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「データは、もともとは外婚制であったギリシャは、民主制の開花の時代に都市国家内の内婚へと移行したこと、また当該諸都市国家は、アテネのように民主主義を志向するか、スパルタのように寡頭制を志向していたことを、示唆している。このように後天的な内婚制は、東南アジアないしは日本におけるように、王侯ないし上層階級に固着することはなく、むしろ市民集団の中に固着する。しかしまたそれは、ロバート・ローウィが『一門の誇り』と呼んでいたものに支配されることにもなるのである」636頁

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「ショーとサラーは、きわめて重要な証言を見つけ出した。聖アウグスティヌスが『神の国』の中で次のように述べているのである。すなわち、イトコ同士の婚姻は、法律が認可している場合でも、稀である。このことは、教会がこの問題に興味を抱き、婚姻の禁止をはるか遠くの親等の親族にまで広げる以前にも、同様であった、と。聖アウグスティヌスは、その際ついでに、外婚制についてまことに見事な社会学的正当化を提案している。彼によれば、これは人々の間、集団の間につながりを広げる、というのである。実際、ローマの拡大と征服された民族の同化は、もともと外婚への強い性向がなかったら、想像することができないであろう。家族内婚と外からの妻の獲得を組み合わせることを可能にするのは、一夫多妻制のみであったろう。しかしローマ人は…きわめて明示的に一夫一婦の徒であった」634頁

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「ローマ人も外婚であった。これは、本来なら一言触れるだけで済む話だったのだが、ジャック・グッディーが、ローマはもともと内婚制だったが、後に教会によって外婚に転換させられたという説を案出したいという欲求にかられてしまったために、ことは厄介になった。…ブレント・ショーとリチャード・サラー…2人は、ローマではイトコ婚は形式的には禁止されていなかったが、滅多に実践されなかったと指摘している。…おそらく外婚制は、レヴィ=ストロースが考えていたのとは逆に、文化的なものというよりも自然的なものであり、それゆえ文言化される必要がないのである」633-4頁

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「東ヨーロッパに戻るなら、ロシアでは、外婚が全く同じように支配的であり、イトコ婚は例外とみなされていることが分かる」631頁

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「20世紀、19世紀ないし18世紀に収集された統計データは、ヨーロッパにおける本イトコ同士の婚姻率は、全般的に1%以下であることを明らかにしている。中国の8から10%、日本の7%よりもはるかに低い」630頁

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「〈最も古代的(アルカイック)な形態 一時的同居を伴う核家族〉…
 直系家族の概念に〔直接間接に〕支配される空間の外にある他のすべての地域では、一時的同居を伴う核家族が見出される。これについては、変動の年代を確定しなければならない必要などもはやない。何しろ、それは家族の起源的形態であり、変化があったとしても、それは時として末子相続として形式化されることがあったかどうか、というだけの話だからである」625頁

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「中世の秋とは、家族システムが最終的に結晶化する時期ということになるだろう。イングランドの家族は、純化された核家族性に向かうその動きを始める。直系家族は現実的にフランス南西部およびゲルマン空間の特徴となって行き、平等主義核家族はパリ盆地の特徴となって行く。ショックと不安によって、住民は台頭しつつある構造を強調するように仕向けられる。この時期になると、人口圧力という概念はもはや通用しなくなる。人口密度が低下しても、直系型の家族構造が後退することには繋がらない。むしろその逆である」623頁

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「非ル・プレイ的類型(双処居住共同体家族と一時的同居を伴う核家族)の出現時期…これらの家族類型は、大陸の周縁部と統一化的文明との縁辺に位置するが、そこから、これらが古代的(アルカイック)要素を含んでいるはずであることが明らかになった。…15世紀の資料を検討すると、一時的同居を伴う核家族だけが真に古いものとみなされ得ること、双処居住共同体家族は、その構造にいくつかの古代的(アルカイック)要素があるものの、いずれにせよ時代が下ってからの革新であったということが、示唆されることになるのである」622頁

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「本書で提案されている家族システムの分析と説明は、フレデリック・ル・プレイにによって練り上げられた類型体系を著しく相対化している。しかし逆説的に、彼の好む類型である直系家族の、西および中央ヨーロッパの歴史の中における重要性を増大させることになってしまう。純粋な核家族類型の出現は、最終的な分析では、直系家族の出現に結びついたものとして姿を現わすからである。絶対核家族は部分的には、同居と不分割という直系家族的原則に対する反動であり、平等主義核家族は同居と不平等という直系家族的原則に対する反動であった。もちろん純粋な核家族類型が否定によって形成されて行くメカニズムという仮説を拒否することもできる。しかしその場合であっても、平等主義核家族と絶対核家族という家族類型によって最終的に占められる空間は、中世においては、上流社会階層の中での長子相続と直系家族という一般的な問題系によって表面が覆われていたことを認めなければならない。直系家族、平等主義核家族、絶対核家族が全部合わさって、直系家族的概念空間とも呼ぶことができるものを形作るのである」622頁

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「ヨーロッパ諸国家の誕生と直系家族の結びつき…長子相続は10世紀末に、国家の不分割の道具として台頭した。そして国家はますます民族と合致しなければならなくなる。直系家族は権威と不平等を組み合わせたものだが、この2つの価値は本質的官僚的な価値であり、また連続性という直系家族の理想は、近代国家へと向かう通路の1つであった。時として直系家族は農民層の中に定着し、そのようにして人類学的基底を構成するものになったのである。そこで歴史が示唆しているのは、直系家族が民衆の間であまりにも成功したところ、つまりドイツやイベリア半島・オクシタニア空間においては、国家は領土の面では拡大することを止めた、まるで不分割原則が小国家の非集合原則によって補完されたかのように、ということである。ところで農民の直系家族が、たいていの場合に表明している理想とは、複数の農園は集められて1つになってはならず、長男は跡取りの長女と決して結婚してはならない、というものである。その後、国家の開花は、まずはイングランドおよび北フランスを手始めとして、核家族の空間内で起こった。しかし絶対核家族と平等主義核家族は、部分的には、当初は国家の誕生に貢献していた直系家族に対する反動として誕生したのである」621頁

観念的な議論で感心せぬなあ…

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「〈直系家族と国家の誕生〉
 ル・プレイの家族システム(平等主義核家族、絶対核家族、直系家族)は、歴史によって伝統的に認められた政治的空間の中で、形をとった。パリ盆地、カスティーリャ、中部ポルトガルという平等主義核家族地域の中心部では、国家が発展した。これには南イタリアも加えることができる。イタリア半島の中でただ1つ、中世に重要な領域国家、ナポリ王国が出現した地域である。さらにまた、イングランド、デンマーク、そしてオランダでも、絶対核家族は、単一の民族国家というものの歴史の枠内に収まるのである。ドイツあるいはイベリア半島・オクシタニアにおける直系家族は、これよりやや複雑である。この場合に成立する対応関係とは、早熟で、しかも流産した国家の歴史との対応関係である。つまり、中世の頃から始まって、やがて統一化的国家の台頭へと至るということがなく、小サイズの諸国家が存続するままにしたという意味で、流産した歴史なのである」620-1頁

ナポリ王国はヴァイキングが侵略して建設したもののはずだが…

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「〈イングランド的家族の創出〉…
 遺言の自由な行使は、親族のいかなる統制からも解放するがゆえに絶対核家族の根本的要素であるが、とはいえこれの起源は、いつともしれぬ太古の昔に遡るわけではない。…中世の終わり頃には、家族というものが己の法的自由を回復しようと努力していたことが感知される。ヘンリー8世…から、遺言の自由が肯定されるようになる。1540年には、『従軍』義務が課せられている農地(封土)の3分の2とそれ以外の土地全部を自由に処分することが可能になる。革命下にあって、従軍義務のある保有地は明らかに時代遅れのものとなり、長期議会は1645年に遺言の完全な自由を確立する。…したがって遺言の自由は、比較的近年の歴史の生産物なのである」619頁

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「〈平等主義核家族の再浮上 ローマの痕跡〉
 平等主義核家族がまるまるかつてのローマ帝国の空間の中にすっぽりと収まる…
 後期ローマ帝国の家族はそれ自体が、都市部では平等主義核家族の言わば原型であった。ローマ帝国のかつての版図には、平等主義的価値の文化的持続を想定しなければならない。それは都市システムの名残、大荘園、ブドウ栽培などに付着して、各地に拡散していた。…
 貨幣経済への回帰、都市の再生、大規模農業経営——ならびにそれに対応する労働者——の再確立が、ローマの平等主義の残滓と組み合わされて、平等主義核家族の台頭を担保した。それは時とともに系統的に強化されていったと考えることができる。
 長子相続制という徹底的な不平等主義概念が社会の上層階層に定着したことは、その反動で、住民の中の被支配的部分に平等という反対概念が明確化するのを促進することにもなり得た。…
 とはいえ…あまりにも静態的な、言ってみれば構造主義的な見方を導くことになってはならない。…フランス革命以前には、個人主義的・平等主義的な家族は、模倣に値する上流階級に担われた威信あるモデルではなかった。したがって平等主義核家族が占める空間の増大の可能性は、農民共同体とその拡大というレベルで探求しなければならないのである」616-7頁

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「〈純粋な核家族システムの出現〉
 イングランド(あるいはデンマークもしくはオランダ)の絶対核家族、ならびにフランス(あるいはカスティーリャもしくは南イタリア)の平等主義核家族は、ユーラシアという塊の周縁部に位置し、核家族性および親族システムの未分化という基本的な古代的(アルカイック)特徴を保存してはいるが、歴史的変遷の結果として単純化され練り上げられた形態である。われわれは中世から始めて、これらの核家族の出現を理解しなければならない。この時代に関しては…未分化の親族集団の中に包含された、近接居住もしくは同居を伴う核家族という仮説を受け入れることができる。農地制度の構造が基本的な説明要因となる」614-5頁

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「ヨーロッパの直系家族の出現が、比較的最近の局面においてきわめて漸進的に進行した…ディオニジ・アルベラは、アルプス山脈南部では、直系家族が定着し始めるのは17世紀以降に過ぎないとしている。…直系家族の確立は、10世紀末に始まり、ほぼ千年に及ぶわけである。しかし直系家族の革新の重要性は、この革新が定着に成功した領域の範囲を越えている。この革新の適用が社会を征服することに挫折したところにおいて、この適用は、純粋な核家族システムの再浮上もしくは出現を促進させることになったのである」614頁

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「〈直系家族概念の成功と挫折 農地制度による説明〉
 …なぜヨーロッパ大陸の特定の地域で、ついには直系家族という概念が農民層に広がり、貴族のものよりもさらに厳格に農民の家族生活を構造化するに至ったのか…自ら望んでか、強制的であるかにかかわらず、農民たちによる長子相続の採用は、より稠密な家族形態をもたらすことになるのである。ただ1つの農地について、ただ1人の子供への分割なき移譲は、世代間の緊密な同居へと向かう可能性がある。…
 …長子相続という理想の導入以前に、複数のはっきり異なった農地システムが存在していた…農地の経営で家族経営が多数派であったところでは、直系家族システムは調整に便利で、問題が起こった場合の解決策として提出されていた。中規模農地からなる、住民が充満した世界では、子供たちの転出の可能性が底をつけば、長子への不分割相続が横行する可能性があった。領主の大荘園が耕作空間の大部分を占めていたところでは、不分割のメカニズムは農村部のきわめて少数の上層カテゴリーにとってしか意味かなかった」609頁

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「ジョージ・ホーマンズ…は、13世紀のイングランド農民に関するその古典的な著作の中で、遺産相続慣習を研究している。彼は長子相続地帯と末子相続地帯を系統的に分けようとはしないで、まずこの2つの遺産相続様式は、微細なレベルで混ざり合っていると示唆する。…
 これとは逆に、土地の分割可能性地域は、ホーマンズによって同質的で、それゆえに周縁部的な地帯として明快に定義されている。…
 遺産相続規則についての彼の議論は、基本的には、各地域に定着した住民集団の民族的起源に関する、その当時めぐらされた思弁を採用したものである。…しかしもし、イングランドにおける長子相続地帯と分割可能性地帯の分布を、民族的起源に関するあらゆる予断を忘れて、全体的に眺めてみると、長子相続が中心部に位置し、分割可能性が東と西の周縁部に分布していることを見て取ることができる。長子相続制の規則が理論上の中心から発して周囲に押し付けられていったことが想像できる…中世イングランドの周縁部の検討は、長子相続の押し付けの試み以前のイングランド全域の姿を蘇らせることになるかもしれないのである」606-8頁

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「ノルマン人の拡大によって、長子相続制は海を越えて各地へと伝播することになったが、とはいえそうして伝播した国々で、長子相続は元々の形態のままで生き残ることは、決してなかった。典型的な例がイングランドで、1066年という、やがて有名になる年に行なわれたノルマン人による最初の征服によって征服されたこの国がどうなったかは、周知の通りである。
 ノルマンディでは、中世において貴族の直系家族の最も見事な具体化の1つが、総領制(parage)の理論によって形を整えることになった。総領制とは、宗主に対する封建的義務について長男を弟たち全員の分まで責任を負う者と指名する。弟たちは、土地と城館を保持したが、それでも跡取りに指名された息子の権威から逃れることはできなかった。このようなシステムは、長子相続の厳格性と柔軟な血統の横への拡大とを組み合わせるものであった」605頁

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「最も古い人類学的基底に関しては、データに現われる痕跡を検討するなら、相続慣行を通して、広大な親族集団を観察することもできるし、時には核家族的形態に到達することもできる。ただしいかなる地域についても完全な一覧表を手に入れることができるわけではない。確実なことは、ヨーロッパ大陸の西部の最も遠い過去を探っても、長子相続を伴う直系家族システムなり、共同体家族システムなりの痕跡をどこにも見つけることはできないということである。現存する稀少な情報源は、核家族で未分化の共通の基底という仮説をさらに強固なものにしてくれる」583頁

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「いずれにせよ、子供をあまり登録しない社会では、世帯の平均サイズというものには、実質的に意味はないのである。そこから西欧全体で家族は核家族であったという命題を演繹することはできない。だからといって、ある特定の地域で、核家族仮説がこのきわめて古い時代に関して妥当であることを認めないとしたら、今度は逆に不条理である」582頁

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