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医療でも法律でも何の分野でも良いのだが、日常的に関わる分野だからこそ自分はその分野を理解していると一般的に思いがちなのではないか。

しかし身近に感じられるということと、実際にその分野についての深い知識があるかはまた別なのではないか。

かくしてわかっているつもりだが、実はわかっていないという人が量産される結果になっているのではないか。

断裂や不調和を修復したり調整したりすることへの関心として捉えるならば、社会的な事柄は個人的な事柄とも繋がっているように見えるのかもしれない。

不調和が耐えられない(?)ほどに大きくなった時に、そこに裂け目ができて声(比喩)が上がるのかなと思った。

「ベートーヴェンが晩年に願った平和とは外面的なものだけでなく内面的なものも含む」という話をどこかで聴いたのを思い出した。

裂け目というか摩擦というか、そういうものに対する調整が大事なのだろう。

そして恐らくそういった摩擦を避けること自体も実は困難なのではないか、などと思った。 [参照]

最後の2段落は特に同意。

関係性に人間の本質(?)があるのだとすれば、色々と辻褄は合う気がする。

「社会と個人」や、「(個人における)外面と内面」のバランスが重要なのかもと思った。
QT: fedibird.com/@zpitschi/1123851
[参照]

わきまえないナニカのぴっち 삧치 ∀🌻  
「引きこもり」というのはある意味でその方法だ。 ただ所謂「引きこもり」のように、物理的に傍目にハッキリそれとわかるようにそれをやると(本当に自室に閉じ籠り仕事や学校に行かないと言うような行動をとること)、ある意味でそれは強い「存在主張(ある種のコミュニケーションと言っても良い。少なくとも私はそ...

「それ、自分達の世界でだけ通用する言説じゃないですか」という話を割とよく目にするのだが、こちら側とあちら側に分かれていること自体がまず不健全なのではないかと思う。

派閥というか党派というかそのようなものに依らず、不偏不党や支持/信仰する何かは特になしといった態度の方がいわゆる過ちは少なくなるのではないかと感じる。

過ちからの脱出 

別にブロックまでしなくてもとは思う。

多分染まっている価値観というか世界観みたいなものが結構尖ってしまっているのではと感じた。

twitterでも時々見かけるのだが、ある種の世界観を反映したドクマ的な何かがありそこに背いた発言を見ると怒り出し糾弾し始める人々がいるように思われる。

twitterを始めたころは自分もそういう雰囲気に飲まれて一緒になって怒ったり、扇動的なtweetを拡散したりしていた。

虐げられているという思い、不公平への怒り、弱者への(感情的な)共感。
それらに加えて嘆きや怒りもあるように思われた。

往々にしてそういった要素を備えた人々の私生活らしきものというか垣間見える内面的生活は豊かそうに見えるのが、ギャップという点でも魅力的に思えたりもしたものだった。

自分がそこから離れるに至ったのはたまたま見かけた医師らのtweet(s)と影響されたからで、それは簡単に言うとエビデンスレベルの概念とその強弱の判定を情報一般の信憑性/確からしさの審査に役立てるという発想を自分に与えた。

すると信憑性には濃淡があることに気付き出した。
不確かな情報の海から自分は上がって歩き出した。
確からしいものは少ないように思われたが同じ手法を採用する人々に会えた安心感があった。

何がブロックに相当するのか? 

自分のこのトゥートはどうやらブロックに相当したようだ。
だがそこまでするような内容だったのかと自分は訝しみ、困惑している。

多分その人の属している世界の価値観ではブロックに値するということなのかもしれない。
同調したかのような相槌を打っている人も発見し、困惑した。

お互い視界に入らない方が良いかもしれないので、こちらからも上記の2名についてはブロックしておいた。

もしかしたら相手には精神的な余裕がなかったのかもしれない。
相手の無事と心の平安、幸せを祈る。 [参照]

以下は個人的な感想。

このようなややアクロバティックな考え方を警察官がその場で思いついて即興的に述べることはあまりなさそうだと思う。

詭弁が少し(?)混ざっているんじゃないかと思いつつも、こういった論理の展開は個人的には割と好きではあるので自分は喜んでしまって職務質問に対して多分色々と洗いざらい話してしまうと思う。

問題は論理の展開が鮮明すぎるというかアクロバティックすぎて、その後のこちらとのやり取りにおいて相手の警察官からそれ以上の鮮やかさ(?)を期待できそうに思われないところだと思う。

アクロバティックなことを言うならそのままその切れ味を保って会話を続けて欲しい……自分は思うのだろう。
そして内心少し落胆しながら質問に回答することになりそうだと思う。 [参照]

運動(身体操作)の技術に関する教育があまり整備されていない場合には、気合や才能/身体能力が大事という発言が安易に出てきてしまうのかななどと思う。

競技レベルにおける上位層になれば才能や身体能力が生きてくる(?)のかもしれないが、基本は教育が大切なのではと思う。

それによって運動する人達によって作られるピラミッド(山?)自体も巨大化するのではと思う。

つまり裾野は広がり、頂点も高くなる。

また、こういった教育は健康増進の為にスポーツをする人達の運動への定着率(?)みたいなものも上げるのではないかと思う。

amazonの配達はどうにかならないものか。
他人の家の前に配達するのはやめて欲しい。

配達完了の写真には知らない人の家の玄関が写っていて、それを元にどこの家か推理。
身分証とスマートフォンを持ってコソコソしながら、探しに行く。
コソコソしながら荷物をピックアップ。

早めに探しに行かないと他の誰かが持ち去る一応可能性もありそうだし、外に出れるよう多少なりとも身繕いをする必要がある。
そして誰かに見つかって何か言われたり、言われそうになる雰囲気に対する心理的負担が非常に大きい。
泥棒っぽく見えてしまうのではと懸念する。

アマゾン使うのやめようかな。
ヨドバシにしておいて、そこでなければアマゾンにするくらいの運用が良いのかもしれない。

何度も同様の案件があり、配送員への注意喚起もしてあったのだが色々と残念な感じがする。
配送員も色々大変なのだろうが、配送員個人の責任というよりも多分仕組み的にどこかがおかしくなっているのかななどと想像した。

話題からズレたことを言って相手から突っ込みをもらう恐怖について述べると、これは自分がそうしていることの投影(?)というか裏返し的な意味があるのではないか。

相手の話を聴く時に自分はどうしているのだろうか。

【傾向】
頷きもせず、何もリアクションを与えない(?)ように心掛けながら最後まで無言で聞く。
目だけがくるくる回ったり、ごく僅かに首を傾げてどこか空間(?)の一点を凝視したりする。
できるだけ返答を短くしようとする為なのか、問題から抽出された本質と思しき内容に対して同様に凝縮された本質っぽい(?)回答を与えようとする。

【対策】
1)リアクションを取るのを検討してみてはどうか。
2)相手が欲しているのが問題解決なのか検討する必要があるかも。
3)問いと答えに関する、純度を高めようとする(?)かのような思考過程はその会話において誰かの得になっているのかどうか検討してみても良いのでは。

【感想】
問題の生じやすそうなコミュケーションスタイルかもと思う。自分がどのように振る舞っているかもう少し観察してみても良いかもと思う。

自分が他人とやり取りするのが苦手(?)なのは、相手がどの程度のレスポンスを求めているかを察するのが苦手だからではないかと思い始めた。

発言内容に正確に対応した返事を求めているのか、ふんわりした色んな方向に話題が広がりうるような可能性を沢山はらんだ返答を求めているのか。

相手の希望を図り間違えると相手が怒り出すと思うのだが、そういう恐怖に直面しなくて済むように、例えば
1)できるだけ会話が発生しないようにする
2)最小限/最低限の返しをする
3)すぐ会話を打ち切ろうとする
などの対応を取ったりする。

だが、多分肝心なのはそうやって他人の顔色を窺いながら会話するという自分の癖というか態度なのかもしれない。

couranteやmenuetなどを書いているが、それは何の為なのだろう?

書いたところで一銭の得にもならないだろうし、踊る場所としての宮廷も踊る人達としての貴族らも恐らくもういないのでは?

書くのは単に娯楽の為としておくのが自他への説明として適切なのかもしれない。

発言する度に自分の知識や経験の浅いことを説明するのは大変だと思うので、この人は無知無学ですというような階級章(?)的何かが自動で名前の横に表示されるようにならないものかな。

"悪いスライム"じゃないよと断りを入れるのは手間じゃないかと思ったのだが、もしかしたら例えばアイコンをスライムにするとこれが解決するのかもしれない。

そう考えるならば、スライムをアイコンとするアカウントが妙に多く感じられるのも上手く説明がつきそうな気がする。

間違っているかもしれない認識に基づいて発言するのは不適切な行為なのかもしれない。

だがしかし、相手の反応を見てみたいという興味を抑えるのが難しい場合もあるだろうし、コミュニケーションを通じた利益が自分/相手/第三者にあるかもしれない。

あまり深く考えずに何か言ってみた方が良い場合もあるのだろうと思ってとりあえず言ってみるということもある。

コミュニケーションが発生(?)させる影響をコントロールできるものと思わずに流れに心を開く的何かが必要なのかもしれない。

SNS上では真意を確認することなく簡単にミュートやブロックなどをできてしまう。

本当はそんなつもりで言ったわけではないのにというような発言であっても、関係がそれっきりになってしまうきっかけにはなり得るのだろうなと思った。

精神的な症状か何かのせいで頭の働きが一時的に低下していたりする場合もあるのかもしれないから、不明瞭な発言等について例えば能力不足だの何だのとすぐ言ってしまうのはマズいのではないかななどと思った。

健康以外でも、それが本人の責任をどこまで問うて良いか不明であるような先天的や不可避的な何かの影響の結果である場合もあるのかもしれない。

その結果を良いと思うのは何故なのかまでを含めて考えてみた方が良いのかもしれない。

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例えば他者のミスが原因であるのに、自分が上手くやったから結果が良かったのだなどと思う人をたまに見かける。

一体、結果が良かったのは何故なのか?

自分のことを無知の極みであるかのように考えているので、人と話したり何かを言ったりするのは自分にとって非常に難しくそして大変恥ずかしい行為のように思われる。

では何かの知識を足したり、そういった知識の扱い方に習熟したりすればそういった恥ずかしさは消えるのかというと恐らくそうはなりそうもないという気もする。

他人との比較を通して無知を自覚するという面は恐らくあるものの、その自覚への反応の仕方というのも人それぞれかもとも思う。

自分の場合は他者云々をきっかけはしながらも他者を忘れて、単に無知に圧倒される感覚に焦点を合わせているように思われる。

どれだけ知れば安全なのか?
充分には知らずとも満足する術があるのなら、それを学ぶのは重要だと自分には感じられる。
というのも知識もお金と同様に飲めば飲むほど渇き、そして渇きを癒やさない飲み物のように感じてもいるから。

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