直接的な回答を避ける癖?
ある人からある出来事についての感想を求められたのだが、その出来事に掠っているかすら微妙な別の事柄についての感想を言ってしまった。
それを聞いた相手は沈黙した。
そして相手の視線が自分に突き刺さっているような感覚があった。
何故真正面から感想を言わなかったのだろうと後から自分でも思ったが、恐らく言ったら差し障りがあると無意識のうちに思って自粛したのかもしれない。
別の感想を言うことによってはぐらかそうとしたのだろうか?
恐らくそこまでのことをしようとしたのではないと思う。
答えたくないが、答えないという事実に自責の念を感じたくもないために代わりとして何かそれらしいことを言おうとしたということなのではないかと思う。
それが何の理由に基づいていたかはさておき、頓珍漢な回答をしつつも自分は平然として何もおかしいことはないというような顔をして堂々としていたのではないかと思われる。
回答になっていない回答をしていることに気付いていないような顔をしていたのだろう……😨
賞状を受け取るかのようにして文書を受け取る際の身体の使い方にはもっと楽な方法があると思う。
この写真では上腕を外旋させ、前腕を回内させているように思われる。
だが肩より上に腕を上げる時には恐らく上腕を内旋させ、前腕を回外させた方が楽だと思う。
そうすればこの写真のような肘の極端な曲がりは避けられると思う。
多分この写真の姿勢は上腕の外側と下側に張りが出るのではないかと思います。
この写真でのような腕の使い方はこの状況にあまり合っていないのではという指摘です。
※補足
ここでは上腕での外巻きを外旋と呼び、上腕の内巻きを内旋と呼んでいる。
またここでは前腕の外巻きを回外と呼び、前腕の内巻きを回内と呼んでいる。 [参照]
唐崎の修道院を訪問したことがありますが眺めと雰囲気が素晴らしかったです。
聖書にはガリラヤ湖というのが出てくるのですが、それを思い出しながら祈りの雰囲気の中で琵琶湖をじっと眺めていると心が洗われる思いがします。
眺望と関連させて福音について考えるのは多分日本人の心に合っていると思います……かなり適当な発言だとは思いますが!😂
以下は、カトリック京都司教区唐崎メリノールセンターのウェブサイトへの短縮リンク。
https://www.kyoto-catholic.net/唐崎メリノールハウス-唐崎祈りの家
※施設の画像をクリックすると施設内外の画像を閲覧可能。 [参照]
運動の経験者や、哲学者/思想家の人達が時に理解の難しい文章を書くことがあるようだ。
それは思考の軌跡や蓄積を反映かもしれないと思った。
述べる事柄が例えば一般論などではなく、自らの身体や頭脳を動かして実践した結果として出てきた表現であるならばそれは個別的/個人的な性質を帯びやすくなるのではないか。
ではそれをどうやって理解するのか?
その人独自の体験の軌跡の影響を受けた個々の単語の理解も重要ではあるが、多分総体としてのその人の世界観的な何かを理解するのが手っ取り早そうだと思う。
つまりどういうコンテクストを帯びさせて、ある単語をその人は用いているのか。
多分個々の単語の特殊な用いられ方に拘泥するのではなく、総体として理解した上で個々の意味が浮き上がってくるようにした方が良いのではということ。
周囲の状況といった意味でのコンテキストではなく、その人の体験内部におけるコンテキスト(?)といったようなものが"その人の理解"を理解する上で重要なのかなと思った。
ではどうやってその人の思考における世界観的何かを理解するのかという話にはなると思うのですが……難しい話だと思います(匙を投げる)。
……だと以前は自分も思っていました。
つまりいわゆる古典的作品に関しては
(1)ネタバレしようがその価値は減るものでもなさそうだし、
(2)新作という扱いにも恐らくならないのだろうからと思って。
(2)に関しては、
原典の再定義/校訂/研究の進捗はいわゆる古典的作品を"新作"化するのかもしれませんし、新訳の登場も同様かもしれません。
ただそういう事情はさておき、自分がまだ読んでいないものについて他人が内容をバラしてくる(!)と不機嫌になるひとも一定数いるような気もします。
自分はネタバレ(?)されると内容をざっくり把握するのに必要な時間を節約することができたと思って喜んでいることが多いと思います。
もしかしたら(1)のような性質を帯びていると思われる作品を好む傾向があるのかもしれません。時の試練を経た何かというような……。 [参照]
コロナの感染者数をどう推定するのか
コロナの感染者数について色々な解釈が飛び交っているように思われる。
発信者が医師であっても、見ている場所がどこかによって数は違いそう。
誰を見ているのかという点において重症度の違い、地域/住民の性質の違いを考慮する必要はあるのかもしれない。
感染者が自主的に症状などを登録するウェブサイトもあるようだが、そもそもそんな意識の高い行動を取ってくれるような人は感染予防への意識も高いのかもしれない。
結果、報告が過小なのかもしれない。
(検査代や薬代を惜しんでそもそも)受診しない人達を医療機関はカウントしないのかもしれない。
そこからの報告数を元に公的機関による報告が作れるとすれば、その報告も過小になるのかもしれない。
救急車の出動回数のカウントは(ワクチン接種がある程度進んで)重症者が出にくくなった現時点でも、まだ以前と同じような妥当性はあるのだろうか?
あまり詳しくない人から質問を受けた時、愚問だなとか幼稚な質問だなと思うことがある。
しかしせっかくだから役に立つことを教えてあげようと思って、少し捻った回答をしたりする。
ところが相手はその回答の意味がよくわからないのか途端に興味を失ったかのよう反応を示してしまう。
自分はやや気まずい思いをし、少し落胆してしまう。
多分自分が回答に少し捻りを入れようとしたのが間違いだったのではないか。
何が言いたいのかというと、相手が消化できるレベルの栄養というか食物を与えた方が良いのだろうということ。
また、相手の理解度に関する自分の把握が充分ではなかった可能位も示唆していると思う。
更に言えば無意識のうちに自分が専門家風であると見られたがっていた可能性もあるのかもしれない。
フーガ(音楽)を好む。
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