「この世界の片隅に」補足
昨日投稿した文章で「この世界の片隅に」に言及していますが、わかりにくいところがあるので、補足します。
1)戦前の日本では、国内での米の消費量を自給できず、朝鮮・台湾から「輸入」していました。
2)敗戦直前になると労働力不足のため、中国・とくに朝鮮半島から数百万人単位の人を強制的に本土に移住させ、労働させていました。
とりわけ広島は軍都であったので、強制労働に従事させられた朝鮮人がかなりいたのです。
原作の漫画では、この2点について、主人公が気づく場面がはっきり書き込まれていますが、映画版では、まったくわかりません。
広島で被爆した人の10%近くが朝鮮人・沖縄人だったとも言われます。
丸山眞男も宇品で被爆し、翌日から救護活動に従事しましたので、「地獄」を見たサバイバーだと言えます。
実は私の祖母も広島にいました。祖父が海軍軍人だったからです。
母はお決まりの親への「反逆」もあり、左翼となりました。それが発覚した時、祖母は「娘がアカになってしまった」と号泣したそうです。
母は「赤」から「緑」に移行しますが、私は「黒」に近いかも、です。
ちなみにスタンダール『赤と黒』、私の枕頭の書です。(ただ、この場合「色」の意味は違いますが)。
nagayaさんがいつになく強い言葉を使ってる。
私も最近つくづく思うが、私自身も含めて、皆、勝ち目のない“愚かな“闘い(必ずしも相手がいる闘いだけでなくても、自己主張とか、何かの実現とかでも同じ気がする)に、あまりにも及び腰すぎるんだろうと思う。失敗したり全く話にならなかったりして恥かいたりガッカリしたりするのが怖いんだよね。そうして皆、小賢しいばかりで虚しい人生送ってる。だから、いよいよ追い詰められて闘わざるを得なくなっている(そうでなければ自分の存在そのものを抹殺されるような目に遭っている)人たちへの共感がない…どころか、どこから湧き出るのかそう言う人たちへの憎悪で一杯になっている人間も少なくない。
(nagayaさんのツイート↓)
自分を頭がいいと思ってる合理主義ブタがなんか言ってますが、権力を持たない者の闘いは権力の横暴を広め賛同を集めるところからしか始まらないんですね。そういう意味では、座り込みやデモというのは弱者の世の中を変える手段なんです。それはTwitterも同じ。
♪闘わない奴等が笑うだろう。ファイト
https://twitter.com/nagaya2013/status/1614885954837434370?s=46&t=qn6H8VtZvsfa-PycKPYUzg
ようやっと『どうする家康』の第一回見た。
国のえげつない貧富の差、徹底的な搾取、庶民の生活というものを丁寧に書きながら、それを「貧しい」「恥ずかしい」「俺とは関係ない」としか認識できない家康の、君主としての器に全く至っていない幼さ、未熟さ、司会の狭さがすっと見えてくるのがうまかったなあ。
あと去年の大河と徹底的に違うのが、本多忠勝という「叱る人」が設定されていること。去年は義時のやることや判断について叱れたのは政子だけで、その政子は女性ゆえ疎外されてしまう(そして疎外されるのが当たり前だから義時にどうにかして、と投げてしまう)から、視聴者の側にも「仕方がない」という納得が生まれていたんだけど、今年は「それは間違っている、情けない」という倫理の線がぼんと引かれそうな予感。
倫理の線については、家康に深いトラウマを植え付けるほどの人格である織田信長というところにもあると思う。確かに名将でカリスマかもしれないが倫理的には人を壊す程度に壊れている人ですよ、と最初に示されるの良い。
あきまん、絵描きの世界のひろゆき的なところがあったからな。村田雄介なんかはモロにその〝啓蒙〟の影響下にあるだろうし。究極的には絵描きには絵に関する能力以外は必要無いという考え方。人間性の断捨離というか、戸愚呂弟マインドですよね。
繰り返すけど、私はTwitterは現実を可視化したものだと思っている。だから「Twitterなんか忘れて、現実はそこまで悪くないよ」とは全く思っていない。むしろ現実の方が余計悪いかも。
だけど、少なくとも「Twitterだけが世界」である訳がない。世界はもっと酷い。そしてその世界をよく理解するためにはTwitterほど優れた道具は今のところ残念だがない。
今のTwitterの酷さも含めて、それは全部、絶望的な今の世界を反映している。
だけど、どんなに絶望的でも、どんなに悲惨でも、そこは私たちが生きている世界だ。
正視するのが耐えられなければ目を背けて心を守ることは出来るが、目を背けたことで、現実の絶望的な世界がなくなるわけではない。
「親への恩義」を植え付けろ! 奨学金が「借金」となったダークすぎる経緯とは(今野晴貴) - 個人 - Yahoo!ニュース
日本の様々な制度に言えることだけど、奨学金制度もネーミングがずるくないですか?? 蓋を開ければ借金制度に他ならないのに、名称だけ聞けばそういう印象は抱かないんじゃないか(現に私はそうだった)。私は非常に恵まれていたので、初めて学生時代にその言葉を聞いたときは、なんとなくポジティブなイメージしかなかった。だって学ぶことを奨励する資金なんだもの。額面通り受け取れば。「借金じゃん!?」ってびっくりした。
世界では給付型が珍しくない、というのを知ったのもだいぶあとのことで、それまでは日本における奨学金の形をもって「奨学金とはそういうもの」として受け止めてた。これも知ったときは愕然とした。
返済可能かの計画なんて学生の身では未知でしかないよ。新卒で就職した後輩が、少ない給与の多くを奨学金に当てざるを得ず、結果生活を削って生きている姿を見た。その分かれ道の大元が「日本の家族主義的な美風を維持する」だっていうの本当にクソだな。それ「美風」か?
https://news.yahoo.co.jp/byline/konnoharuki/20230114-00332830
わたしは日本の人々だけが他の国と比べて特別バカとは思わない。というか、人間とは基本的にはバカなもので、日和見主義で、だから群衆は羊に喩えられる。これはどの国でも同じじゃないかな。
他の国と違うのは、日本は異様に“普通じゃない人”に対して狭量なことと、異様に権威主義なとことと、社会のなかの目立つ位置にいる人間の質が低いことだと思う。そしてそれらは関連してると思う。政治家、教員、弁護士、医師みたいな「先生」と呼ばれる職業の人とか、芸能人とか報道関係とか芸術家とか、そういう社会を引っ張っていく立場にある人が反知性的で卑怯な言動をとることがすごく多い。
先進的な欧米の国でも差別的な嫌がらせやバックラッシュはあるけど、社会について考えて引っ張っていく立場の人たちが発言したり考えたり勉強したりしてなんとか維持してるのが現実なのでは。
"…そこに見る知的傲慢さは、かつてのヨーロッパが世界を解説する権限をわが手に独占しようとしていた、植民地主義的で暴力的な知のスタイルの再来のごとくである。
チコちゃんによって否定されていたのは、「回答者における知識・情報の不足」のみではない。回答者側がそなえているであろう複数の説明の地平、思考様式、世界観それら自体が否定されていた。私たちは、想定されうる思考様式の複数性を否認されることに対して、強い虚しさと不愉快さを覚えるのである。
「なんで?」と執拗に問い、自身の思考様式に合わない他者を「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と罵倒することは、自分が求める説明の地平に服従することを相手に求め、自らの知的優位性と権力を誇示することである。さらに、その傲慢な姿に自ら気付いていないということでもある。"
チコちゃんの「なんで?」は最悪の愚問である…「5歳児の罵倒芸」に文化人類学者が本気で怒りを抱いたワケ 「ボーっと問うてんじゃねーよ!」と言いたい | PRESIDENT Online https://president.jp/articles/-/63627?page=7
そう考えると、日本の入管での残虐な事件なんかは、日本社会にある種の暴力性や弱者への残虐性を刷り込んで分断、統治しやすくするための見せしめ、「恐怖のたいまつ」みたいな機能があるのかもしれないな。
つまり全体主義国家の装置。暴力装置の正当化と磨き上げ。外国人だから、自分たちとは違う、自分は大丈夫、きっと悪いことをした人たちだ、と看過されやすい。
いやでも、間に合うと思いたいし、子供にそんな無力感と絶望を語るほど社会がどんどん熱狂なきファシズムに陥っていくのだから、ここからでも政治と生活について大人がふんばらないといけないんだと思う。シニカルな絶望はリベラル価値への冷笑とそんなに変わらない。
若年層の価値観はエシカルだったり当たり前に多様性前提だったりしている、大人が、冷笑価値を否定して希望を語らなきゃ