さっき軍港の埋め立てについての投稿を見て思ったこと。私が政治や社会の動きについてネットや実際の活動で何か言いにくい・言いたくない・考えたくない、と感じちゃうのは、特に地元沖縄の問題になると顕著になる。地元をインターネットで特定されたくないってのはもちろんあるけど、「この問題について何も言っていない」というのが分かりやすくなるから。
Whataboutismみたいに、「このことを言っているけどあのことは言わないのか」と難癖つけ始めたら終わりがない。ちょっと話がズレるけど、トランス差別的本の発売が中止になった際に「反対している人たちは⚪︎⚪︎差別のことは何も言ってなかったから連帯と言われても」という意見が流れてきたのを見て、これこそワットアバウティズムなんじゃないのかと呆れたことがある。
ま、私は何に対しても考えが浅いから「私は考えてるもん!」と言うつもりはないけど…。
Everybody has their own special Holmes and Watson, and mine is the hound of the baskervilles (2002) (more specifically Ian Hart’s Watson). The movie itself has typically 2000s vibes, overly grimy and bloody (and bit boring) also the cgi hound was laughable, but I love the dynamics between the detective and the doctor. That wasn’t my first Holmes series but the movie has special place in my heart :D
BT
もうセウォル号事件から10年なのですね。
このセウォル号事件についてのハンギョレの寄稿。
書いているのは「軍人権センター」という、軍隊内の人権侵害問題を専門とする市民団体の方でした。
ドラマ「D.P. -脱走兵追跡官-」を見た際、作品が向き合っている現実の重さに驚きましたが、
本当にこうやって、悲劇が起きた原因を探ってそれが構造的な問題ならば構造から変えていかねばならないという姿勢で、取り組みを現実におこなっているからこそ、そうした作品も生まれるのだと思いました。
https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/49739.html
「最近「真実の力 セウォル号記録チーム」が出版した本『セウォル号、改めて記すあの日の記録』には、次のような一節がある。「この苦しみの記録のど真ん中を通らなければ、私たちはどこにも向かうことができない。惨事の記憶は未来へと向かう私たちの足を引っ張るものではなく、現実に順応しようとする私たちの頭をつかんで起こす。(中略)私たちがこの記録と記憶から逃げようとする時、やってきた通りにやり、生きてきた通りに生きようとする時、韓国社会は2014年4月15日にセウォル号が出港したあの夜の状態へと逆戻りせざるを得ない。惨事を招いた社会構造を再生産するのは、それほど簡単なことなのだ」」 [参照]
二次創作やおい好き、映画見て絵とか漫画描く人です。