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というよりは、CWの警告文に「ネタバレの恐れあり」と書けばいいのかな。シゴト柄、作品についてあれこれ書くのがフツーなので、そういう気遣いが少なくなってるかも。さすがにいきなりオチは書かないにしても。

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本文が長いですというのも、「Contents Warning」の対象と考える習慣みたい。ということは、長い本文を隠すのはいいとして、そこに書くのは、標題よりは、「長いです」と書くのが本来の趣旨には沿っているのかも知れない。

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警告文のところに何か標題とかコメントを入れるといいみたい。そこが空欄だと機能しない。

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『オリーブの林をぬけて』(③) 

一般には、映画とかテレビドラマは、台詞のやりとりがスムーズに行われていくが、キアロスタミの映画では、言い間違いとか、聞き間違いとか、聞こえてないとか、聞いてないとか、行動にしてもうまく行かなくて何回もやり直すとか、そういうのがお構いなしに繰り返されるので、そのために、素朴で自然な感じが増した映像になるのだろう。

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『オリーブの林をぬけて』(②) 

『オリーブの林をぬけて』の映画のなかでは、親戚が65人亡くなったというのをホセインが言えなくて25人と言ってしまったり、タヘレがホセインのことをホセインさんと言えなくてホセインと言ってしまったりして、そこで何度もカットがかかる。そして、監督役の俳優が、「カット」と言って、「65人と言うんだ」とか、「何回言ったら分かるんだ」とか言っていくわけだが、実際には『オリーブの林をぬけて』のそのシーンを撮るときに、監督のキアロスタミが「カット!」と言って、「『65人と言ってください』じゃなくて『65人と言うんだ』の方がいいだろう、もう一度!」といった調子でおそらく言ってるはずなのである。でもそういう入れ子の入れ子が想像しづらくて、映画のなかで映画を撮っているこの映画が、シナリオ通りの映画というよりは、ドキュメンタリーではないにしてもドキュメンタリーふうのそれに近いものに見えてしまうのではないだろうか。

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『オリーブの林をぬけて』(①) 

『オリーブの林をぬけて』は、映画を撮るという映画で、『そして人生はつづく』のなかのワンシーンを苦労しながら撮っていて、『そして人生はつづく』の方では短い時間で見たシーンでありながら、『オリーブの林をぬけて』では、いろいろと撮影にいたるまでにも問題があるし、撮影してても台詞がうまく言えなくて何度も撮り直しになったりしているので、『そして人生はつづく』の映画の外の現実はこんなふうなのだろうという思いに駆られてしまう。
しかし実際は、台詞がうまく言えなくて何度も撮り直しになるという新たな脚本があって、そこでの台詞が上手く言えないという台詞をうまく言えた結果の映像を見ているはずなのである。

なるほど。この辺がまだよく分かってない。(警告文を入れないと、この機能は発動しないのだろうか。)
QT: mstdn.jp/@fukujikun1030/109300
[参照]

ふくじくん  
マストドンで長文流す時はCW機能で隠すといいですよ!

哲学者のイマニュエル・カントのことを鹿児島の人が親しみを込めてもしも「カントどん」と言うことがあったとしたら、それと同じように、マストという名前の人がいてその人を「マストどん」とよぶような、そういう発音の仕方と言えばいいだろうか。

ʍqɹ(pɹᴉqᴉpǝɟ) さんがブースト
ʍqɹ(pɹᴉqᴉpǝɟ) さんがブースト

しかも、『ケロッグ博士』と『オリーブの林をぬけて』は元々の公開年が同じようなので、淀川長治は、日本での公開年で年間ベストテンとかベストワンとか言ってるのかな。

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自分はどうかと言ったら、基本は自分に向けて、そのときの連想の去来を残す感じで書いてて、でもフォローの関係にあってたまたまその時間にその人自身のタイムラインを見てるという人の目に触れることもるかなぐらい・・だとすると、ツイッターでつくられた自分のなかの「構え」が、そうすぐには外れないという感じかな。
でもここでは500字まで書けるので、こういうふうに書いてると却って増幅されて、そこから転倒して差異が生じることもありうるのかも知れないけど。

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ツイッターには乱暴に殴りかかってくる者がいて、ここにはいない、というふうなことを書かれている人は何人かホームのタイムラインにもおられるけど、自分はもともとツイッターでは鍵付きだったので、そういうのとは違う、同じ人でも微妙に変化した向き合い方の構えになりそうなところが気にかかっている。

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ツイッターから来てツイッターのときのような振る舞いをしている人もいれば、ツイッターで見たのとは違う感じかなという人もいて、好きに独り言をつぶやくか、ここにそっと発言を残しておきますという感じで投稿するか、そういう違いというか、幅があることをうすうす感じ始めてる。
ツイッターで長年つぶやきを読ませてもらって同時にこちらに来た人が何人かおられて、基本ツイッターだけどでもちょっと振る舞いが違うかなという感じに見受けられたりして、それを面白いことだと言えばいいのか、これはどういうことだろうと戸惑えばいいのか、まだちょっと分からない。
2週間前に初めてマストドンというものに触れて、見た感じはツイッターだなと思ったのとは違うなあというのは、だんだん心のなかで増してはきているけど、上手に端的に、とくにまだツイッターにいる人にこんな感じだったよとその違いを伝えるところまでは行ってない。

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ツイッターは一人一人見ているタイムラインが違うという前提があり、そのなかで自由に個別に応答するということで成り立っているとすると、マストドンはどうも違うところがあり、とくにサーバ毎にテーマがあるようなローカルタイムラインとかだと、ある程度同じタイムラインを見ていて、そこで応答というかたちではなく人に聞こえてるかも知れないという前提で独り言を言うということで成り立っている気がする。
とくに、ホームがないとか、フォローができないとか、野球ドンのようなものに、これはどういう原理なんだろうと戸惑いを感じるのはそういうところかな。

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エスプレッソはいつもマグカップで。でも、寝不足。

サーバごとにテーマがあるというのと、連合してて種種雑多な投稿が混じるというのと、そのどちらも設計上ありうる場合、それを同列の地平に並べたら、そこにすでに矛盾の芽が内包されている気もするので、そこにどういう論理階梯を入れて整序していくのか、そこに解釈の立場が生まれそう。

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抽象的な精神論寄りの話と、それだったらここのところをこういうふうにしてこう使えばいいのよというプラグマティックな話と、そこを噛み合わせるのが新参にとってはぼちぼちやるしかない部分なのかも。

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自分のなかでサーバ毎に話題を変え、言語も変えて、いろいろな自分を緩やかに括れるのはもはや自分だけというやり方が一方にあったら、1つのサーバに1つのアカウントでずっといて、そこで幅のある投稿をそれだけの幅をもっった存在が自分だというかたちでやっていくというやり方がその反対側にある感じかな。
やっぱり、連合とかローカルとか、それがまったくない方がスッキリする人は、ローカルのないサーバにいて、連合を見ないで、未収載で投稿していくというのが、1つのスタンスかな・・。

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その話はもう前にしたなというので、過去の投稿をブーストして、時間的に過去から引き上げているのは何回か目にしたけど、サーバが横に連携していると言われている(でも新参には何がどうつながっているか見えていない)ところで、そして、検索性(これも実感がつかめないものではある)が落ちるとされているところで、横に広げるブーストみたいなのはあんまり考えないものなんだろうか。

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