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説得術 

他人にある事柄を説明する為の文書を作成したりすると、自分の説明が色々なものを端折る傾向を持っていることに気付かされる。

論理の繋がりをわかりやすくする為の接続詞的な何か、前提となる知識を共有する為の前振り、自分にとって自明と思われる言葉を省くなど。

結論を先に示してしまう傾向を人によっては通じにくいのかもしれない。

論理的な明快さよりも情緒的理解(?)を優先する人もいるかもしれない。

系統立てられた主題とその論理的展開及び帰結を示されるよりも、井戸端会議やスーパーでの立ち話的な何かを模したやり取りによった方が説得されやすい人もいるのかもしれない。

自転車を2時間漕いだ後、テニスを4時間やった。
運動は健康に良いと聞くが、やり過ぎはマズいのではと思った(感想)。

神輿を担いだ話をされたが、担いだことも関わったこともなかったので反応に困ってしまった。

思えばそれは神道か何かの行事なのであって宗教的な催しに関する話題に属するのであろうから、もうちょっと扱いに慎重さを要する話題だったのではなかろうか?

無意識化された宗教というか慣習化した宗教というか、そういったものに他者への加害性的な何かがあるとまでは思わなかった。

しかし語り口が無邪気だったことに対して多少困惑したというのも事実である……。

恐らく、その人にとっては宗教的側面よりも昔話•子どもの頃の記憶という意味合いの方が大きかったのかもしれない。

念の為に書いておきますが、姿勢への指摘と記事の内容との間に何らかの意味上の繋がりを持たせようとする意図はありません。

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賞状を受け取るかのようにして文書を受け取る際の身体の使い方にはもっと楽な方法があると思う。

この写真では上腕を外旋させ、前腕を回内させているように思われる。

だが肩より上に腕を上げる時には恐らく上腕を内旋させ、前腕を回外させた方が楽だと思う。

そうすればこの写真のような肘の極端な曲がりは避けられると思う。
多分この写真の姿勢は上腕の外側と下側に張りが出るのではないかと思います。

この写真でのような腕の使い方はこの状況にあまり合っていないのではという指摘です。

※補足
ここでは上腕での外巻きを外旋と呼び、上腕の内巻きを内旋と呼んでいる。
またここでは前腕の外巻きを回外と呼び、前腕の内巻きを回内と呼んでいる。 [参照]

唐崎の修道院を訪問したことがありますが眺めと雰囲気が素晴らしかったです。

聖書にはガリラヤ湖というのが出てくるのですが、それを思い出しながら祈りの雰囲気の中で琵琶湖をじっと眺めていると心が洗われる思いがします。

眺望と関連させて福音について考えるのは多分日本人の心に合っていると思います……かなり適当な発言だとは思いますが!😂

以下は、カトリック京都司教区唐崎メリノールセンターのウェブサイトへの短縮リンク。
kyoto-catholic.net/唐崎メリノールハウス-

※施設の画像をクリックすると施設内外の画像を閲覧可能。 [参照]

多分これは既に答えを含んだ問いだったのかもしれないですね。

というのも、「その人の内部において個々の単語がどのようなコンテキストに基づいて使われているか」を理解することを通じてその人の思考的(?)な世界観を理解することを推奨しているようにも思われるので。 [参照]

運動の経験者や、哲学者/思想家の人達が時に理解の難しい文章を書くことがあるようだ。

それは思考の軌跡や蓄積を反映かもしれないと思った。

述べる事柄が例えば一般論などではなく、自らの身体や頭脳を動かして実践した結果として出てきた表現であるならばそれは個別的/個人的な性質を帯びやすくなるのではないか。

ではそれをどうやって理解するのか?

その人独自の体験の軌跡の影響を受けた個々の単語の理解も重要ではあるが、多分総体としてのその人の世界観的な何かを理解するのが手っ取り早そうだと思う。
つまりどういうコンテクストを帯びさせて、ある単語をその人は用いているのか。

多分個々の単語の特殊な用いられ方に拘泥するのではなく、総体として理解した上で個々の意味が浮き上がってくるようにした方が良いのではということ。

周囲の状況といった意味でのコンテキストではなく、その人の体験内部におけるコンテキスト(?)といったようなものが"その人の理解"を理解する上で重要なのかなと思った。

ではどうやってその人の思考における世界観的何かを理解するのかという話にはなると思うのですが……難しい話だと思います(匙を投げる)。

どうやら所謂"自然派"だのそういう系統の首長が何人かいるらしい。
何故当選してしまったのかと思うが、状況によってはそういうこともあり得るのだろう。

ただその自治体の住民はどうなるのか。
その健康は?

そういった自治体から引っ越すのを検討するという話も見かけた。
そういった人を支持する人達が一定数いることまで考えると、住み心地ははたしてどうなのだろうなどと思ってしまう。
もっとも自分がそこに住むわけではないのですが……。

なるほど、オーディオブックだと訛りが聞けるのか……。

関西弁で書かれた本……というかいわゆる標準語から離れた言葉によって書かれた本というのも、オーディオブックを使うなら豊かな体験を読者(?)に与えうるのかもしれないと思った。

地域的な違いのみならず、時代的な違いも音声ならばそれらを込みにして表現しうるのかも。
とはいえ、オーディオブックは一度も体験したことがないので想像で書いているのですが……。 [参照]

xについては扱いが難しいと感じる。

文字数の制限、炎上•揚げ足取り•不満の捌け口化など色々と困難があると感じる。

ただ居る人達の層は厚くかつ幅広いとも感じていて、情報も沢山出ているとも思う。

こういったxの魅力的な何かももしかしたらそうしたマイナス面にある意味支えられている面もあったりするのかなと考えたりすると、良いプラットフォームとは一体何かと思わざるを得ない……。

こちらとしてはできるだけ相手の真意を汲み取ろう/好意的に解釈しようとは心掛けているのだが、意味を取ることの難しい文章を書く人がたまにいて困惑する。

多分文章の作成スキル的何かといった部分に難があるのではないかと思う。
しかし口頭表現なら大丈夫かというと、接点がSNS上だけであったりするとその辺りの確認も難しい。

例えば接続詞を使わずに複数の短文を繋げている文章は、内部のロジックを予測できる場合には読解可能だと思われる。

だがSNS上などの不特定多数かつほぼ初対面の人達とのコミュケーションにおいて、こうした文章上の特性は意味を上手く伝達しないのではないかと思われる。

前総理大臣に対してもそうだったが、現在の総理大臣に対しても罵倒やら穏やかではない発言をしている人をSNS上では時々見かける。
侮辱をしたり暴力を仄めかしたりするのは不適切だと思うのだが、どういうつもりなのだろうか。

時の権力者に対してならそういったことをしても許されるという考えなのだろうか。
場によってはアカウントの凍結などがありうると思うのだが……。

そして総理大臣がするかどうかはわからないものの、ひとによっては法的措置を検討する場合もあるのではないか。

……だと以前は自分も思っていました。

つまりいわゆる古典的作品に関しては
(1)ネタバレしようがその価値は減るものでもなさそうだし、
(2)新作という扱いにも恐らくならないのだろうからと思って。

(2)に関しては、
原典の再定義/校訂/研究の進捗はいわゆる古典的作品を"新作"化するのかもしれませんし、新訳の登場も同様かもしれません。

ただそういう事情はさておき、自分がまだ読んでいないものについて他人が内容をバラしてくる(!)と不機嫌になるひとも一定数いるような気もします。

自分はネタバレ(?)されると内容をざっくり把握するのに必要な時間を節約することができたと思って喜んでいることが多いと思います。
もしかしたら(1)のような性質を帯びていると思われる作品を好む傾向があるのかもしれません。時の試練を経た何かというような……。 [参照]

二重転回 さんがブースト

[緩募] 知人の80歳のお誕生日祝いにドネーションをして、その経験をカードに書いて送ってください、という要望をいただいたので、適当なドネーション先を探しています。今のところドメスティック・バイオレンスの緊急シェルターに寄付しようと思ってるのですけど、他に何かよいアイデアがあればリプください。

コロナの感染者数をどう推定するのか 

コロナの感染者数について色々な解釈が飛び交っているように思われる。

発信者が医師であっても、見ている場所がどこかによって数は違いそう。
誰を見ているのかという点において重症度の違い、地域/住民の性質の違いを考慮する必要はあるのかもしれない。

感染者が自主的に症状などを登録するウェブサイトもあるようだが、そもそもそんな意識の高い行動を取ってくれるような人は感染予防への意識も高いのかもしれない。
結果、報告が過小なのかもしれない。

(検査代や薬代を惜しんでそもそも)受診しない人達を医療機関はカウントしないのかもしれない。
そこからの報告数を元に公的機関による報告が作れるとすれば、その報告も過小になるのかもしれない。

救急車の出動回数のカウントは(ワクチン接種がある程度進んで)重症者が出にくくなった現時点でも、まだ以前と同じような妥当性はあるのだろうか?

「クラシック(音楽)が好き」と言ったところ、「ムカつく。貴族や王様の為の音楽。香水とかつけてそう」という反応が来たことがある。

実際はクラシックではなくバロック辺りなのですがその辺はさておき、今自分がメヌエットなどを書いていることを知ったらその人は何と言っただろうか。

クラシックへの好みを表明すると階級社会(?違うか😅)か何かを支持しているかのように見られる可能性もあるのだろうななどと思いました。

現役をいつまで続けるかという問いに対して、「まだまだ続けるよ。ローンがあるからね」と返事する人がいる。
他にも働き続ける理由として「子供が大きくなるまでは」などもありえそう。

ローンも子供もない人はどうやって現役を続けるモチベーションを保っているのだろうか?

ローンや子供がある人は、それらがない場合には働くのを程々にまで少なくしていただろうか?

あまり詳しくない人から質問を受けた時、愚問だなとか幼稚な質問だなと思うことがある。
しかしせっかくだから役に立つことを教えてあげようと思って、少し捻った回答をしたりする。
ところが相手はその回答の意味がよくわからないのか途端に興味を失ったかのよう反応を示してしまう。
自分はやや気まずい思いをし、少し落胆してしまう。

多分自分が回答に少し捻りを入れようとしたのが間違いだったのではないか。

何が言いたいのかというと、相手が消化できるレベルの栄養というか食物を与えた方が良いのだろうということ。
また、相手の理解度に関する自分の把握が充分ではなかった可能位も示唆していると思う。
更に言えば無意識のうちに自分が専門家風であると見られたがっていた可能性もあるのかもしれない。

歳をとったせいなのか、既に人生の色々が見えてしまっているような感覚に襲われる時がある。

老い/死/病苦/別離などは恐らく人生の後半に来ることが多いのだろうから、そうした「もう人生のことはわかっている」というような態度は恐らく間違いなのだろうと思う。
※尤もいつが"後半"にあたるのかは人それぞれだとは思うが。

中年になると一念発起する人がいるとは聞くが、こうした"何かわかってしまっている感"が与える人生に関しての倦怠感的何かが影響しているのかななどと思う。

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