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秋接種の初日である今日の昼過ぎにXBB.1.5の接種を済ませた。

会場の体育館には沢山の希望者がいたが、年配のひとばかりであるような気がした。
自分と同年代か少し上かもしれないひとを一人だけ見つける事ができた。

会場での滞在時間は20分強くらい。

未だに何も副反応が起こっておらず、少し拍子抜けである。

副反応が強いひとは接種したくないと思うものなのだろうか?
また、自分が接種に抵抗がないのはその副反応が自分には強く出てこないからなのだろうか?

同世代のひと達は接種についてどう考えているのだろう等と思いながら、以上のような疑問が頭に浮かんだ。

和声外音というか構成音の転位に関する自分の知識が手薄なのではという気がしたので和声-理論と実習-Ⅲを少し読み直そうと思っている。

自分の好みは恐らく、不協和音程を作る際には予備を必要とする様式ではないかと思う。

また、この嗜好の延長線上にあるのは3度や6度よりも完全5度•4度•8度の方に惹かれる傾向だと思う。

正規の和音というものが脳内では恐らく想定されていて、和声外音を含む和音らしき存在は偶発的に発生したものであるという考えがあるのかもしれない。

繋留と解決の延引くらいは理解するものの、予備のない倚音に関しては首を傾げてしまう……。

多分こうした傾向が、和声外音に関する理解を深めるのを無意識的に妨げていたのではないかと思った。

youtu.be/8C6WkHQ7PRg?si=ghZ3u9

パレストリーナのAngelus Domini descendit de coeloを聴いた。

どうも妙に平坦だな平板だなという印象をパレストリーナの音楽については抱きがちだったのだが、それはもしかしたら3度の進行が多そうな事と関係しているのかもしれない等と思った。

あと、同音連打というか同音進行というか同じ音高を保ったまま歌詞だけが変わっていく場合も割と多いような気がする。

他にこの曲について気付いた事としては、3度重複された旋律や反行形による旋律が出てきている事。

3度重複は勿論10度の転回対位法の利用とも解釈可能だろうけれど、どうもそれを使い切ろうという様子がなさそうに思われる。

例えばバッハにおいて意識的なそれの利用はその技術の他の変化形をも提示する事によっていわば誇示しているかのように、自分には感じられる。

だがパレストリーナはその利用の可能性をそこでは充分•十全には展開•開発していないように思われる。

また詳細は述べないが、反行形の利用に関しても同様ではないかと思った。

これらを通して感じたのは、ある技術が使われている事を聞き手や楽譜の読者に理解させたいなら表現•書き方を工夫する必要があるのではという事だった。

youtu.be/J9ugNuTlHsE?si=zVnOuJ

エスカレーターに横を向いて乗るのはアリかなしか?

取り敢えず、そんな事をする理由がまず分からない事に何とも言えないような気はする。

横の向き方には2通りあるが、自分は自分が空けているエスカレーターの片側へ向いている事が多いような気がした。

※2列に並べるものと想定し、その左or右側に立ってその右or左を向く。

自分の場合、多分背後を取られたくないのではないかと思う。

エスカレーターは他者と割と距離が近くなってしまうにもかかわらず、身動きが取りづらく逃げ場がないように思われる。

怪しい動きをした対象になるべく早く対応する為に周囲に注意を払っておく必要があると思われるが故に、注意を払いやすくする方向へ身体や顔を向けておく事には一定の合理性があると思われる。

youtu.be/VyOxW3Rh6ho?si=DprvTh

ハイドンのソナタ43番。

終楽章に不満を持ちがちな自分ではあるが、この不満は不当なのではないかという気がしてきた。

かなり軽く諧謔的な、というかユーモラスなというかふざけたお祭り騒ぎ的な雰囲気に違和感を抱いていたのかもしれない。

しかし単に技術的な観点というか作曲の出来というか、作りというような点に着目すると全然不足がないどころかやはり他の楽章ど同じように圧倒的に出来が良いような気がする。

その雰囲気に引き摺られて判断していたと思われる自分には、その美点を評価する為に必要な落着き――冷静さ――を欠いていたように思われる。

youtu.be/BxRcgFJRHpE?si=ygs0MF

ハイドンのソナタ。

大体の場合において第1楽章のソナタ形式は抜群で、そこから段々尻すぼみになっていくような印象をハイドンのソナタについて自分は抱いている。

ここでは第2楽章のメヌエットも結構面白い。

ただ第3楽章は……うーんハイドンには終楽章で堂々とした終止によって聞き手を圧倒するという発想はなかったのだろうか?

聞き手が感服したと言うまでは決して帰してくれそうにはないバッハや、高揚する終止を書くのが恐らく得意だったと思われるベートーヴェンに比べるとハイドンにはどことなく終止を聞き手と共有する意識が薄かったのではないかという気がしてしまう。

つまり聞き手が飽き始めているのを察してしまって、ササッとそれっぽい終止をくっつけて終わりにしてしまおうとするような……。

本人にどういうつもりで終楽章を書いている事が多かったのか一度聞いてみたいものだと思う。

【KF94着用の感想】
KF94マスクを着けて外出してみた。
初めて着けるので、そして着け方などに少し注意が必要そうだったので練習がてら。

軽くテニスの練習をしてみたり、スーパーへ行って買い物などをしてみたりといった感じで過ごしたが特に使用に問題はなさそうな気がした。

【購入の経緯その他】
3Mジャパンという会社がアマゾン内にストアを構えていて、そこでは正規品が買えるという事だったので購入してみた次第。

あるアンケートを見た結果、普段は不織布マスクをしておいてリスクの高そうな場面ではKF94やN95を着けるという医師が複数いるようだった。

もちろん医療の現場では更に高度な防御方法を採用しているのかもしれないが、一般人が日常生活の中で着けるマスクとしては割と防御力が高い方になるのではないだろうか。

もっともマスクだけでリスクを充分にコントロールできるとは思っていません。

これに加えて、着脱時の手指の接触や着脱時を含めたハイリスクな場面の回避などにも注意しようと思っています。

youtu.be/Pq-Y4KmOEpE?si=VThR9R

いわゆる人生会議(advance care planning)について。

前半は現在の問題点が色々と提示される。

33分ごろから1番大事だと演者が言うスライドが提示される。

大切なのは価値観や人生観について代理人を含め広く周囲の人達へ継続的に話しておく事らしい。

後半ではゲストが出てきて演者とのやり取りを通じて、実際にそれが実践される。

上手くやれば静かな部屋で音楽を聴きながら亡くなる事も可能らしい。
最後の晩餐ならぬ、最後の音楽は何にしようか等と少し思った。

その道のプロが、拙いアマチュアを嗤う……というようなトゥートを見掛けてしまった。

多分それは技術や知識云々の差の前に、ひととしてやってはいけない事というような倫理的か何かそのような基準に反しているのではという気がしました。

別にそのような基準は明文化はされていないのだろうし、個人の価値観や感じ方の問題が大きそうに思われるのでこれについては自分が聞き流しておけば良いだけという気がしなくもないです。

ただその分野の技術や知識の問題に入る前に、その嗤った人というのは脱落してしまっているというかスタートラインに立つ資格を失ってしまっているのではないかという気もしました。

ここ数週間、近所のアパートの駐輪場にLUUPが停まっているのですが多分あれは俗に言う借りパク的な何かなのではないかと思います。

多分しばらく動かしてさえないような気がするのですが……。

どうなっているのだろう?

これは返納が一般的に推奨される年齢においても、返納しなくても良いような人物がいる可能性を指摘する意図があるトゥートです。 [参照]

能力の衰え方は人それぞれではないでしょうか。
80歳に近くなっても大丈夫な人もいれば60代でもアウトな人もいると思います。

運転に必要な能力や健康状態を確認する為のテストをクリアできるかどうかが恐らく重要なのではないでしょうか。

単に年齢だけで弾いてしまうのはマズいのではと自分は懸念します。

twitter.com/chinniisan/status/

BIDEN氏がいつまで生きていられるのか……。

任務の継続がいつまでかという視点も大事なのでしょうが、そもそも生きていられるのかという視点も大事なのではと時々思います。

単に年齢によって弾いてしまうと年齢による差別であるというような批難を浴びせ掛けられるのかもしれません。

しかし同氏がいつまでも健康でいられたり仕事ができたりすると思うならば、それはそれで支持者はそのような幻想というか期待にしがみついているという事になってしまうのかもしれない……と思います。

それとも健康に問題が生じても、何も問題なく別の人物が登壇できる仕組みが既にできているという事なのでしょうか?

youtu.be/DoSN_t_02mA?si=KuskMD

SNSでの発言を、根拠を欠いた妄想だと解釈するのか、もしくは他愛もない気晴らしとしての放言として解釈するのか……。

そこには読み手の心の余裕というか度量の大きさのようなものが現れるのではないかという気がしています。

もっともTPOに応じたその解釈の幅というものがあるだろうとは思いますので、その幅からはみ出していなければ良いだろうと思うという意味ですが……。

仕事を沢山引き受け過ぎない方が良い理由とは、引き受け過ぎると余裕がなくなってしまいその結果として他者への加害性•攻撃性が増すからだと思います(※個人差があるとは思いますが)。

個人の感想ですが、JAZZは大変美味しいと思います。

酸味が強く歯応えがあり、シャキッとしていて爽快というか清々しい(?)というかそういう後味だと思いました。

酸味(?)といっても、キレの良い爽やかさといった方が近いのかもしれません(※鈍重ではなく軽快という意味)。

東京のスーパーでよく見かける林檎とは、味に関する開発の方向性が全然違ったのだろうなと思いました。

毎日林檎を1個食べる習慣のあった頃は、(日本の)夏でも手に入る林檎として重宝していました。

総じて小振りであったような気はしますが、満足感は非常に高かったです。

値段も日本のと比べてあまり変わらなかったような……(夏だったからでしょうか??)。 [参照]

大変興味深かったです。

voicing(声部進行?)というのが大分自由であるように感じられました。

対斜、予備や解決を持たない7度や9度などを自分は知らなかった訳ではないです。
しかし依然として(?)やはり斬新かつ衝撃的であるように感じられました。

多分和声を音塊として、つまりはハーモニー(?)として聞く慣習(理解?)がこのような自由な声部進行を許容していく事になったのだろうと思います。

このような理解においては対位法が和声法と分離しているという認識があるのかもしれないとも感じました。 [参照]

自転車に乗って車道の端を走っていたら、クルマに接触されそうになった。

幸い事故にはならなかったが、もし事故になっていたら結構マズい流れになる事もあり得たのではないかと思う。

救急車が来なかったり医療に繋がれなかったりしかねない医療逼迫的な状況が恐らく起こっていると思われる昨今においては、平時よりもリスクオフを心掛けた方が良いのではないだろうか。

ヘンリー4世第1部(シェイクスピア)の感想 

@adachika192
そうですね。
面白いかもしれません。

ある程度の量の作品を邦訳にて読み終えた後にですが、気に入った作品へ戻ってそのように読んでみるのは良さそうだと思います。

(※今は邦訳版を気楽に斜め読みしつつできるだけ沢山の作品に触れてみたいという心境です)

特に言葉遊びの多そうな作品やいまいち味の分からなかった作品などにおいては、そのやり方を採用してみる価値が高そうだと思います。

ヘンリー4世第1部(シェイクスピア)の感想 

仕事の休憩時間中に時々読んでいた、シェイクスピアの「ヘンリー4世第1部」をようやく読み終えた。
(※小田島雄志氏による翻訳版です)

念願のフォールスタッフに出会えた訳だが、多分原語では大分面白いのだろう程度の感想しか出てこなかった。

多分ここでの台詞の面白さは言葉遊びか何かにあるのではないだろうか?

一方いわゆる4大悲劇(?)は言葉遊びの面白さもあるのかもしれないが、台詞自体の持つ人生への考察の深みによっても楽しめる点が優れているのかも等とも思った。

またこれまでシェイクスピアの戯曲を読んできて思う事は、氏の作品の面白さの中心は機知的な何かではないかという事。

これが明るく表現されるのか、不機嫌や不幸を背景として表現されるのか。

機知を閃かせ易い主題というのはあるのかもしれない。

そういう主題を選んでいけばヒット作が量産される……という事も言えそうだが、多分機知が輝くのはより暗い背景や疑念の渦の中においてだったのかもしれない等とも思った。

機知がそこでは気分を明るくしたり紛らわせたりし、考察を加える……機知の持つ明るさは喜劇において笑いを付け足す事によってではなく悲劇においてそれを加える事によってより一層輝く……という事だったのかもしれない。

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