被害者意識強すぎかもしれなけど、いつ悪意ある人に飲み水に漂白剤だの毒だの混ぜられるのかとビクビクしながら生活してるのは私ら外国ルーツ(特に中韓ルーツ)の方なのに、なぜか私らが"混ぜる側"だと思われてるよね。今回の事件にしても、過去に起きた事例からしても、どう考えても私らが日本において"混ぜられる側"なんだけどな……。
そして、さっそく「犯人の店員は中国人だ」というまとめサイトが乱立していた。毎度これですね、最悪すぎ〜〜!!
韓国人客に「漂白剤入りの水」出し、吐き出したら「迷惑」…銀座の有名飲食店で嫌韓議論 https://japanese.joins.com/JArticle/309206?servcode=A00§code=A10
京極夏彦先生は、作中の時代背景からすれば日本が中国を「支那」と読んでいたのが事実でも、それは差別的な用法なのだから自作品では(悪意のセリフでない限り)他の言葉に置き換えると宣言していて、「支那そば」でさえも絶対に「中華そば」と書いているので、めちゃくちゃ好き。
京極作品はどれも物語が超面白くてキャラが超魅力的、というのは大前提でね、作家としての姿勢が本当に好きで。京極先生は現代人ながら「(最後の)文豪」と呼ばれることもある作家で、だからこそ、この姿勢が本当に嬉しかった。
文豪と呼ばれている作家はだいたい100年程前の人物だから、どんなに先進的な人でも植民地だった中国への視点は今見るとかなり酷いものなんだけど、「中国人に敬意を示してくれる文豪がいるんだ」と思わせてくれた作家が京極夏彦だった。だから私は京極先生を「文豪」と呼ぶファンでいる。
まぁ、『鳴釜』の同性愛表象が酷いこととか、一番好きな作品だけど『姑獲鳥の夏』は未成年と姦通した成人男性にえらく同情的な筋立てになってるのとか、約30年前の作品とはいえ気持ち悪いし批判点もあるとは思います。それでも、その時点での作家としての反差別の矜持がちゃんと反映されているのが読んでいて分かるし、常に倫理観が進歩してるのも分かるので、好きです京極作品。
『鵼の碑』ノベルスとハードカバーどちらも購入しました📚
楽しみすぎて大急ぎで開店時間に書店に行き、無事に『鵼の碑』を買えたので、一息つきに入った喫茶店で待ちきれず冒頭を少し読んでしまった。帰宅して今日は読み耽ります。早く眩暈坂を登り、その先にある古書肆、京極堂の扉を叩きたい。
この記事によると、映画『あしたの少女』の原題は、犠牲となった高校生の名を取った『次のソヒ』。韓国では本作の影響で世論が高まり、「次のソヒ防止法(業者側の責務を強化する職業教育訓練促進法の改正案)」が国会で議決された、とある。
12年前の映画『トガニ 幼き瞳の告発』公開後にも「トガニ法(障害者や児童への性暴力を厳罰化し時効撤廃を定める改正案)」が制定された、ということがあった。
フィクションがこんなふうに現実に直接的な力を及ぼすのだな。
https://www.cinra.net/article/202308-nextsohee_gtmnmcl
母、目を悪くしてから今年さらに味覚も麻痺で半分以下になってしまい、私と同じで食べるの大好きだったから心配だったんだけど、料理を盛る器とくに焼き物の感性に目覚めて楽しそうにしている。最近は個人作家のお皿を買ったり食器に力を入れてるレストランに行ったりしていて、食の楽しみって視覚や味覚だけじゃないんだなぁ、と再確認した。
あと、母は焼き物の感性が爆速で磨かれているらしくて、今日はお店で器を手に取って「これ作った人おじいちゃん?」と言いだして、お店の人に聞いたら本当に作家さんはご老人の男性で、母が手に持った器が最後の作品だった。表面のざらつきでそんな気がしたらしい。
皿を持つだけで作り手の属性がわかるとか、まるで"第六感"みたいな話だけど、母いわく触感から察することができるらしくて、たぶん視覚を触覚が補ってるんだよな。
視覚や味覚が衰えても、きっと他の感覚が目覚めるんだろうし、世界を感知する感覚全体の総量は変わらないのかもしれない……と最近さらに思うようになった。私もどんどん視覚がなくなっていますが(持病で)、見えなくなってもやっていけそうかも〜〜と、最近の母から学んでいる。
『まじかるちいかわ』の「さすまたステッキ」……かわいい…🌟 (欲しい)
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主題から脱線したお気持ちかもしれないけど、理解しなくていいから権利を守れ、わからなくても排除するなというのは私もマイノリティ当事者として共感するし賛成する。一方でマジョリティ当事者としての私は、自分が知らない人や物事に対して差別や排除をしない(していない)自信は全然ない。
社会そのものがマジョリティを前提に(マイノリティをいないものとして)構築されているのに、知らなくても排除せずにいられるなんてことが本当に可能だろうか?可能だとして、その範囲はどのくらいだろう?
たぶんこれは私が環境問題に関心を持ってきたことが大きいのだけど、先進国で消費社会を生きている私は、自然を破壊し貧しい人々が家を失い先住民が文化破壊される原因の一翼を間違いなく担っている。それはグローバルな差別構造のもとで起きているから私が自分の考えや気持ち、行動によって一人だけ抜け出すことは不可能で、社会を根本的に変える必要がある。
"差別は構造の問題"なのだから、他の差別もそうじゃないのかな? だから、真面目に(?)差別を解消したいマジョリティの一人として、私は知りたい。少しはベターな選択をしたり社会を変えられるように。
「マジョリティは知らずにすむ」という意味で言えば、知らせることは「知らずにすむ特権」を崩していくことでもあるし。
私があたかもコンバージョン・セラピーを支持しているかのように書いた文章を公開された方へ。
どのような願望を抱くことも内心の自由であり、どのような内心の者にも生存権が保障されるべきであり、加害欲求の公の場での表明は肯定されるべきではなく、これらは両立する。という趣旨の私の数日前のツイートがあります。
参考: https://x.com/ubuhanabusa/status/1698009910234251463?s=46&t=4tsZUPpZzK2N5GtXRmqOOw
とある場で、この投稿に「性欲と生殖を否定する投稿」という"注意書き"が付けられており、私は一言も「治療」になど言及していないにも関わらず「治療が必要」と書いたことにされているため、現在しかるべき対応を考えています。
私があたかも「治療(コンバージョン・セラピー)」を支持しているかのように書かれたことに強い憤りを感じています。
また、そのような書き込みに対し肯定的反応や拡散という形で加担している人についても、記録を行いました。可能な限り対応していくつもりです。
私はコンバージョン・セラピーに断固として反対しています。
実はこの1週間ずっと不眠で、今日も結局ベッドに横たわってただけで眠れてなくて、家を出なければいけない時間になっていた。
寝入るとぶり返しで過眠になるのもわかっているので予定が詰まっているうちは起きていなければいけなくて、処方薬を飲むと起きてはいられるんだけど、そしたら帰宅後も眠れなくなる。この繰り返しで眠れずの1週間を過ごすことになった。学会があり、いろんな人と会い、自分も研究発表をするという、集中力が必要かつハイでいられる場があったので乗り切れたのだと思う。
この夏は、家族が立て続けに病気したこととか、仕事(台風が来た時期は特に)が忙しかったこととか、長距離移動が多かったこととか、自分の属性が対象となる酷く差別的なニュースが絶えず駆け巡っていることとが、自分では平気だと思っていたけどストレスが積み重なって今回体調に出てきたのかもな〜、と客観的に思うなど。
この2年ほど反復性過眠症の周期と仕事や学業を上手く調節できていたので、自分が睡眠障害を抱えているのを甘く見ていた。
今日また飛行機移動をし、しばらく大阪にいるので、今夜は愛犬たちを抱っこしてリラックスした夜を過ごす。眠れないかもしれないが、眠りたいな。
Ph.D.student. Master of Cultural Anthropology. Folklore, Queer studies, Postcolonialism. Pansexual, she/her. Mixed roots, JP/EN/CH. 仕事しつつ院生, 文化人類学博士課程. JPN🏳️🌈🏴 #MilkteaAlliance🧋 #TransRightsAreHumanRights