家庭内での女性への抑圧や、親から子への心身への暴力が描かれる時、どうしても母親がその主体になることにいつもモヤモヤする。『虎に翼』見ててもそう。
『野球少女』という、野球界に選手として挑む女性を描いた韓国映画見てもそうだった。
子への無理解は母親の役目で、父は後からやって来て「父さんは分かってるぞ」って調子よく言う人。多少ダメな親でも、父親に関しては点が甘い感じがする。
親から子へのひどい扱いについては容赦なく描いていいと思うし、たとえ母が女性でも子よりは権力的に強者なのだから、当然責任はあると思う。
個々の作品への批判というわけでもないんだけど……なんかね。モヤりもどうしようもなく
https://twitter.com/omph_fyi/status/1374701366380097547?t=wkxp8dGKE6YYzamTWH795w&s=19
『虎に翼』で、女性用トイレが少なくて休憩時間に学生が行列したり走ったりしている場面、映画『ドリーム』でNASAの有人宇宙飛行計画に参加した黒人女性が、黒人用トイレがなくて別の棟まで毎日何往復もダッシュしてたのを思い出した。
こうやってトイレに関して不便を強いられる状況は、やはり差別と言っていいと思うんだよな。
黒人であれ、女性であれ、ジェンダーマイノリティであれ、障碍者であれ、わざわざ「分ける」ことには常にいろんな理由がついてきて、使用してる本人たちでさえそれが「自然」で「安全」だと考えがちだけど
https://www.youtube.com/watch?si=edtTisj-oegq9Qdr&v=cOw2BMDcFag&feature=youtu.be
『虎に翼』朝鮮の人たちから見た戦時中の日本の自由のなさが作品として新しい。
日本人に対するより更に強烈に、言論が取り締まられていただろうと察せられる。ハングルのネイティブたちが演じてるのもいいね
寅子から優三への恋愛感情、これかぁーーーうーんちょっと唐突すぎないか???
「男と女なら恋に落ちるのが当たり前、人と人同士なら恋に落ちるのが当たり前、だから説明は要らない」という安易な異性愛規範、恋愛伴侶規範がわたしいちばん嫌いなんですが……。
同性同士が恋に落ちること、誰とも恋に落ちないことにはいっつも「理由」が必要とされるのに、「へー『当たり前』のことだからまったく何の積み重ねもなくても納得してもらえるんだー?? いいですねー」という気持ち。
吉田恵里香さんはBLドラマの『チェリまほ』でもAセクシュアル(名言はされておらず)を登場させていたし、おなじNHKの『恋せぬふたり』の脚本も書いていたので、AロマやAセクという存在は間違いなく認識しているだろうけど、これが朝ドラの限界なのか……。
崔香淑の件も、朝鮮語というものが日本による植民地支配を受けて真っ先に排除されたものと考えると、朝鮮語読みの名前を教えるという行為で、植民地主義を批判したいという意志が薄っすらと感じられるようにも思えた。
穿って見ればの話だけれどね
https://twitter.com/omph_fyi/status/1480546888633835521?t=mfX_N0wc9ISmSNdWTePgbg&s=19
『虎に翼』よねさんは「帰るなら今」じゃなくて、せめて崔香淑の側に寄り沿って怒ってほしかったんですが……。あの怒りは何のためにあったんだ。日本の民族的マジョリティのため?
崔香淑が謝るくらいなら、夢を追わせてあげられなくて、命の危険にさらしてごめんと日本人が謝るべきだった。
「どんなに権利意識が強くても決して中国や朝鮮の側には立たないし、侵略国としての責任は考えない」という、極めて植民地主義的な信念がなんだかやたら生々しく感じられる(ほめてない)。
日本版ホワイトフェミニズムの現在地を知らせることは、製作側の意図したところではないだろうが、よく分かった