藤井さんがお書きのTwitterにおけるQTの問題を読んでいて、色々考えさせられました。確かに「犬笛」として使われていることは多く見かけるし、それが分断を作り出す上でとてもよく「機能」してしまっている。設計思想の段階でそれが防がれるようであれば、今Twitterの一部で生じているような言論の劣化(あれを言論と呼べるとも思えないけれど)も生じにくいというのは、分かる。
でも、QTが豊かな交流を生み出すのも事実です。設計の問題とは別に、それを使う側のリテラシーとでも言いましょうか、個人がパブリックに発言することの姿勢の磨かれ方とセットになる話でもあると思います(自分ができているというわけではない)。Twitterで突然タメ口で接触してくる人にドキッとすることも多々ありましたが、こちらが丁寧に返事をすると、人が変わったようにコミュニケーションを整えてくる人もいました。QTを使うと私的領域じゃなくなるということに気づかれた瞬間なのではないかと想像しています。(1/2)