ついにあらわれた「私はこの本の論旨を掴めていません(そもそも理解する気がありません)」という告白でしかないレビュー!!
「考え方は個人の自由」というフレーズは一度も使っていないし、そういう安易な"自由主義"とは違う意味で「唯一絶対/不変の正解はない」ということを常に書いている本なので、ようするにこのレビューは最初から「反差別とかうぜえ」という思考回路の持ち主が、そういった主旨の本を腐すために書いているもので、まあよく見られるやつではあります。
問題なのはこの手のクソレビューに抵抗する手段が著者にはなく、ほかの読者によるレビューで批判・反論してもらうしかないという点。ということで、Amazon経由で購入していない方もぜひ「読んだままの素直な感想」を書いてくださいませ。
https://www.amazon.co.jp/ユートピアとしての本屋:暗闇のなかの確かな場所-関口-竜平/dp/4272331116
論点のズレたリプやら引用やらはたくさん来ているのだけど、特に深い理由もなくこれに反論してみたらこんな感じの反応が来た。これが平均的な感覚なのか、ズレの大きい感覚なのかはわからない。いずれにせよ「推し」文化の危うさは垣間見れるし、その危うさの根本を解きほぐさないといかんな、と思う次第。この人に「馬鹿」だとか「無知」だとか言っても仕方がなく、なぜこのような思考回路になるのか、その背景を考えなくてはならない。
本屋関連の取材的なものでも「顔写真の掲載」が必要条件として載せられてるものがあったり、あるいは条件の明示はなくても「店主さんの顔がわかる写真を1枚......」と最後に撮られてそれがデカデカと載る、みたいなパターンは多い。メディア側の見えてなさ感というか、「ほら、せっかくメディアに載るいい機会なんだから顔(と名前)も出しなよ、名誉でしょ?アピールアピール!」みたいな感覚が、自覚/無自覚問わずあるのではないかと思う。
なのでこちらから素材を提供できるものに関しては幼少期とかおぺんとかにして抵抗している。
なんもやる気でないしお客さんも来ないので、入荷したばかりの『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』を読んでいる。正確には訳者解説から読んだ。そしたらこのように締めくくられていて最高だった。これはぜったいに読んでよかったとなる本だ。
「そうだ、著者にならってもう少し正確に言っておくべきことがあった。ようこそ日本語でのエースの世界へ。でも、一つのエースの世界なんて、やっぱりない。だからこう言おう。ようこそエースの一つならざる世界へ。ここはあらゆる人にとっての真の性的自由が追求される場所なんだ。」411p
私の本の場合、①「誰に」→反差別の実践をすでにしている人(業界人もそれ以外も)と、反差別の実践をしたいけどどうやればいいかわからないでいる業界人、というのが最重要ターゲット。次に、そのあたりのことがわかっていない業界人。
②「どれくらい(規模)」→となると初版3000部は非常に妥当で、うまくいけば数年かけて1万部までいくかもしれないね、くらいの規模感を想定している。
③「受け取られ方」→当然、反差別の実践をすることや、社会のことを考えながら本屋をやること、そのようなことを意識してもらえるようになってもらいたいわけである。
という前提があるので、まずやってはいけないこととして「本屋の書いた本好きエッセイ」として見られる装いにしてしまうことがあげられる。ゆえに推薦文は人文系の要素が「ちゃんと」出る人に依頼した。あと、地味なところだとCコードという書籍分類を0036=社会にした。これによって大型書店で機械的に陳列されてしまうときにも「人文社会」の棚にいくようになる。装丁も担当の惣田さんに「本📕!!感が強く出過ぎない、しかし本屋の話であることは伝わるもの」みたいなことをお願いした。
画像説明は次の投稿で。
今年ラストを締めくくる1冊をどれにしようかと店内を散策したがなにがなんだかわからなくなり(自分のお店の棚≒積読)、奥の部屋にある返品待ちや献本でもらったものや参照用/文献用の本が無造作に放り込まれている棚からこいつを持ってきてしまった。学生のときに買い、まともに読めずに放置されていた1冊を実家から救い出したもの。よくそんなんで修論を書けたものだと思うが、博士に進む予定のない就職確定組だったから甘々査定だったのだろう。しかし来年の目標のひとつは書くことであり、なんだかんだで文学理論は役にたつし、ここらであらためて基礎をさらっておくのはよいなと思い、明日の夜からちびちび読む予定。理解できるかはわからん。やる気だけは常にある。たぶん学生のころもそうだった。あかん。
本屋lighthouseのナカノヒト。おぺんのおともだち。