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全粒粉を1割、モルトパウダーをひとさじ。昨年はイースト少なめ、低温発酵のパンに随分トライしましたが、その時の材料です。

香りがすごくいい!!

なお付録に音韻論の教科書みたいなことが書いてある。これが非常にコンパクトで分かりやすい。音韻を専門にする人でもここまですっきり書けないと思います。

ともあれ、面白かった。こういう本を書けるようになりたいですね。

野村剛史2011『話し言葉の日本史』吉川弘文館、読了。現代文法の専門家が、ひょんなことから文法史、音韻史へと興味を広げ、とうとう口語史を書き上げてしまった。伝統的な日本語史の概説のありかたは、口語史を過去から現在へと書き綴るので、その意味ではかなり日本語史ど真ん中の語り方だと感じた。

音韻史の部分は、私だったらこう論じるかなと思いながら読んだが、中世の文法史の部分はさすが著者のご専門ということもあって、言葉の歴史に対するパースペクティブのようなものが面白かった。ガ格が作る連体句と係り結びの関係や、片仮名申状における漢語の広がりなど、もう一度読み直したいエピソードもある。

で、そうかなあどうだろうと思うのは、「江戸の言葉+山の手に集まった地方人の言葉がコイネー化して標準語になった」という比較的広く受け入れられている説に対して、「江戸期にすでに上方由来の共通語のようなものが存在していて、それを継承したのが山の手言葉、標準語はその意味で上方語の系譜」という説。面白い、とは思う。江戸弁に一部の語彙や文法に関西の影響が見られるとは従来から言うけれど、借用とか言語接触の枠組みで語られてきたのであって、直接的な系譜と言われるとどうかなーと思う。

比較言語学的な方法論によったものでもなし、ちょっと受け入れがたい。

今日のお遊びです。狭山湖の向こうに富士を望む。

一見すると箱みたいに分厚いのよ。アンガス・フレッチャー『文學の実効』を購入。文学の意義を人類史と脳神経科学で紐解く、と。文学部的なマインドからすると、うっせーよ!という照れ隠し的な言葉がつい出てくる。そしてそうまでして「役に立つ」を説明しなきゃいけない時代ってなんなん??と思いもするが、食わず嫌いは良くない。

それに最終章だけを最初に読んだ感触はとてもいい。だって、タイトルは「明日を発明する」というんだから。ちょっとぐっときた。

日本語学を専門にする自分ではあるが、文学部の学生にはいつもフィクションが私たちを人間にすると語っている。言語学はまたちょっと違って人文「科学」的な匂いが強いが。

マストドンの慣習に従い、カレーのご報告を申し上げます。

今週はチョコチップで。連れ合いが少し歯抜かりがする、というので250℃で12分のところを、15分で調整してみた。食べる時にはリベイクするわけで、その時にどうなっていますか。明朝の楽しみです。

そーいえば、納豆!最近の納豆は、うまみ調味料が入ったタレが附属しているじゃないですか。あれがないやつを近所のスーパーで買いまして。

monolog.r-n-i.jp/item/49765776

ネギと醤油、カラシは家にあった水で練るやつを使ったら、小さい頃によく食べた味でした。納豆の香りが、いかにタレに紛れていたかがよく分かった。

単なるノスタルジーなのかもしれませんが、こっちのほうが美味しく香りが高いように感じます。

nikkei.com/article/DGXMZO84828

70年代の終わりごろには、藁にくるまれた納豆も売っていたような記憶がある。もっとも、スーパーのは格好だけ藁で、藁からの枯草菌ではなかったかもだけど…

光の軌跡、これはやってみたかったやつ。

焼き上がりでフライパンの蓋を開けたら、辛い感じの煙が上がってむせた。だからこれは異常事態だと思えばいいのに、万願寺唐辛子にも時々当たりがある、くらいに油断していたのが間違っていたようです。

辛い食べ物は好きな方だし耐性もあるほうだと自認していますが、非常に強い攻撃性のある唐辛子でした。やばい。冷めてからもお皿の上に顔が来ると、「目が〜」ってなる。なんというかもはや「辛い」という形容詞では捉えきれない現実です。「辛い」「熱い」「痛い」に「しみる」「まぶしい」「むせる」あたりも加わって、味覚・嗅覚と視覚まで攻撃できるマルチタスクなウェポンでした。

受粉を間違えると突然変異的なものになるらしいです。知恵袋、ほんとか知らんけど。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/

食後二時間、まだ具合悪い

久しぶりに会心の出来です!嬉しい朝

食べてもないのに会心とするところが、わたくしのクオリティです

ボケまくっているけれど、スバル星団を撮影しようと頑張った…

朝から庭木の伐採をやりまくったところ、居場所がなくなったカマキリ先生ににらまれた図。

本日は昼過ぎまでバッサバッサと切り倒して、さあ昼休みというところで、謎の流しの植木のおじいさんが3トントラックで通りがかる。「俺植木屋だけど、庭みてやろっか」、からの素人では伐採できない5メートルくらいまで育ったやつを綺麗にしてもらうことにした。

80歳のご老体でゆっくりゆっくり、午後いっぱい全部使って作業をしてくれている。作業しながら昔話もしてくれて面白い。「イチゴ」の頭高型アクセントで、やっぱり群馬ご出身の方だった。

埼玉も群馬も、語法はだいたい似ていて、若い人なら「あるみたいだね」というところ「あるようだよ」というのも、関東のやや古めかしい発音で気持ちがいい。「したんだよな」の「したんだいな」という発音も。暖かな午後の日差し、ゆっくりとしたおじいさんの手仕事、のんびりしたひととき。

その話し口は、あとで国立国語研究所の方言談話資料で確認してしまった。

mmsrv.ninjal.ac.jp/hogendanwa_

これは読んでいて非常にしんどい。見えている「被害—加害」が周囲にもたらす苦しさ、それを丁寧に解きほぐそうとする回答者の苦しさ、その背後にある多重性みたいなものに胸が締め付けられる。

marshmallow-qa.com/messages/b7

(当事者でないとされる)タレントも、加害者/被害者のどちらでも捉えられてしまうように、ファンも加害者/被害者のどちらでも捉えられてしまう。ハラスメントとは少しでも関わった人たちを両義的な存在にしてしまうからこそ、罪が重いのだと思う。

「今苦しくて痛くてしんどくても、どうか外部の言葉を冷笑したり、乱暴な意見に迎合したりせず、どうして自分が苦しく感じるのか、なぜ被害者の言葉を信じられないのか、そういうことをたくさん考えてほしいです。そのことには絶対にぜったいに意味があります。」

いや、まったくそう。そうだけど、無謬で無時間的な「推す」行為が現実に曝されるのって、すんごいしんどいと思う。曝されずに済むならそうありたかったはずだし、そのためのエンタメでしょ。ファンも当事者とは次元が違えど、実はかなり爆心地に近いところにいると思う。

しかしなあ…現実を受け入れないと傷口はもっと悪化すると思う。こんなことを社会として許さないような価値観に我々はアップデートしていかないと。

武蔵野銀行の略称が「武銀(ブギン)」、人間科学部の略称が「人科(ジンカ)」というところから、略称になると元は呉音読みだったのに漢音読みになってしまう現象って、何だろうと考えている。すぐにでも思いつくのは、漢音読みのほうが一般的で汎用性が高い=言語学で言うところの無標だということ。

確かに呉音は、漢音の「行動(コウドウ)」に比べて、「行者(ギョウジャ)」など特殊な読み方が多い。

関連して読んでいた湯沢質幸『漢字は日本でどう生きてきたか』開拓社を読んでいたら、「京浜(ケイハン)」←東京(キョウ)が出てきて、なるほど路線名や道路名にもこの現象は多いなと思い返す。「京阪」「京王」「京成」すべてケイ。呉音とのペアでなくとも漢音で読む「名阪(メイハン)」なども類例か。

この本では、「埼京(サイキョウ)線」が特殊とあって、面白い。なぜ「サイケイ」ではないのか。いくつか説が上がっていて、「サイ」は実はサキがサ行イ音便化した訓読みなので、2字漢語を作るメカニズムにないというのにはうなずける。

略称を作るときには、何となく「漢語っぽいもの」を我々は無意識に作ろうとしていて、その「ぽさ」は漢音で表象されているようです。呉音は、語種としてはもちろん漢語だけれども、和語に近いということがここでも分かるということか。

ご近所の湖で。この後、雨となって退散しました。

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