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黒ノ岸シン さんがブースト

ドイツ語圏では金曜日に窓の写真を投稿してますね。ハッシュタグは
#FensterFreitag

由来はなんだろう。橋の日と関係あるのかな……

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2022年12月2日(金)

日記を書かずに寝てしまった。まあよい。数年前まで土日休みではなかったのだけど、最近そうなった。まだ新鮮だ。今の生活だと土日休みはラクチンだが、前は前でよさがあった。ただ、二連休のよさは定期的に取れるようになるまでわからんかったな。三日働いて一日やすんで、二日働いて一日やすむ、も楽しくはあった。ともあれ金曜夜が嬉しい気持ちはほんとうに最近になって分かったのだった。長らく花金とかさっぱりわからぬ感覚だった。

明日は遊びに行ってボードゲームをする(もう今日だが)。とてもひさしぶりだ。ボードゲームは簡単に遊べるのもしっかり遊べるのもあって、いろいろやっているうちに重めで長めのものも楽しめるようになった。二時間三時間あっという間だが、そのあいだずっと夢中なのは、ほかにはない貴重な時間だと感じる。大切にしている。

今日はすこし縮こまっている日だった。人の不機嫌に当てられた感じだった。よくないけど制御は難しい。世界観と解釈のメタ化で調整するしかないんだけど(だけ、かはあやしいが)、めちゃエネルギーを使う。それが補充できてなかった感覚かなー。回復はした。


2022年12月1日(木)

具体的と抽象的を考えたときに、数字はどっちなん?とめちゃくちゃ思う。数字ってそのものとしては抽象度マックスだけど、ものごとを具体的に表してみせるときにら凄く使えるヤツでもあるよなと思うのだ。こいつ自体は抽象的だが、こいつが表すものは具体性を強く帯びる、みたいな認識でいいんだろうか。ただの混乱の話だ。

せっかく日記を書くんだから具体的なことを書いていこうと思って、なんか前述の連想をしたのだった。曜日や季節のことも率先して書きたいけど、このへんも具体的なものと言えるのかな?まあよいけど。木曜日だった。木曜日ってなんかボンヤリしている。これまで木曜日に楽しみにしている物があんまりなかったせいだろう。これまでというか、若者の頃の余波かなあ。どこが具体的な日記なんだ。

仕事でヒアリングや面談をした。あんまり上手くできない感じになってしまっているという感覚だけど、新しい職場の文化に合わせられないだけなのではとも思う。万能に、場に合わせてみせることへの憧れもあるので、対策したくも思うけど、うまくいくかは微妙だ。向き不向きもあるし。その範疇な気もする。

Mastodonにすら「こういうふうに書こう」とし始める。慣れてくるとパターン化させようとする癖がある。効率化とか安定化を狙っているところもあるけど、同ジャンルの物を陳列したいというコレクション欲の影響も濃いめだ。


令和4年11月30日(水)晴れ。

両手フリック入力というやつができない。キーボード入力を高速化していった経験はあるので、この辺を訓練すると報われる感覚は一応あって、最初はたどたどしくてもやり続けようという思考はもちやすい。そして学生時代にちゃんと勉強してた人たちはこのあたりの認識パワーが強くて素敵だ。自分はサボってしまったなという後悔が多少ある(努力報われる認知が限定的)。こうしてMastodon日記を書き始めたわけだけど、両手フリックの練習も兼ねたりしている。

水曜日なので週刊少年マガジンを読んだ。講談社の読み放題を利用している。面白い作品多数だけど、戦隊大失格かかなりよい。五等分の花嫁の作者の新作なのだが、とても変な作品だ。設定がヘン、作風かヘン、どちらもあるけど、五等分の花嫁のときにもすこし感じていた。普通のラブコメとしてクオリティ高いけど、なんかヘンな味付け入ってますよね?と思っていた。その作者が次に出してきた作品がこれなのは面白い。

Audibleで三体を聴き始めた。すこぶる楽しくてずっと聴いている。継続視聴しているPodcastたちが溜まってしまうな-。

仕事でちょっと嫌なことがあった気がするけれど、この最初の一行を書いた時点で、わざわざフォーカス当てて語るようなことかなあという気がしてきた。嫌な気分で帰ってきたので、このことを書き始めたら長くなりそう、560文字すべて埋まるくらいぐちぐち言いそう、とか思ったのだが、あやしくなった。過去にも乗り越えた不満レベルだと思った。過去に乗り越えられたなら今でも乗り越えられるのが道理で(書いててなんだけどあやうい橋だなあこの論理)、だから書く必要はないのではないか、と発想した。

なんというか、厳しくしっかり伝えないといけない場面が世にはあって(へらへらと、曖昧な態度と言葉で、伝えても、意味ないじゃんという場面はあり)、対して、冷酷にただ圧をかけてみせるような見栄とかメンツの場面もあり、この境界線というかグラデーションがよくわからん、という困難にはよくぶつかっている気がする。めちゃくちゃ抽象的に描いてしまったが……。この手の問題は昔から苦手かもである。

Amazonの配達がなかなか無礼な感じになってきていて、でも、ブラックフライデーの大変そうな感じを見ていると、しかたないとも思う。イヤホンとプロジェクターを買いました。ちょっと使うのにそぐいそうな感じになってきたので。興味はあったのでちょうどよい時期。


令和4年11月28日(月)曇り。

職場が寒い。別にいいような大問題なような気持ちで眺めている。次第に寒くはなっていくだろうし、いずれなんらかの対応はしたほうがよさそう。

仕事についてはいまだにうまく整理できていない点が多くて、うまく説明したり、目標を立てたりしたいと思うのだが、やっぱりよくわからないなという落ちになりがち。ビジネス系の人達はなんであんなに明瞭に語れるんだとは考える。恥知らずなだけ(だから正解と言い切れるわけもない綺麗な言葉を放ってるだけ)ではとも疑うが……。でも、思想や決意を語っているだけかもしれないしなあ。決めたことをやり通す(正しいとかではない)というのがビジネスにおける唯一のやりかた、みたいな切り口もあるし。

HUNTER×HUNTERの今週の話が賛否両論で楽しかった。たしかにここまでのとがった感じからすると、普通の話っぽくは見える。単なる前振りとか、伏線が垣間見えるとかあるのかもだが、類型的には、飛び抜けて変、なものではない感じ。個人的には特に文句はない。ただ、これを踏み台にして「!!!」みたいなものを見せてくれるなら、それは当然うれしい。毎週楽しみにしている。

転スラ、アニメを少し見ていたのだけど、原作の小説のほうが面白い感じと聞いて、興味を持った。

黒ノ岸シン さんがブースト

色んな人たちに、いつ頃からメンタルの調子を気にするようになったか、と聞いてるのだが、若い人の多くがインターネット、あるいはTwitterでそういう言説に触れたことがきっかけと言っていて、そうか、今という時代はそうやって新しいものの感じ方が生まれていってるんだなと思うと、隔世の感がある。
まさに社会構成主義的な世界だ。

黒ノ岸シン さんがブースト

「炎上した話題に言及してしまった、5歩戻る」みたいな朝


令和4年11月27日(日)晴れ。
ここのところ早く目が覚めるので加齢のせいかなと考えるけど、昔から起きるのは早めだ。あと最近は夢見が悪い。悪夢を見ている。なんかネット上に文章を書くことを再開したら起きた傾向なんだけど関係あるんだろうか?って思っている。ない気がするんだけど、言語化が記憶や夢に与える影響がないとも思い切れないし、タイミングがよすぎる。

歯医者に行った。ずっと矯正をしていたけどそれは終わって、一般的なメンテナンスになった。いつもと違う先生に診てもらって、「?」という雰囲気を出されたのだけど、それがきっかけで、今まで少しだけ感じていた違和感に意識がフォーカスしてしまった。もしかしたらあんまりよくないところだったりするのか?たぶん答えは出ないけど、気にはする。環境が変わっていずれ行き先を変えねばとも思っていたので、それも含めて検討していくことになりそうだ。

大宮で火事があった。ちょっと関係性のある位置なので驚く。まじめに火事に向き合ったことはない。私財がぜんぶ燃え尽きたらどうするだろうなって思うけど、災害に見舞われた方々はそれを経験しているはずで、どうにかやっていくしかないんだろう。どうするとか考えてもしょうがないし、どうなってもやっていけると普段から理解できているほうがよい。


インターネット上でのコミュニケーションの距離感、いろいろと変わっていったわけだけど(リンク集、チャット、掲示板、相互リンク、アクセス解析で気づく、トラックバック、フォロー、お気に入り、メンション、リツイート)、いままでのどこかでちょうどよい距離感があったのか、まだまだこれから進化の過程なのか、よくわからない(このへんが好きだったなという振り返りはなくもないけど、思い出美化がだいぶありそうだしなあ)

結局むかしからフォローしている人たちのすてきさが安定している。

いまさらながらにTwitterのタイムラインを少しだけ整備した。


ゆるやかなタイムラインを維持していくべきか(維持できるか)は迷う。というか、時間がたてばたつほど好きな出会いは増えていくわけで、肥大化が防げないよな~とは思ってしまう。基本的に切り捨てたり整理したりできない性質の影響も多大にあるけど……。というかその影響しかないけど。

まあ、組織や会社がおおきくなっていくにしたがって、贅肉が増え、肥大化していって、いつか冷徹な意志で削ぎ落とさないといけない日が来る、もしくは、歴史上おおきくなりすぎた人や国が崩壊していく流れ、とかっていうのもあるし、なかなか回避できない問題なんじゃないかなとは思う(という言い訳を慰みにしている……)。


タイムラインがゆっくりなのはかなりよいな。すっかり忘れていた感覚だった。Twitterも最初のころは、ぜんぶのツイートを読もうとするくらいの気持ちだった(ひとつひとつをわりと丁寧に読んでいた)。

黒ノ岸シン さんがブースト

「連合」を見るとTwitter的なユーザも発言もたくさん流れていきます。「ホーム」(LTLというんでしょうか)では全くそんなことがない。それは自分が選んだユーザだから当然ですが、この中でQTが機能しても節度ある交流になるんじゃないかと思うのですね。思うに、顔のある人間を想像できるかということなんじゃないでしょうか。Mastodonが優れているのはコミュニティサイズが構造的に制限されていることによって、それが保たれるところにあるんじゃないかと想像しています。(2/2)

黒ノ岸シン さんがブースト

藤井さんがお書きのTwitterにおけるQTの問題を読んでいて、色々考えさせられました。確かに「犬笛」として使われていることは多く見かけるし、それが分断を作り出す上でとてもよく「機能」してしまっている。設計思想の段階でそれが防がれるようであれば、今Twitterの一部で生じているような言論の劣化(あれを言論と呼べるとも思えないけれど)も生じにくいというのは、分かる。

でも、QTが豊かな交流を生み出すのも事実です。設計の問題とは別に、それを使う側のリテラシーとでも言いましょうか、個人がパブリックに発言することの姿勢の磨かれ方とセットになる話でもあると思います(自分ができているというわけではない)。Twitterで突然タメ口で接触してくる人にドキッとすることも多々ありましたが、こちらが丁寧に返事をすると、人が変わったようにコミュニケーションを整えてくる人もいました。QTを使うと私的領域じゃなくなるということに気づかれた瞬間なのではないかと想像しています。(1/2)


Twitterがスター表示をハート表示にしたことだけでも、けっこうな違いが出来たんじゃないかと思う感覚(その判断があったからそもそも変えたんだ、という見方もあるし)

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文化圏というかコミュニティの雰囲気が、ちょっとしたシステムの違いで、というか、システムの違いどころか、ちょっと目立っている人の発言や思想の方向性だけでも、思った以上に変わっていく光景を、いろいろな「場」に見てきたので、ささいな違いを「人間はそんな些細な違いを処理しない」「気にしないで進める」「気にしても別に変わらん」と判定することはむずかしいじゃないかなあ、と思うようにはなった。

新しい場が出来ると、新しい場のありかたについて(そしてこれまでの場とその歴史について)考える人が増える感じがあり、その話を聞くのが愉しい、というのがある(新しい遊び場が出来たときに「いいね!」と思う理由のひとつ

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