着地点•結論•合意を形成する意志が議論への参加者に欠けているならば、議論と世間が呼ぶものは不毛に陥りやすいのだと感じます。
そういった場において自分の正義を相手に聞かせる場合に、そこにあるのは本質的には喧嘩なのではないでしょうか?
純粋に論理的なやり取りをベースとする議論は良いと思いますが、しばしばテレビ番組における討論会か何かのような光景を見ます。
教室内における謂わば正しい論理的なやり取りと、ストリートファイト(?)的な場面において用いられる論理とは違うのかもしれません。
論理的やり取りや議論を眺める際にはそれらがどちらへ属していそうなのか予め見極めておくならば、それらについて失望しなくて済むのかもしれません。