これ、物凄い数の人間を敵に回す発言なのですが、カバー曲だけを演奏しているのに「バンドをやっている」と言っていいの? という感覚が、友人の自作曲に歌詞を付けていた中学生くらいから抜けていないんですよね。これって自分が小説の書き手で、そこと比較して音楽演奏を捉える、という誤った類推をしているからなんでしょうが。
小説には基本的に「カバー」すなわち「既存の作品を演奏する」に相当する行為はなく、書き写しとかがそれに該当するとしても、初心者がそこから始めることはけっこう想定しづらい。どんなにビギナーでも、バンドでいうところのオリジナル曲から創作行為をはじめる。言い換えれば、小説では「表現行為」と「創作行為」がほぼ一致する。あるいは、小説における「創作行為」のハードルを低く設定してしまっている? ここらへんを無視した類推をしてしまっている気がします。
『BLEACH』アニメ最新話を観たので「#久保帯人はラブコメを描け」の札を掲げています。でもパンチラがどうとかやるなら別にやんなくていいです。
今週の課題意識(引用らへんのやつ)を深く考えるために、『ミッション・インポッシブル:ローグ・ネイション』を分析しようと思って見返したのですが、ふつうに夢中になり、アクション映画として最上級ってことしかわからなかったです。危機と解決、次の危機、現時点でのまとめ、次の目標立案、危機と解決……の呼吸が完璧すぎる。
QT: https://fedibird.com/@abe_dragonslay/113451225043336816 [参照]
・ルックバックのPP①は京本との出逢いによって藤野が自分を「描く」ひとなんだと自覚するところ。そこらから「描く」という本作のメインテーマが前傾化する。
・劇中最大のショックとなる通り魔事件がMP。だから、衝撃的ではあるけどテーマに直結はしてはいない。
・その少しあと、藤野が京本の自宅の部屋の前で「描かなければよかった」と思うシーンこそが作中テーマを揺るがすPP②になっている(PP①の対照にもなってる)。
・だから第三幕を経ることで、藤野がふたたび「描く」ことには意味があったのだと思い直すラストに至り、テーマへの答えが示される。
第一幕のインサイティング・インシデント(藤野が京本の絵に驚愕する)、キイ・インシデント(京本にファンだと告げられ漫画家を目指してると言っていまう)も完璧だし、これ脚本術の教科書じゃないすか……!?
作家(阿部登龍)。第14回創元SF短編賞受賞作「竜と沈黙する銀河」(紙魚の手帖vol.12)、「狼を装う」(同vol.18)。SFとファンタジーと百合とドラゴンとメギド72が好き。
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