとつ前の投稿はBlueskyの投稿をほぼそのままコピー&ペーストしているんだけど、語尾とか改行とかこまごま直したくなった(そして直した)のが面白かった。SNSによって書き方を微調整しているんだな〜という発見がありました。

おしゃれってたぶん「何を着るか」だけでなく「どのように着るか」が重要なんだと思うんだけど、私は前者にしか意識がいっていない。「自分に似合うおしゃれな服」をなんとか手に入れることしか考えてなくて(それだけでもたいへん難しいのだが)手に入りさえしたら、あとはそれを何も考えずスポッと着るだけでいい、と思っている。
でもほんとうは手に入れてからのコーディネートが本番なんだろう。

髪もそうで、美容院でいかにいい感じにしてもらうか、というところまでで精一杯。その後の日々のアレンジなんてとてもとても、だ。
苦手なことは全般そんなふうで「自分でやる」という過程を想定できていない。見栄のために仕方なくやっているだけで実際は興味がなくて、べつにやりたくないからだろうな。得意な人にとってはその「自分でやる」パートこそが楽しみなのだろうと思うので。

苦手なことほど、じゅうぶんな時間と労力をかけ、ゆっくり、焦らずに、失敗してもあきらめず、粘り強く取り組むべきなんだろうけど、現実には難しい。なぜなら苦手だから。向き合っていることが楽しみではなく苦痛だから。

『さらば、わが愛/覇王別姫』を観てきた。劇場公開時からずっと観る機会がなく、このたびの4K版上映が初見だった。1920年代から第二次大戦を挟んで、ふたりの京劇役者の人生、出会いから別れまでの50年ぐらいの物語。
幼い小豆が多指症の指を母親に切り落とされる冒頭から激しい場面が続き、しかし話は淡々と進むので私も淡々と観ていたんだけど、文化大革命の場面は凄すぎて動揺した。お互いにあんな言葉をぶつけあって、それでも蝶衣も小樓も生き延びて、また対峙する。凄い。

京劇俳優の養成所では子どもたちに虐待にひとしい折檻をしていて、すっかり人気スターになって養成所を訪れた蝶衣と小樓も、老いたかつての師匠に容赦なく打たれ、抵抗せずに受け入れる。
そこで育った蝶衣が弟子として引き取った小四を同じように打ち、「稽古をしなければ二流にしかなれない」と怒鳴っていたのは当然といえば当然なのかもしれない。それは時代の流れの中で「指導」ではなく「暴力」として否定されていくんだけども。

蝶衣はびっくりするほど美しかった。

男二人の濃密な絆に翻弄されていた菊仙も忘れがたい。蝶衣を憎みながらも姉のように世話を焼き、寄り添っていたのに、最後あんなことになってしまったのはつらすぎると思う。


西武池袋本店には子どもの頃からさんざんお世話になってきた。学校帰りに(当時の)リブロやWAVEに毎日のように寄り道していたことも懐かしい。ひとり暮らしをしていた時期はあまり縁がなかったが、実家に戻ってきてからはまた最も身近で、生活に密着したデパートになった。
セブン&アイの傘下に入ったことでだいぶ変わってしまったなという認識だったが(リブロ本店を追い出したことはいつまでも根に持っている)それでもやはり、従業員の望むかたちで存続してほしいという気持ちがある。支持します。

ストライキ、必要ならどんどんやっていくべきと思いつつ、前職で労働組合に関わる機会もあった身としては、組合側だってやらなくて済むならスト決行までは行きたくないよな…とも思う。あたりまえだけど好きでやってるんじゃないんだよね。


私がシェイクスピアにほんとうに興味を持ちはじめたのは『ホロウ・クラウン』からなんだけど(それまでは文学および演劇の必修科目だし…という義務感で観ていた、英文学専攻だったし)まさか悲劇でも喜劇でもなく史劇にハマったのは自分でもほんとうに予想外だったな…。
ヘンリアド+薔薇戦争サイクル全般に前のめりになるけど、タイトルロールのキャラが立っている『リチャード三世』がいちばん観ていて楽しいかな〜と思います。

でもいちばん好きなのは『コリオレイナス』。NTLのトム・ヒドルストン主演の公演が凄すぎた…!
PARCO劇場で観たオールフィメールの上演がよかったので、『ジュリアス・シーザー』もじわじわ好きです。

ごちゃごちゃ書いてしまったけど、礼さんの歌はほんとうに好きで、だからこそ切実に10年後20年後も元気に歌っていてほしいんだよな…。
でもこの願望は「どうか男役として燃え尽きてしまわないで」の裏返しなので、礼さん的にはこんなこと願われてもぜんぜん嬉しくないのかも知れない…うう…。
宝塚歌劇団がもっとフラットな広い世界で、男役として所属したままでいろいろな経験を積める環境ならもう何年でもいてくれと思うけど、現状私のような浅いファンからはぜんぜんそうは見えないんですよ…

あと「組織は説明すべきことは責任をもってしっかり説明しろ」と言ってるのは、ジェンヌさんの体調などの個人情報を詳らかにしろという意味ではないし、ジェンヌ個人は余計なことを言うなということでもないです。
週刊誌報道を否定したいなら、歌劇団の名前で正当な手続きをもって抗議しろ、中途半端に匂わせみたいなことをするな、まして当の本人にステージ上で喋らせてふわっと解決したことにするな、とにかく組織としてきちんと責任を持って盾となれ、ということです。

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舞台上の演者の不調にハラハラしながらステージを見守る、という経験は四半世紀バンドのライヴに通っていたあいだにも何度かあったけど、観ている側も勝手にかなり疲れてしまうんですよね…

礼さんはそのあたりのことを痛いほどわかっていて、だからこそカーテンコールのあの挨拶だったのだろうと思う。ほんとうに真面目で責任感の強い人なのだなと感じた。

ただ、個人的には、とくに緞帳前でのコメントは聞いてもあまり安心はできなかった、というより逆にモヤモヤしてしまったな…
もちろん、事実無根のことを週刊誌に書きたてられれば腹に据えかねるし、ファンのためにも言わずにはいられなかったのだろうと想像するけれど、なんか…宙組のハラスメントが週刊誌で報道されたとき、書かれた当の本人がコンサートのMCで直接エモーショナルに「説明」してうやむやになったときのことを思い出してしまった。あのときと同じなんじゃないのか?

タカラジェンヌはいつだって潔白、悪いのはすべて歌劇団、と言うつもりもないけど…個人を矢面に立たせてごまかしているように見える。
所属している個人としての発信を制限している(ぜんぜん「自由」じゃないな?!)のなら、せめて組織は説明すべきことを責任をもってしっかり説明し、構成員を守ってほしいと切実に思う。

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星組『1789』大千秋楽LVを観てきた。まずは休演から戻ってきた礼さんを含め、無事に公演が終わってよかったなと思う。宝塚大劇場の千秋楽を観たときもあまりの迫力にびっくりしたけれど、ほんとうにレベルの高いパフォーマンスで、歌もダンスも凄かった。

でも、観客がこういうことを言うのは演者にとっては不本意だろうと思うし、公演中止や主演の休演に動揺して見ない方がいいインターネットを見まくってしまっていた私には先入観もあったと思うんだけど…非常に負荷のかかる、厳しい公演だったんだな、というのは感じてしまった。すごく歌がうまくて、大楽でも歌えていなかったわけではまったくないけど、私にも察知できるレベルで喉がしんどそうな演者さんもいたし…

二幕冒頭の「誰の為に踊らされているのか」がとても好きなんだけど、「誰のために踊らされているのかよく見極めろ」という歌詞がいつまでも頭の中を回っている。
そもそも「自由と平等のために戦う」という演目を、権威主義的で、トップスターを中心とした厳然たるヒエラルキーがある宝塚歌劇団という劇団で上演するということじたいが、壮大な皮肉なんじゃないか、などとも思ってしまった。イヤな観客だな…

パフォーマンスはほんとうにみんな素晴らしかっただけに、複雑な気持ち。

足利市立美術館で開催していた「顕神の夢」展、このあと久留米市美術館へも巡回するんだけど、キービジュアルとコピーが違うとずいぶん印象が違うんだなと思った。
コピーだけ見ても「幻視の表現者―村山槐多、関根正二から現代まで」(久留米市美術館)と「霊性の表現者―超越的なもののおとずれ」(足利市立美術館)ではかなり違うのでは?

この展示、川崎の岡本太郎美術館から巡回が始まっていて、川崎での展示も「幻視の表現者― 村山槐多、関根正二から現代まで」だったっぽい。
首都圏からのアクセスでいえば川崎のほうがはるかに便利なのに、なぜ話題になったのは足利からだったんだろう、と地味に気になっていたんだけど、キービジュアルとコピーも影響していたんだろうか。知名度のある作家を押し出しているとはいえ「村山槐多、関根正二から現代まで」のトーンは「超越的なもののおとずれ」よりだいぶ落ち着いていると感じる。
個人的には、やや危うい切り口の展示だからこそ、川崎・久留米ぐらい地に足のついたコピーが望ましいような気もした。
ishibashi-bunka.jp/kcam/exhibi

化粧でもこういう方向性だとがぜんやる気になる(ふつうの身だしなみメイクもろくにできない不器用にこういう応用編というか上級編のメイクができるのかという問題は置いといて)
ゴシック・ロリータファッションに片足突っ込んでいたとき、今後も続けるなら「かわいい」「美しい」じゃなくて「アグリー」を目指せばいいのでは、と思ったこともあったな〜。続けられなかったけど…

ふと思ったのは、2000年前後に流行ったガングロ・ヤマンバメイクもこの「アグリー」メイクみたいな表現だったんじゃないか、ということ。そう思うと、ガングロメイクをしている女の子を連れてきてナチュラルメイクに変えさせ、こんなにかわいくなりました!とかビフォーアフターをやっていたTV番組はしみじみ醜悪だったんだなあ。
ellegirl.jp/beauty/makeup-skin

「問題があることを薄々感じつつも欲望に負けて楽しんでいたコンテンツの問題が目を逸らせないレベルになってきて引き裂かれてつらい」という、もうほんと、この10年で何回目?何で性懲りもなく同じこと繰り返してるの?学習能力ないのか?という事態にまた陥っているんですが、これはやっぱり私に問題があるんだろうか?無意識だけど自分で引き裂かれに行ってるのかな?
…などと自分で自分を疑ってしまいつつ、この引き裂かれている状態が楽しいわけではまったくないのでシンプルにつらい。問題に目を瞑り続けていられるファンダムにも、とりあえず目に見える問題はない別のコンテンツを楽しみながら「あのコンテンツはやっぱりヤバい」とそれ自体は至極まっとうな批判を向けてくる人々にも苛立ってしまう。全方位へのやつあたりでしかない…

結局は自分もそのコンテンツと距離を置く以外の解決策はなく、今までもそうしてきたし、おそらくこれからもそうなるのだが、なんだろう、「持続可能で健全な推し活」とかは幻想なのかなあ…虚しいな…

渋谷駅の地下で、ずっと気になっていたカールヴァーンのスタンドを見つけたので入ってみた。
ファラフェル(ひよこ豆のコロッケ)のロールサンドと、デーツといちじくとナッツのスムージー、たいへんおいしかったです。ヴィーガンメニューが充実していてすごく迷った…バクラヴァやクナーファも食べたかったし(ロールサンドがかなりボリューミーだったので追加できず…)
立ち寄れるチャンスがあったら逃さず立ち寄って、いろいろ食べてみたいな〜。

松濤美術館「私たちは何者?ボーダレス・ドールズ」を観てきた。
平安時代の人形代から始まり、雛人形や武者人形、工芸品、マネキン、関節球体人形、フィギュア、ラブドールまで網羅されていてめちゃめちゃ面白かった。同じ作家が商業目的で製作したマネキンと美術品として扱われている彫刻作品を並べて、「彫刻」と人形製作の関係を意識させる展示のしかたもとても良かった。

呪殺したい相手の名が生々しく残る人形代をはじめ、「怖い」と感じる人形がけっこうあったと思う。生人形の緻密さ、精巧さも少し怖かった。お土産物っぽい素朴な佇まいの木片人形や諸国名玩集はとてもかわいかった。
平田郷陽、天野可淡、四谷シモンなど有名な作家の人形たちの存在感もさすがだった。四谷シモンは「ルネ・マグリットの男」みたいな人形も作っていたことを初めて知って新鮮。
中原淳一が自分のために作ったという男性と少年の人形も印象的だったな…
蝋人形のドストエフスキーや、『新世紀エヴァンゲリオン』のアスカもいました。
shoto-museum.jp/exhibitions/20

せっかく夏休みをとって足利まで来たので、足利学校と鑁阿寺にも寄った。足利学校にはアニメ絵の小野篁がいて、声優さんが論語を素読していた…。鑁阿寺は広々していてとてもよかった。

東武足利市駅を出てすぐ、渡良瀬川があって、ここが森高千里でおなじみの…と渡りながらしみじみしたりした(世代がバレるね)。

あと足利市立美術館に刀剣の気配があって、そういえば山姥切国広のゆかりの場所か…と思い出すなどしました。

それにしてもとにかく暑かった…
最高気温35度を超える猛暑日は、ちょっと外をうろうろしているとそれだけで熱中症になりかけるということが身にしみてわかった。

7月に家族でドライブをしたときの行き先も佐野だったので、この夏は栃木づいていますね。
佐野では家族がお店を調べてくれていてたいへんおいしいラーメンを食べたんだけど、私はそういう下調べをぜんぜんしていなくて、たまたま見かけた雰囲気のよいカフェでレモンタルトを食べました(おいしかった)。

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足利市立美術館「顕神の夢 ー霊性の表現者ー 超越的なもののおとずれ」を最終日に滑り込みで観てきた。
不思議なインパクトのある作品ばかりで、一見して「怖い」と感じるものも多かった。萬鐡五郎、佐藤溪、船越直木の絵画がとくに怖かった。子どものころに見たら夜中に思い出して泣いていたと思う。萬鐡五郎の「目のない自画像」をはじめ、思わずギョッとしてしまう自画像が幾つもあったのも忘れがたい。
好きだったのは古賀春江「孔雀」、花沢忍「宇宙について」、広島平和記念資料館に展示されている「人影の石」に衝撃を受けて描かれたという八島正明「給食当番」。

どの作品にも異様な迫力があるうえに、キャプションがちょっと陶酔的というか、作品と一定の距離がある書きぶりではなくて、かなり「あてられる」感じがあった。図録が売り切れていたからけっこう人が入っていたのだろうが、みんなは大丈夫だったんだろうか…
watv.ne.jp/ashi-bi/2023-Kenshi

ここ数年で身にしみてわかったことは、歌がうまい人の歌声は汲めども汲めども涸れぬ水みたいな、尽きることがないと感じさせてくれる豊かさで、この人はいくらでも歌えるんだ、と本気で思ってしまうけれど、そんなことはないということ。人間である以上、過剰な負荷をかければ持ちこたえられなくなる。

歌っている当の本人が、自らの強い希望で「どうなってもいいから、今、全力を出しきりたい」と自分の喉を酷使することは、観客には止められないのかもしれないけど…でも、観ている側はやはりつらい。「今」を乗り切れたとしても、持ちこたえられなくなる瞬間が数年後、数十年後に来る可能性だってある。

最近、長く聴いてきたバンドのライヴから足が遠のいている理由のひとつは「歌を聴くのがしんどくなった」なんだよな…
おまえもファンなら健やかなる時も病める時も
見守り抜けよ!!という感じですが…うう…ダメなファンですみません…

歌がうまい人はその恵まれた喉をどうか大切にしてほしいと、無責任な一観客としてはどうしても願ってしまう。
そしてもし、無理をさせるような外的要因があるのなら、即刻取り除かれてほしい。

誤「満点の桜が咲く日」
正「満天の桜が咲く日」

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国立新美術館「蔡國強 宇宙遊」を観てきた。
展示室はひとつの広い空間を仕切りなしで使い、壁に沿ってビデオやドローイングが配置されているほか、電飾がついた巨大なモビールがたくさん設置されていて、遊園地のような空間だった。

横浜トリエンナーレや直島の常設展示などで以前から好感をもって作品を観てきたものの、こういうまとまった展示を観るのは初めてで、プロジェクトの映像をたくさん観られたのがよかった。万里の長城を導火線を伝う火によって延ばそうとする「延長」や「スカイラダー」など、どれもよかったけれど、とくにいわきの海岸で打ち上げられた「満点の桜が咲く日」は美しかった。
北京五輪の開会式の花火もすごい。ていうかアイ・ウェイウェイがスタジアムを設計し、蔡國強が花火を担当してたのか…。この五輪に関わったことで「体制側の人間だと思われてしまった」みたいなコメントもあった。

あとは砂曼荼羅の下絵を爆発させた「闇へ帰る」をはじめ、ガラスと鏡のあいだで爆発を起こして制作された作品群が美しかった。
最初に展示されている、作家の父によるマッチ箱のドローイングも印象的だった。

nact.jp/exhibition_special/202

あとからあとから思うことが出てくるのだが、「ロパーヒンの言うとおりにすれば最悪の事態は免れた」というのも違うと思うんだよね。桜の木をすべて伐り倒し、別荘を建てて観光地にすれば収益化できる、という現実的かつ資本主義的な解決策がほんとうに良策なのか?どちらにしても「桜の園」はなくなってしまうのに。
ロパーヒンのような在り方が「賢さ」とされるのがまさに今の日本だな、と強く感じて、抵抗感があった。

ただロパーヒンの言葉に耳を貸そうともせず、「アーニャが頼めばいけ好かないが金持ちの親戚が援助してくれるかもしれない」「アーニャが裕福な男と結婚できるかもしれない」とすべてをいちばん若いアーニャに押しつけ、現実逃避しているラネーフスカヤとガーエフの姿は、もちろんそれはそれでつらいものがある。

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一夜あけて、あの石棺とポリ袋は「封印された古いもの」の象徴として舞台の上空に吊られていたのであって、具体的な直喩ではなかったのかもと思いはじめている。
幕切れ、すっかりお金がないはずの貴族たちは、大仰に嘆き悲しみながらもうまいこと逃げ出す。若者たちは新しい世界へ出発する。そうして皆に見捨てられた(と言っていいだろう)気位の高い老いた使用人だけが取り残されて、ゆっくりと下りてきた石棺の中に閉じ込められる。そのことを誰も知らない。

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