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ひとり暮らしをしていたころは、帰宅してシャワーも浴びず歯磨きもせず寝落ちてしまうことがしょっちゅうあった。のだが、実家に戻ってきてからのこの二年ほどは、入浴・Duolingo・ラジオ英会話・22時半の猫の餌やり・歯磨きというルーティンをほぼ毎日こなせるようになり、こなせるようになるとむしろやらないと落ち着かなくなった。
そんなわけで夕ごはんを食べたところで力尽きて倒れ寝するのはずいぶん久しぶりだ。19時半ごろから寝ていたせいか変な時間に目が覚めてしまった。この季節の4時はまだ暗い。風が強いな。

退職を伝えてから三週間、ようやく最終出社日が確定し、本格的な引き継ぎが始まり、送別イベント的なものもあわただしく行われ、気が緩んだのだと思う。どっと疲れた。

ツイッターはいよいよもうダメなのかなと思う。ツイログが連携できなくなり、新規ツイートを取得できなくなった、という報告にほんとうに終わりを感じた(貧乏性なので、書いた言葉は原則ログをとっておきたくなる)。私のホーム画面のアイコンはまだ柴犬ではなく青い鳥のままなのだけれど。

いま住んでいる家の中ではあるが引越しが迫っている。家族と部屋を交換するのだ。
少しずつ準備を進めなければならないとわかってはいるものの、手をつける気になれない。何から手をつけたらいいのかもわからない。

まずは不用品を処分するところからだが、それをやる心理的なハードルが異常に高い。必要なものと不必要なものを分けることができない。できない、というか、したくない(「できない」と「したくない」はイコールだよねと常々思う)。

たとえば何年も着ていない服、読み返していない本、むしろ開いたことがない本、買って満足して未開封のCD、持て余しているライヴのグッズ、ツアーパンフ……
何もかも必要ない。本棚の最上段に恭しく飾ってある、某ミュージシャンのサイン入りのポストカードですら、必要か? と訊ねられたら即答できない。もう要らないのだ。要らなくなってしまった。

たぶん、この部屋にあるもののほとんどはいまの私には「要らない」もので、空っぽにしても私はさほど困らないだろう。
それをみとめるのが怖い。過去に夢中で集めて「墓場まで持っていく」と思っていたものたちを、いまの私は捨ててしまえる、その事実に向き合うことが怖い。

東日本大震災の数年後くらいから、3月11日のSNSの空気がどうにもしんどくなって、この日だけはツイートしない、極力タイムラインも見ない、ということをするようになった。ツイログを確認したら2017年からだった。
今年も今日はツイートしないが、しかしツイッターの雰囲気は六年ほどでずいぶん変わった気がする。単純に言及が減った。そういえば、数年前までは3月になったあたりから連日「忘れない」を連呼していた印象がある地上波TVも、今年はWBC一色だ。新型コロナという新たな災厄の影響もあるかもしれない。

なるほどこうして「忘れられる」のか、とふと思った。いや、まだ少しも忘れられてはいない。終わっていないのに忘れることはできない。それでも、時間が経った。

Yahoo!の「3.11と検索すると10円寄付される」キャンペーンにも、今年は素直に参加することができた。風化させないことは必要だ。

時間が経ったのだ、と繰り返し思う。

去年の3月11日は休暇をとって、国立新美術館へダミアン・ハーストの「桜」を観に行った。
今日は世田谷パブリックシアターで『ハムレット』を観ます。

音楽を聴けないのも、部屋の片付けができないのも、思い出にのまれて死にたくならないように、という防衛がはたらいているのかもしれない。

ものすごく久しぶりにBUCK-TICKの「Ash-ra」を聴き、そこからずるずるとSOFT BALLETのライヴ映像を観た。観はじめてすぐにいきいきと踊りまくっている森岡賢さんが目に飛び込んできて、ああそうだ、この人がもうこの世にいないことがつらくて、SOFT BALLETもminus(-)も遠ざけてしまったんだ、とすぐに思い出す。つらい。

2002年から2003年にかけての、SOFT BALLETの期間限定再結成のライヴはほんとうに楽しかった。あのときほどに熱狂できる瞬間がこの先訪れるとは到底思えない。こういうことを思うたび、自分はなんて寂しい人間なんだろう、と思うけれど、そのくらい過去に経験したライヴで浴びた輝きが強くて消すことができない。私もミュージシャンたちも歳をとってしまったし、一緒に光を分かち合った当時の友人も、もう私の隣にはいない。

ライヴに行かなくなったし、音楽を聴かなくなった。そのことが精神状態にもよくない影響を与えているんじゃないか、とも疑っているが、かといって好きだったバンドの楽曲を聴きだすと懐かしさにのまれ、生きていてもこの曲をライヴで聴いていたとき以上に良いことなんかないのに、という穏やかな絶望が押し寄せてくる。

一泊二日で宝塚〜奈良へ行ってきた。新型コロナが流行しはじめてからも、新幹線に乗ったりホテルに泊まったり新幹線に乗ってホテルに泊まったりしていなかったわけではないのだが、久しぶりにしっかり「旅行した」という感じがある。感染症の波がかなり落ち着いていて、道中もあまり緊張せずにすんだからかもしれない。海外からの観光客の姿もあった。

初めて訪れた興福寺がとてもよかった。美形と名高い阿修羅像は特別展で観た覚えがあるが、大混雑で立ち止まることも許されずにちらっと観たのとはまったく違う体験だった。憤怒というよりは苦悩を内に秘めているような阿修羅像だけでなく、八部衆はみな魅力的だった。胸部だけの五部浄像も美しい顔をしていた。
出土した八世紀のものだという水晶の珠が澄んでいたこと、千手観音がものすごい迫力だったことも忘れがたい。

興福寺や東大寺の南大門のあたりには人が多かったが、二月堂、三月堂、正倉院の周辺は人が少なく、鹿がのんびり闊歩しているなかを歩けたこともよかった。天気がよく、あたたかくて、ほんとうにのどかな春の一日だった。

歩き疲れ、近鉄奈良駅の近くで飲んだレオニダスのホットチョコレートがたいへんおいしかった。

いちにちパジャマのままで、家から一歩も出ずに休みを終えることが増えた。それでも家で作文をするとか本を読むとか部屋を片付けるとか、何か有意義なことができればよかったんだけど、ぼうっとツイッターを眺めることしかできなかった。とりあえずお風呂には入ったので(家族と暮らしはじめてから風呂をサボらずに済むようになった)それでよかったことにしたい。入浴は大仕事だ。

会社でエネルギーを消耗しすぎているのだと思う。何もせずぼうっとする時間をたくさんとっているからこそ、本格的に精神の調子を崩すことなく日々を乗りきれているんだろう、とも思う。
でも自分がしたいと思っているはずのことを何もできず終わっていく一日はやはり虚しく、自分のための人生を怠けているという罪悪感も起こる。欲しいものとか、やりたいこととか、欲望が萎えていく。

無理をせず、自分を甘やかすことは大切なんだけど、こんなふうに日々が過ぎていくことはそれはそれでしんどい、と焦りながら二月が終わる。
明日は髪を切りに行くので、今日よりは少しはマシな日曜日にしたい。

500文字以上あるとけっこう「まとまった文章」になるので気負ってしまい、ツイッターでやるように気楽なひとことを投げるということがここではまだできない。どうせだからツイッターとは違う使い方をしたい、という貧乏人根性(?)みたいな気持ちがある。単にこの場に慣れていないだけかもしれない。

自分しか読まない書きなぐりの日記レベルでも、文章を書き始めると長くなるほうで、それもあって腰が重い。書き始めたからには最後はきちんと落とさなければ、みたいな意識も常にある。
だけどさすがに140文字だと何もできないので開き直って脈絡なくつぶやけてしまう、なるほどツイッターの中毒になるわけだわ、とあらためて思います。

とはいえこのくらいの量があったほうが安定するし、書くにも読むにも負荷がかかることで逆に健康的な伝達になるのでは、という気もしている。

私が10歳くらいのとき、団地への引っ越しのために当時飼っていた犬を父方の祖父母の家に預けた。そのことを母はずっと辛がっていて、たまに祖父母の家に遊びに行って帰るとき、犬が引きとめるように吠えるのが辛くてたまらなかった、とよく言っていた。私は長いこと母の辛さがまったくわからず、平気で過ごしていたんだけど、この数年なぜか突然そのときの母の身を切られるような辛さを想像することが増えた。想像なのに、今こうして文章を打っているだけで涙が出てくるぐらい辛いし、その辛さを何十年も流していたことが申し訳なく、とても辛い。犬は私が18歳のとき亡くなった。四半世紀前のことがなぜ、今になって当時よりも辛く思えるのだろう。

勤務先に上がってきた自己啓発系の企画書を眺めてたんだけど、著者がとにかく「超人」という感じのものすごい能力者で圧倒されてしまった。たしかに先天的に大きなハンディを負っているものの、それを補って余りあるすさまじい努力の才能があり、「こんな自分でも人一倍の努力でこれだけのことを為したのだから」みたいなストーリーには全く乗れない…と感じてしまった。
並ならぬ努力ができることはそれ自体が能力だと私は考えています。

モデルケースとして登場する人たちが総じてハイスペックであり、「キラキラ」しているのはそういうものだから仕方がないことなのだろうか。
そうしないと注目してもらえないから戦略として「キラキラ」を盛って、あげく「キラキラ◯◯」と揶揄される、みたいな流れがもしあるのなら、断ちたいけど、どうしたらいいんだろう。
ボロボロの賃貸ややりがいのない賃労働から抜け出せず、電気代の値上げに怯え、休日は無気力に寝て過ごす、みたいな私の生活実感と乖離して見える「あちら側」。でもほんとうは地続きのはずなのになあ。

日がよく差しこむようになったのか、猫様が人間の膝から下りて出窓のそばで丸くなっていた。立春を感じる。

季節の変わり目だからか、あるいは年齢的なものかもしれないけど、猫様は去年の夏からやたらと体を舐めてハゲを作るようになってしまった。
今も洋梨のエリザベスカラーをつけて薬を飲まされたり塗られたりしているんだけど、べつに命にかかわるわけでもない小さなハゲごときで自由を制限され色々強いられているのは良いのか悪いのか、完全に人間のエゴだなと思う。女の子が「体に傷をつけるな」と言われるのと同じことを猫様に強いている。

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