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論理について最近考えている事を雑だが備忘的に記しておく。
香西秀信氏の「論より詭弁」と「論理病をなおす」に影響を受けた考えである。

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(1)
論理と非論理の境界は実は曖昧であり、状況や見方によって論理的か非論理的かは変化してしまう。

(1)の補足
科学•数学における論理は芸術•思想における論理と異なっていそう。

中谷宇吉郎氏の「科学の方法」(岩波新書)の最後には、同氏の弟が土器を計測する事によって属する時代を分類できないか試行錯誤していた話が出てくる。
結局それは上手くいかなかったようなのだが、宇吉郎氏は「芸術は芸術の領域から出なければずっと安泰だろう」と書いていたように思う(うろ覚え)。
そこから、2つの領域を支配する論理は異なるのではと思った。

差異自体を問題視しているのではなく、混同して使用してしまう事が問題なのでは。

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(2)
討論におけるいわゆる論理は喧嘩的であり、科学に関する論文は論理的であると思われる。

これは純粋に論理性によって判断される科学論文と比べて、討論では論理性以外の例えば社会的地位•経済力•権威等の差•パフォーマンスetc.が大きな位置を占めてしまいやすいだろうという判断から来ている。
結果的に、討論での論理はあまり論理的ではなさそうである。

ゆっくりとですが読み続け、先程読み終えました。

色々な見方を著者が批判的に検討していく様子を眺めるのを楽しい……と感じました。 [参照]

明日4/4は聖イシドロ司教教会博士の記念日らしいので、かつて読むのが習慣だった「第2朗読」の中の同氏の著作からの抜粋に少し目を通しました。

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※ご存知の人も多いかもしれませんが、一応念の為に説明。第2朗読は教会の祈り(聖務日課)の中の読書課における第2番目の朗読。第1番目は聖書からの抜粋。「毎日の読書」として9巻に分かれている。
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「金言の書」(Lib."Sententiarum",3,8-10)からの抜粋らしい。だがWikipediaにおける同氏の著作には含まれていない……🤔

そこでは読書と祈りについて書かれていて、それに加えてタラントンの喩えを意識したと思われる一節もある。
箴言4-8の引用もある。

また、この抜粋には編集者が付けたものなのか副題らしきものが添えられており「天の国のことを学んだ学者」とある。簡潔だが味わい深いと思います。

末尾の一節は良い事を言っているなと思ったので全て以下に引用。
「耳で聞く神の教えが、心の奥まで達するのは、それを理解するように神の恩恵が内的に人の心に触れるときである」

思想家としては二流だとか聞きますが、たとえそこから発せられた言葉でもよく(?)理解し実践すれば充分だというような気はします。

着地点•結論•合意を形成する意志が議論への参加者に欠けているならば、議論と世間が呼ぶものは不毛に陥りやすいのだと感じます。

そういった場において自分の正義を相手に聞かせる場合に、そこにあるのは本質的には喧嘩なのではないでしょうか?

純粋に論理的なやり取りをベースとする議論は良いと思いますが、しばしばテレビ番組における討論会か何かのような光景を見ます。

教室内における謂わば正しい論理的なやり取りと、ストリートファイト(?)的な場面において用いられる論理とは違うのかもしれません。

論理的やり取りや議論を眺める際にはそれらがどちらへ属していそうなのか予め見極めておくならば、それらについて失望しなくて済むのかもしれません。

あまり関係ありませんが牛の消費量が減ったらどうなるかを考えてみました。

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「牛肉を沢山消費してくれるからこそストリングが供給される」とテニスラケットにストリングを張る仕事をしている人が言っていたのを思い出しました。

ナチュラルストリングと呼ばれるものは元々羊の腸を使っていたらしいのですが、現在は牛の腸を使用しているそうです。
下記が主な理由だったと思います。

•羊より牛の方が腸が長い
•羊は割と神経質であって取れる腸の太さが安定しない
•羊より牛の消費量は多いので原材料の供給量が潤沢 

とはいえ最近ではシンセティックなストリングが恐らく既に主流かと思われますので、牛の消費量と牛の腸の供給を重ねて考える人はもうあまりいないのかもしれません。

また、牛の消費量の変化は牛の皮革(?)を使った製品の消費量にも変化を与えるのかもと思いました。 [参照]

陰謀論が生じる理由について書かれた以下の2つのtweetを思い出しました(文字数を沢山にしても余裕があるのに甘えてurlを短縮していません)。

twitter.com/minesoh/status/138

twitter.com/minesoh/status/138

この記事の場合、「是正しようとしないのはイデオロギーが背後にあるからだ」と勘繰られる可能性がある……という事になるのかもしれません🤔

↑ダビデはそうだったんじゃないか……という説があるものの、大っぴらにはそういった人々への言及はないor少ないのじゃないかという見解に立っての発言です。

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ダビデか誰かってバイセクシュアルだったらしいという話を聞いた事はあるし、聖書の中には多分普通に(?)LGBTQの人達は登場していたんじゃないでしょうか?
「ダビデは男性を『知った』」(うろ覚え)に相当する表現があるらしい。正確な解釈は知らないが……。

わざわざセクシャリティについて言及してこそいないものの、登場していたはずだとは思います。
ただその聖書の部分の成立当時の価値観はそういった人々を描く事を避けていた可能性はあるかと思います。

またこれには虐げられていた人々への福音を告げる聖書の中にLGBPQの人々へのあからさまな言及がない(と思いますが)のは、その理由として考えられるのは例えば……
(1)そうした人々は認知されていなかった
(2)既に受容されていた
(3)福音はそうした人々を対象としていなかった(!)
等があるかと思います。

キリスト教に限らずだとは思うけれど、宗教が男性優位的な社会(を描いていると思われる)のは宗教自体の仕組みがそうだからという訳ではなくて、そういう宗教が成立した時期の時代的制約のようなものの影響だと思います。

当時はそういう社会だった、そういう価値が一般的だったという事から宗教にもそういう影響が滲み出てしまっていたのではというのが自分の考えです。

現代においては宗教は恐らく社会の歩みに合わせる形を取る事によってそのような男性優位的な価値観から脱却していくのだと思いますが、ただそれは各宗教がどの程度社会の価値観の変化と連動しているかにもよるのだと思います。

リアルライフ(?)だけではなく、ネット上でも関わる相手は選んだ方が良さそうとの思いが最近は強くなっている。

関わってみても良いなと思う相手はそもそも極少数なのに、そこから選別などして良いものかどうか?

しかし今までの経験からいくと、そうやって違和感を持ちつつ付き合っていくと苦しくなりそうと思う。

孤独をやむを得ず、引き受けざるを得ないという事なのだろうか?

シェイクスピアでも読んでいる方が、作中の人物に共感などして幸せでいられそうな気がする。

本から顔を上げると人間に幻滅するが、本へ目を落とすとそこには真実の人間らしき人間がいる……というように思う。

本の中に入り込んだかのように暮らす方が現世に生きるよりも幸せとは、これは倒錯的だろうか?
それともこれこそが正気なのか?

精力的に発信していた医師がTwitterでのアカウントを消したとの事。
痛手だと思う(感想)。

fediverseでも陰謀論寄りの発信をしている人を見掛ける。

Twitterでの某県知事の発信は何となく変な感じがする。

新年度が始まったが雲行きは少し怪しいと思う。

一時的であれ永続的であれ移民も難民も積極的に受け容れたら良いのではないかと思う。
適応促進の為の施策が充分ではない場合に問題が起こるのではなかろうか。

日本の人口減を何とかする為には従来の「日本人同士の夫婦から日本人の子が産まれる」スタイルでは間に合わないというか不充分なのでは?

大学入試における地域枠的な感じで世界中から人を迎え入れるのが良さそうと思うのだが、受け容れのコストとそこから生まれる利益のバランスを誰か検討していないものか。

ただ、ひとを奴隷化というか人身売買というかそのような扱いにして迎え入れてしまうとNGだろうからそこは国際的な視点から見て問題のない程度にまで色々と条件を整えておく必要はありそうだと思う。

そしてそのような来た人に対する適切な扱いは、以前から日本に在住しているいわゆる日本人達の感覚をグローバルスタンダードに近付けていく効果が見込めはしないか。

中身よりも中身を入れる為の箱の方が立派だったら嫌じゃないか等という話を何処かで聞いた事があるのだが、中身と外見を調和させるのは割と難しいのかもしれない。

内容をよく知らぬ人の為に用意するのが宣伝文句であって、中身の評判の良さに惹かれているような人達は宣伝文句が拙くても結局はコンテンツにアクセスしてくれるという見込みが宣伝を出す側にあるのかもしれない。

本における帯(?)に書かれた文章を見ると自分は読む意欲がなくなりがちだと思う。
あとは海外の映画を日本で上映する際のタイトルも同様かもしれない。

何というか単純に安っぽいと感じられる。

どうして意欲を削ぐようなタイトルや宣伝の文句を書くのだろうか。

しかしああいったものがあった方が刺さる(?)人が増えるとか売上げ向上に貢献するというのなら、それもしょうがないのかもしれない。

Twitterで話題になっていた「肩をすくめるアトラス」(?)には若干大審問官っぽさがあるのではないかと思っているのだが、読む気は特にはない。

作者の思想と新自由主義的な何かとの関係を示唆するような情報をふとある拍子に見てしまい、そういう捉えられ方をしているのかと思って少し引いてしまった。

別に作者の思想と作品の内容を重ね合わて読む必要は特になさそうな気もするのだが、それを通じて何らかの思想を理解するというような人がいそうな内容なら自分はそういう本には近付きたくないと思ってしまう。

ドストエフスキーの作品についての若干のネタバレを含む 

カラマーゾフは少し前に漸く読み終えたのだが、期待した程ではなかったというのが正直な感想。

大審問官の話は新鮮味を意外と感じなかった。
熱にうなされるイワンの描写は面白かった。

思想に関する劇として見るなら「悪霊」の方が自分にとっては面白かった。
そういうものを期待していたのかもしれない。

ⅡからⅦまでやったような気がしますが、好みの順位をつけるとⅡ→Ⅳ→Ⅲ→Ⅵ→Ⅴですね……。
Ⅶは途中で止めました。

Ⅵは……もう1回プレーしようとは思わないなぁ……。1回やれば充分な気がしています。

確かに。
癖のあるスタイルだという気がしました。自分もあまり好みではありません。
しかし個人的に許容範囲でした。

ターゲットとする読者にはこういうスタイルや書き手の方が良いという編集者(?)の判断があったのかもしれません。 [参照]

復活祭が段々と近付いてきた。

四旬節の大斎小斎についても思い出す。

それと同時に寿司を食べるのはOKだと言っていた知人の事も。
焼いている時間がないから生のまま食べるというような事を言っていた気がするが、恐らく出エジプト記の出立の場面の事を思い出して言っていたのだろうと思う。

過越しの祭といっても今の自分の周りの人にピンと来る人は恐らく少なそうではある。
自分は居る場所、来る場所を間違えたのだろうかという想いが時々湧き上がる。

ゲルギエフ氏のプーチン大統領と仲が良い事を理由として、同氏の関わる演奏会か何かがキャンセルされただとかいう話を耳にした。

これを聞いて自分が思い出したのは、ヒトラーに対するフルトヴェングラーの話である。

戦後の非ナチ化裁判とかいうものにおいてフルトヴェングラーは「Beethovenを演奏する事はナチスへの抵抗を意味するが故に自分には落ち度がない」というような論を述べたと自分は聞いている。
(↑真偽を確認していません、要注意)

ではプーチンと仲が良いからといっても、ゲルギエフ氏がBeethovenを演奏すれば彼の落ち度なるものは減ずるのだろうか?

また、Beethovenの音楽に果たしてそんな力があったのか?
フルトヴェングラーが振るBeethovenにはそのような効用があったのだろうか?
そんな説を真に受ける人がいる程にBeethovenやフルトヴェングラー、ひいては音楽芸術には人々を解放しファシストに抵抗するだけの謂わば根源的ともいえるような力があると思っていた人がいたのだろうか?

真偽を知らぬまま考えた事柄ではあるが、それでも考える材料を色々と提供してくれるニュースと話であった。

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