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英語圏では翻訳と感じさせない翻訳が好まれる傾向がある、とものの本には書いてある。でもわたしは、翻訳書を読んでいるときに、それぞれの翻訳家の体臭を眼と鼻と脳とで記憶し、次に同じにおいがいつ鼻孔をくすぐるのか、ノラ犬のように愉しみとしている。アイルランド文学者の栩木伸明は『琥珀捕り』において「思う」を「おもう」とひらくが、詩についての論考でも同じような表記をしていた。矢川澄子の随筆には「したたか」という言葉がずいぶんたくさん出てくるが、絵本の翻訳にだって登場する。翻訳家のクレジットがなくても、それが誰の手になるものか(ある種のお気に入りの本においては)当てられる自信がワタシにはある。

*たとえば秋草俊一郎『「世界文学」はつくられる』(東京大学出版会)。

岡田恵美子、北原圭一、鈴木珠里編『イランを知るための65章』(明石書店)。テヘランの地下鉄には痴漢を防ぐための女性専用車両があり、全員がヘジャーブをつけているので遠くからだと車両いっぱいの鳥の群れのように見えるのだとか。これについてイランの人と話したところによると、女性専用車両は先頭車両といちばん後ろの計ふたつ、朝のラッシュアワーだけでなく、終日女性専用らしい。こんな話を聞くと、イラン社会における女性の地位についても知りたくなってくる。

イランの書道における書体の話も面白い。p105の図版を引用するが、この4つすべて、書かれている言葉が同じだとは。

私の大好きな台湾文学である朱天心『古都』ですが、「私が選ぶ国書刊行会の3冊」(40周年記念小冊子)で敬愛する蜂飼耳さんが挙げていて手に取りました。かなりの数の選者が幻想小説やその周辺書を択ぶなかで、この詩人にはまったく未知の文学について教示してもらったという深い感謝の念があります。

藤野可織における「時間ある?」(ジニー竹森訳で「GRANTA」にも訳出)のような植物幻想の作品の切れ味の鋭さは、キット・リード「ぶどうの木」に肉薄しているような気がする。科学性が希薄でも年刊SF傑作選に収録するとアンソロジーが引き締まるような感じ、とか。

@araragiumi すごい、最新のSFマガジンの大学生アンケート結果、もう中国語になっているんですね。木海さんがつくられたのですか?(^-^)

キム・チョヨプ「マリのダンス」(「SFマガジン」23年10月号)。キム・ウォニョンとの共著『サイボーグになる』9章で語っている内容を「小説で」書き直したように自分にはみえてしまって、フィクションならではの震動を感じ取ることが残念ながら今回はできなかった。著者のnon-judgmentalな姿勢、弱者への優しいまなざしについてはこれからも注視していきたい。

日本文化・日本文学の研究書やイベント情報だと、文学通信(出版社の名前です)のメルマガはかなり有用かと思います。ジェフリー・アングルスさんとか、日本文学英訳者のトークイベントの情報とかも掲載されていたりします。

90年代(?)のInterzoneっていい意味での規範からの逸脱というか、尖った作品が多そうな予感がしているのですが、時期が絞り込めず、「この編集者の時代が」とか「〇年頃から〇年頃まで」とかあればご教示願えないでしょうか。

自分は森開社の『左川ちか全詩集』で左川ちかを読んだのですが、岩波文庫に入るとは感慨深いです。海外詩好きとしては、白鳥友彦編『月と奇人』が講談社文芸文庫「現代日本の翻訳」に収められる日のことを夢見します。

自分も、一生のうちに一回くらい同人誌なるものを作ってみたい。知人に言ったら「そんなの作ろうと思えばすぐ作れちゃいますよ」と笑われちゃったけど。

レメディオス・バロ、いやしの本棚さんの紹介で購入したRemedios Varo: The Mexican Years(Rm Verlag)がとても充実した画集で「ねえねえこの絵!」と誰かに開いて見せたいけれど今のところその機会には恵まれていない。でも宝物だぞ。

ここ1,2ヶ月でも言語学系の研究者の方数人にお話を聞きにいっているけど、文芸とはまた別に、とにかく学問的な話をする場に飢えている自分がいるのに気づく。こういう場合、場に飛び込むか、自分で場をつくるかのどちらかだろう。

千葉文夫『ファントマ幻想』(青土社、1998)より、「パリのキューバ人 アレッホ・カルペンチェール」。長年読みたい!と思っていた、11年に及ぶカルペンティエールのパリ時代について扱った論考(著者は自分の熱愛の作家、マルセル・シュオッブの全集の翻訳家でもある)。カルペンティエールがカフェ「ドゥマゴ」の常連だったとか父親がパブロ・カザルスに師事していたといった事実も知らなかったし、フランスの芸術家達との交友、浩瀚な音楽批評の書の話まで興味深い点は尽きない。

ちょっとおやと思ったのが、自分が大学1年のときに比較文化論の授業を取っていた先生が、同じくカルペンティエールのパリ時代についてすぐれた文章を書いていると紹介されていたこと(「現代思想臨時増刊 総特集ラテンアメリカ」に所収)。残念ながら、ゴンブロヴィッチやバーセルミならともかく、18才のときにはまだカルペンティエールは読んでいなかったなあ。エネルギッシュな印象の先生で、僕の知り合いではあるけど、と前置きしたうえで、管啓次郎の本は良い、なんて教壇で熱く語っていたのを思い出す。

@biotit 川村記念美術館も国立歴史民俗博物館も両方とも好きです。マーク・ロスコやジェームズ・タレルの現物は川村記念美術館ではじめて見ました~。

稲垣足穂が現代のマンガ家たちにもたらしたもの(思案中)

白山宣之…『10月のプラネタリウム』では足穂作品に想を得た作品が収録、呉智英も『マンガ狂につける薬』シリーズで指摘
伊藤重夫…神戸という舞台、コマ間の飛躍。『ダイヤモンド・因数猫分解』では作家、稲垣足穂そのひとが登場する作品も
鈴木翁二…「白昼見」など自伝的要素のある小説とも共振する作品が多いか
中野シズカ『刺星』…「SIGHT」における南信長と枡野浩一の対談で稲垣足穂との比較が話題になっている
倉多江美『一万十秒物語』…これは想像力の質というよりタイトルと超短篇集的な形式面か

鴨沢祐仁
イタガキノブオ
鳩山郁子

ほか、SNSでshigeyukiさんに教えていただいた、たむらしげるについては未読。

ル=グィンの小さな創作指南書、Steering the Craftで前提となっている考え方というのは、大海に漂う魔法のボートを乗組員が操舵するように、作家は自分の技術をきびしくコントロールすべきであるということだ。ただでさえ船体は波で揺動してやまないのに、手が少しでもくるえば、難破はまぬかれない。逆に、驚嘆すべき技芸の粋でもって船を統御することができれば、そんな場所があるとは読者が想像さえしたことのない入り江へと導いてゆくことができる。

太宰治「駆け込み訴え」や三島由紀夫「中世」が好きになれないのは、みなぎる文圧が確かに感じられながらも、そこに宿る切迫感、弓を絞るよりも自己の執念の礫(つぶて)を直接叩きつけるようないわばコントロールが効いていない感触が苦手だからだろうか。しかし、自己のオブセッションを「なま」のまま造形する作家、悲惨あるいは不器用な生を送った作家の作品でも好きなものは無数にあるから、小説のゆたかさに期待するためにはprincipleから出発するべきではないのかもしれない。

【ゆるく募集】稲垣足穂に影響を受けたマンガ家というと、みなさんはだれを思い浮かべるでしょうか。ただ、作風に強くかんじられるが公然とは言明していない作家も多いかもしれません。

Pemi Agudaの作品読みたさに年刊アフリカSF傑作選を買おうかずっと迷っていたけど、もうウェブジンで読んでいたことが判明。それはともかく、こうしたSFアンソロジーに作品が収録されてО・ヘンリー賞のような賞も受賞しているというナイジェリアの作家は現時点ではそう多くはないのでは。

『最後のユニコーン』の新版が出るそうですが、ビーグルが「くやしい。ぼくは本書のような物語を書きたかったのだ」と最大級の賛辞を寄せた『ボアズ=ヤキンのライオン』もいつか新訳が出てほしいです。

というのは、ユニコーンの物語とライオンの物語は、双子の兄弟のようなというか、片方の作品がもう片方の作品の補助線として読めるような、不思議な関係性をたたえているようにみえるからです。

※コメントの原文は、“I wish I'd written it. It's one of a kind, and those are the only sort of books that mean anything to me.”

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