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歌詞の意味に気がつかなかったのは悔しいが、あの時の私(わたし)では無理だっただろう。この曲を歌うことすら嘲笑の的にされ、歌の存在を記憶から消し去り抑圧していた身としては、あの時の自分を肯定していいんだという嬉しさがあり、この感動は涙なしには語れない。おめでとう。そして、ありがとう。

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「僕に彼女ができたんだ」の意味を10年越しに知って感動している

昔から自分にはセレンディピティがあるというか、あることを考え続けているなかで、別のことを調べている時にその考え続けていたことに対するヒントを探し当てるということを繰り返している。ここにきてメルロ=ポンティと巡り合わせることはもはや感動

暴力革命について講を垂れているところ恐縮だが十月革命自体は無血なんですよね

村上靖彦は向谷地と親交があるのか。そりゃあ当事者研究と距離とれないわ...

「ブラック企業」言説の意味とその問題及び展望について書ける人間は世界中どこを探しても私(わたし)しかいないのですが、絶対に書きたくないので記事が出ることはないでしょう。もっとも、死んだ後に書くつもりではいる。

> 差別された人びとは、機会があれば、容易に差別する側に転じる。イスラエルを見ればいい。パワハラの被害者になりがちな若者のなかにも本心ではパワハラする側に与したいと思う人間が少なからずいるだろう。石丸はパワハラ気質だから若者にうけたという可能性を想定すべきだ。

わたしはこの考え方をとらない。差別が連鎖するというナラティブが反差別のための取り組みに寄与することは何もない。『狂気な倫理』で得られた思考

水田珠枝がもっと評価されるべきなのは同意。もっといえば安川悦子の業績も低くみられている
x.com/kimarx/status/1804820398

稲葉の新刊は東絛由紀彦を取り上げるのか

石丸構文の差別的流葉 

本当に人権とかどうでもいいんだな
x.com/mojamojappa/status/18104

要するに、子どもが偏見を持つかどうか、差別的思想を受容するかどうかは子ども自身の意志や利害関心に左右されるということ。だって親の人格と子どもの人格はまったく異なるから。子どもが差別主義者になるのは、子ども自身がそうなることを選択するからだ、ということ。ビアードの言うことが正しければ。少なくとも、「子どもの偏見」を論じる際に未成年の子ども全般を指して話を始めるのは適切ではないだろう。

だが多くの理由から、学校介入プログラムは望ましい。ここで指摘したいのは、偏見を減らすことを目的とする教育プログラムである。これは、人種差別をしない学校プログラムとはまったく別の問題である。第一に、偏見は4歳から7歳の白人の子どもあいだ(原文ママ)に、(そして、おそらくマイノリティ集団の子どもたちの、他のマイノリティ集団の子どもに対する態度のなかにも)広まっているように思われる。第二に、7歳になると子どもたちは認知的に偏見を少なくすることができるようになりはじめるけれども、かれらは、偏見を持った親や友達の影響を受けることを選択するかもしれないし、また、新しく発達してきた彼らの認知能力を活用させる情報に触れる機会がないかもしれない。もし子どもが、エスニック集団についての適切な情報を用いて彼らの新しい認知能力を訓練するチャンスを与えられなければ、この貴重な機会を逃してしまうであろう。」フランシス・アブード著、栗原孝、杉田明宏、小峰直史訳『子どもと偏見』ハーベスト社、2005年、p185-186

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子どもの偏見は大人に責任があるんだとする発言をTwitterで見かけたので本当にそうなのかと思って読んでみたが、最後の「教育者への覚書」は子どもを持つ親にとっていささか心荷を下ろすものになろうか。

「人びとはしばしば子どもの偏見について親を責める。彼らは親が偏見を持っていて、その態度を子どもたちに教え込むと決めてかかっている。これは正当ではない。7歳以前の子どもたちは、親の態度を受け入れることはないし、しばしば親よりも偏見を持っている。7歳を過ぎた子どもたちは、親から影響を受けるけれども、親だけから影響を受けるのではない。他の要因も子どもたちの態度を形づくるのである。しかし、ほとんどの親は、子の偏見の責任が親にあるという非難が不当であることに気づいておらず、自分の子どもが偏見を持っているようだという指摘に、ひどく敏感になっている。そのため彼らは、子どもの態度を調べるどのような試みにも、偏見を減らそうとするいかなる介入にも、反対しようとする傾向を持つ。

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フランシス・アブード『子どもと偏見』。子どもの偏見は親のまねであると断じたり(社会反映論)、幼少の親子関係に起因するのだとしたり(権威主義研究)する既存の諸理論による説明が不十分であることを指摘し、ピアジェの社会的認知発達理論をアブードが修正した議論に基づいて説明を試みる。原書は1988年(翻訳は2005年)なのでこれらの研究が今どこまで進んでいるか知りたいところ

『甘えの構造』を読んでいる。読む前から土居の理論と「よきこと」の理論の距離はそう遠くはないだろうという直感がなんとなくあったが、甘えの構造は二者関係を前提とすると述べている箇所を読んで直感が当たっていたことを確認した。そして甘えの理論が(左翼の間で)広く共有されなかった、あるいは若い世代に受け継がれなかった理由もなんとなく理解した

というか今まで自分にハラスメントをしてきたクィア・フェミニストってみんなああいうコミュニケーションをしてきたんだわ

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名指しするけど原口昇平みたいな奴嫌いだわ

ブレイヴァマンに対するフェミニストの批判やその仕事をないことにしているところがさすがミソジニスト
x.com/ryuujisasaki/status/1805

一周回って(?)スピリチュアルなもの、霊的なものの重要性を認めること、とにかく何かを信じるということの意味について考えるべきなのかもしれない

石丸の話法について語るとしたらわたしなのにあまり語る気が起こらない。たいていのことは言い尽くされているからだと思うが、おそらく一番の理由は石丸が左翼"ではない"から

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