「言語にせよ宗教にせよ、[東南アジアの]文化的にきわめて多様な空間の上に、『一時的母方同居と末子相続とを伴う核家族』という共通規範が、適用の度合いには差こそあれ、ともかくも優勢であるということをいかに説明するのか…家族構造の歴史としては中間的なこのレベルにおいて、一様な文化成層が見られることを、どのように説明したらよいのだろうか。
この問いに対しては、1つの単純な答えしか存在しない。家族という点でこのように定義された地帯に、ある時点において対応したのは、ただ1つの明確に定義された空間、すなわち、共通紀元の始まりから小乗仏教およびイスラム教の導入までの間、この地帯で活動を続けたヒンドゥー文明の空間であった。一時的母方同居を伴う核家族の空間は、ジョルジュ・セデスが『外側のインド』と呼ぶもの、つまり、ヒンドゥー教の影響下で、東南アジアのうち、文字、宗教、国家、石の建築物の時代に平和的に参入したこの部分と一致しているのである。空間的な一致は、ほとんど疑いの余地を残さない。しかし。1つの逆説に立ち至る。文明化の要因たるインドは、その地域に影響力を行使したときに、レベルはさまざまに異なるにせよ、すでに父系化されていた、という逆説である」367-8頁
「すべての時代にわたって、[東南アジアへの]インドの影響は、程度の差はあれ、父系の側面を含んでいたはずである。男性長子相続を強調する『マヌ法典』は、東南アジアに到達している。
いずれにせよ、父系原則が、バラモン僧、商人、冒険者たちによって運ばれて、東南アジアに達したことは確信することができる。しかし、それには軍事力の支援がなかった。父系原則は、インドから押し付けられたのではなく、言うならば、提案された威信ある文化システムの一要素として到来したのである。…
入手可能な歴史資料は、父系原則は王侯や貴族階級によって適用されたが、住民の大部分はこれを適用しなかったことを、示唆している。〈外側のインド〉の諸社会の二重性、すなわち、ヒンドゥー化された貴族階級と昔からの風習を忠実に守り続ける住民集団という二重性、そしてとりわけその2言語性をつねに念頭に置いておかなければならない」368-9頁
「インドから[東南アジアに]到来した父系原則は王国と貴族階級に及んだが、そのとき父系原則は、まだ第1レベルにしか達していなかった。つまり、女性による継承が時宜を得ているのなら、それを拒みはしないというものであった。…出現したばかりの頃、父系原則は過激化していなかった。もっぱら継承という観念に支配されており、男女間対称性や女性の劣等性の観念にはそれほど支配されていなかったのである。
…女性による継承が一定の割合であるとしても、それは母系規範を想定するものではないのであり、〈レベル1の父系制〉システムを定義するには、一定の割合の女性による継承が、男性による継承に追加される必要があるのである。
社会構造の中層・下層になると、文化の輸入は、おそらく全く別の結果、分離的な否定反動という効果をもたらした。すなわち、もともとは未分化なシステムが母方居住に屈折したのである。母方居住の末子相続は、父方居住の長子相続の反転と考えることさえできる。外国からの影響の否定と社会的な分化は、ここでは同じ方向で作用したのである。
…長期的にはこの地帯全体を、明確な母系制に構造化し直すのではなく、時として薄弱な場合もある母方居住への方向付へと導くことになった」371頁
「〈家族と人口密度〉
…中国、日本、北インドの場合、父方居住直系家族と人口密度の増加との間に機能的関係があるかどうか、私は先に自問したものである。全面的に操作が行き届いた〈満員の世界〉の実現が、長子相続という相続が浮上するための好適な枠組みをなしていると、示唆したことがあった。新たに開拓すべき土地の欠如は、やがて、長男を両親の農地に押し止め、農業実践を集約化することに立ち至る。そうなると今度は、父方居住直系家族が、その効率性によって農村の人口密度の追加的増加を促すことになった。とはいえ、いかなる厳密な因果関係も確証されておらず、私はまた人口稠密化とは無関係な直系家族観念の伝播の可能性も喚起したものである」379頁
「ユーラシア大陸の最西端部をなす複雑に入り組んだこの半島[ヨーロッパ]には、古代的(アルカイック)家族形態のかなり見事な見本集を観察することができるのである。しかしながら全般的に言って、この地域に家族の起源的形態を見いだすことはないだろう。内因的な原因によるにせよ、のちに父系原則が到来したことで誘発されたにせよ、ともかく変化が起こることは起こった。しかし、こうした変化は、本書で研究している進行過程の尺度からすれば、近年のこととなる。直系家族の例は特徴的である。中国の場合には、共通紀元前1100年頃に、長子相続の原則が貴族階級の中に出現した、と私は述べている。…これとほぼ同様の男性長子相続がヨーロッパに出現した。…フランク人の貴族階級における長子相続の出現は、10世紀末に遡る。…直系家族という人類学的類型の前進…これは耕作適合地の人口密度の上昇という内因的必然性の結果であると同時に、威信効果による伝播運動の結果でもある。…彼[ディオニジ・アルベラ]の研究によれば、それがアルプス地方に到達したのは16、17世紀のことだという。これよりもさらに時代は下るが、19世紀後半のアイルランドにおいて、1845年から1851年の大飢饉の後に、遺産分割の慣習が放棄され、男性長子相続が定着するようになった」420-1頁
「父系制は、4つの異なった軸にそってヨーロッパに作用を及ぼしている。
1 中東の父系制が古典古代の全期間を通じて、地中海の東から西への軸に沿って広がり、ギリシャ、次いでローマに到達した。
2 共通紀元5世紀のフン人の侵入は、ステップの遊牧民の父系原則——おそらく中国起源——の到来をもたらした。この侵入も東西の軸にしたがって行なわれたが、はるかに北方で行なわれた。それに続いて、同様の侵入が数波にわたって行なわれたが、その最後のものは13世紀のモンゴル人の侵入である。
3 アラブの父系制は、ギリシャ人とローマ人のものと同じく中東に由来するが、7世紀から南を経由して、スペインと地中海西部の諸島嶼に達した。
4 トルコ人の侵入は、15世紀から始まり、南東から北西への軸に沿って進んだが、これが父系制の4番目の勢力伸長にほかならない。
全体としてみれば、父系制の勢力伸長は、東からの波動という形で押し寄せ、時には南に中継されている。ヨーロッパの北西部に最も核家族的にして最も女性尊重的な家族システムが存在するのは、理の当然と言えるのである」424-5頁
「父系制の空間に、私は父方居住の直系家族を入れなかった。この選択は逆説的と見えるかもしれない。なぜならの直系家族の父方居住の比率は、全体的に見て一時的父方同居を伴う核家族における比率よりも低いわけではないからである。私は特に…父方居住の直系家族をどうやら父系原則の起源らしいと考えていた。では、何故、ヨーロッパでは、直系家族を共同体的形態、ならびに一時的父方同居を伴う核家族的形態に結びつけないのか。それはごく単純に、父系制が地理的に1つにまとまっており、その原因は、〔直系家族から父系原則へというのとは〕別の切り離された歴史的シークエンスに求められなければならない、という理由からである。…家族形態の地理的分布から分かることは、ヨーロッパの直系家族は内因的生産物であり、それは東および南を通った父系制の伝播のメカニズムとは、その主要部分において、無関係であったということである」432頁
「〈ローマの進化の理論上の重要性〉
…分析を進めると、いくつかの歴史的変動の可逆性が浮き彫りになってくる。父系制の推進力が、微妙な差異に富んだ、時には局地的に偶然的な姿を見せるに至るのである。…父系制が今日でも、中国南部とインド南部において、いわゆる西洋的な近代化の外見を超えて、前進し続けている…日本のケースは、実質的な進化の例を提供してくれた。しかしその進化は、直系家族段階、すなわち息子がいない場合に娘による相続をつねに認める〈レベル1の父系制〉の段階で停止した。東南アジアの最大部分では、父系原則は、家族の母方居住反動、そして時には親族システムの母系反動を生み出したにすぎない。フイリピン人は長い距離と海とに守られて、起源的未分化状態からのいかなる変化をも免れた。
父系制の作用は、全面的か部分的か、反動的か、もしくはゼロであるにしても、いずれにせよ不可逆的であるとこれまで思われてきた。これまでに研究されたケースは、つねに双処居住から単線性へと向かうものであった。ところがローマ帝国については、明瞭な逆行を経験することになるのだ。すなわち、親族に関しては、父系制から双方制へ、家族構造に関しては、複合性から核家族性への逆行である」475頁
「〈帝国期の変動 核家族の新たな類型〉
ローマの家族の歴史の標準的な姿というものは、最近まで、複合性から核家族性への、また権威主義から個人主義への粛々と進む前進という、ラスレット革命以前の家族の世界史の姿を凝縮したものに類似していた。ゲンス〔クラン〕が、ついでファミリア〔家門〕が、姿を消して行き、後期ローマ帝国時代には核家族に席を譲った、というわけである。この図式は、核家族性への逆行という図式と両立し得ることを、指摘しておこう。重要な差異は…伝統的な図式はも、ともに強力な父系制と複合性から出発していたという点である。
この古典的な進化論的ヴィジョンに対して…ローマの家族がより核家族的であると考えるサラーは、不変説へと向かうヴィジョンを対置する」476-7頁
「すでに中国のケースを検討した時から、父方居住で外婚制の共同体家族というものが、どれほど自然なものではなく、個人にとって拘束的なシステムであったかを、私は強調している。私の解釈では、この家族の出現には特別な条件が必要であった。中国では、まず定住民の間で父方居住直系家族が出現し、次いで北方の遊牧民に萌芽状態の父系原則が伝達され、この原則がステップにおいて対称化され、最後にそれが中国を征服することによって帰還を果たすという複雑な過程があった。ステップのクランの父系制的対称性が、中国の父方居住の直系家族の上に上塗りされることによって、父方居住の共同体家族の出現が可能となったというわけである。このモデルを私はインド北部に適用することができた」500-1頁
「共同体家族の2つの変異体を区別すべきではなかろうか。1つは縦軸によって支配されたもので、もう1つは横軸によって支配されたものである。家族構造によってイデオロギーが決定されることを論じた私のこれまでの著作の問題系を再び取り上げるならば、縦型の傾向が見られる共同体家族と横型の傾向が見られる共同体家族を区別することによって、セルビアならびにイタリアの共産主義とロシアの共産主義との間に存在する重要な差異を理解することができるはずであると、認めなければならない。ロシアのボリシェヴィズムの厳格さとイタリアおよびユーゴスラヴィアの共産主義の柔軟性との間の対比は、第3インターナショナルの歴史の決まり文句であった」。おそらくこれはグラムシ…の柔軟性とユーゴスラヴィアの自主管理の起源に他ならないのである」503-4頁
「<幻想1——起源的母系制>
…母系制の罠は、ギリシャ人の民族誌学者によって仕掛けられたものである。彼らは女性のステータスを著しく低下させた父系世界の出身で、女性の自立性を示すいかなる印をも系統的に母系制の証拠あるいは痕跡と解釈した。ギリシャ語の専門用語を用いるなら、〈家母長制〉(matriarcat)とか〈婦人覇権〉(gynécocratie)ということになるが、ここでは母系制とのみ言っておこう。…この罠は人文科学の歴史の最大の誤りの1つ、意味を持たない文書を大量に生産する、まさに精神の墓場となっていった。…
1861年に出版されたバッハオーフェンの大著『母権制(Das Mutterrechit)』は、あらゆる誤りの生みの親とみなすことができる。…中国の民族誌学者たちはギリシャの民族誌学者と全く同じように父系制的精神を持っており、したがってわれわれにチベットとインド北部に存在する女性国家の存在と歴史に関する『証言』を残している。バーゼルのエリートたるバッハオーフェンは、ギリシャ人と中国人のように、父系制は文明のより進んだ局面として家母長制の後に出現した、と明らかに信じていた」504-5頁
「現在の母系制社会と未分化社会の現実を観察した者にとってはまったく単純なある事実…女性のステータスは、実際は母系制社会よりも未分化社会の親族システムにおける方が高いのである。この真理は、母系制システム…が、征服的な父系制に対する反動にすぎないことを理解すれば、より容易に認められるようになる。女性がステータスと財産の継承の主体になったとしても、女性が未分化システムにおけるよりも支配的であるということにはならない。未分化状態では女性は単に男性と同じように自由に配偶者を選ぶことができる。母系制の下では、女性のステータスは、父系の組織編成におけるよりも当然高くなる。しかし女性はもはやシステムの中の1つの要素に過ぎないのであるから、そのステータスは、未分化の世界の中で占めていた位置と比べれば、自立性が減少したものとなるのである。母系制システムでの女性の中心性というものには、夫が平均して妻より10歳年上であるというような、きわめて大きな夫婦間の年齢差が伴う場合がある。要するに、未分化システムの特徴たる夫婦間の年齢の相対的同等性というものとは、大分異なるのである」505-6頁
「母系制は北アメリカのすべてのインディアン住民の特徴というけではまったくなかった。北アメリカには多数の家族システムの変種が共存していたのである。しかし親族名称分析によって、実際に人類学の歴史に革新をもたらした重要人物であるモーガンが母系制を主張したとなると、もう取り返しがつかなかった。…この理論はいまや成熟し、中国人類学に影響を与えることになる。中国人類学の方は、婦人覇権的幻想を語る己自身の古典的著作を再発見することになるのである。円環は閉じられた。ギリシャ民族誌学者と中国のマルクス主義者は、同じ父系制の社会の出身であり、時間的・空間的に遠く離れているにもかかわらず、容易に意見の一致点を見いだすことができたわけである。過去において、母系制、母方居住、家母長制、等々が支配していたという一致点を」506-7頁
「<幻想2——インド・ヨーロッパ父系制>…
最初は父系制であったとする仮説は、家族構造が複合的なものから単純なものへと進化するという仮説と容易に組み合わされる。メインはインド・ヨーロッパ語族が過去において父系制であったと想像した時に、彼は北部インドの〈ジョイント・ファミリー〉を念頭に置いている。彼はそれを古代的(アルカイック)なものと考えたが、これはその時代のヨーロッパのすべての学者たちが、核家族とは近代の獲得物であると想像していたのと同じ考え方に他ならない。…インド・ヨーロッパ語族という幻想は、歴史社会学の〔父系制という〕この常識に調和的に統合されていたのである。
父系制の仮説それ自体は、本来的には母系制の幻想と矛盾するものではない。ギリシャ人は文明化された家父長制という理想が、家母長制の後に現われたと想像していた。この両概念の両立が難しくなったのは、インド・ヨーロッパ語族という仮説が付け加えられたからである。なぜならそれによって、父系制ははるか以前の過去のものとなってしまい、〔起源的過去のものとされていた〕母系制の幻想が処理不可能になってしまうからである」510頁
「ギリシャは多数の都市国家に細分化されていたために、アテネの勢力伸長以前の、女性のステータスの高さの痕跡を観察することができる。…スパルタの女性のステータスは、古典時代には文化的常識であり、スパルタが古代的(アルカイック)であることの印と解釈されていた。アテネあるいはローマの父系制を、インド・ヨーロッパ語族全体に共通した古代的(アルカイック)状態の残滓として提示するというのは、実のところ、歴史的な良識がかなり欠けているところを曝け出すことなのだ。なぜならアテネとローマは、まずは類型に収まらない都市国家であり、その後、歴史的成功を収め、伝統の保守よりもむしろ革新[父系革新?]の場となったのだからである」511頁
「長子相続制度は、最後はドイツ語圏を支配することになり、イングランドにも影響を及ぼしたが、生まれたのはフランスにおいてである。この革新はカペー朝初期に、パリ盆地のフランス貴族もしくはフランス・ノルマン貴族のもとで始まった。…本書の全篇を通じて一貫するテーマの1つは、人類学においては、ある概念とその反対概念とは相対的に近接しているということである。例えば、父系制と母系制については、そのそれぞれが未分化性に対して持つ距離よりも、互いの間の距離の方が近いのである。家族生活に関しては、権威と自由、あるいは平等と不平等についても同じことが言える。権威と自由の2つはともに、世代間の実践的相互作用が不明確な状況というものに対立する。平等と不平等は両方とも、個人を互いにランク付けすることに対する無関心というものと区別されるのである。分析がここまで来ると、未分化性の概念を以下のように一般化することができる。すなわちこの概念は、父方親族と母方親族、自由と権威、平等と不平等の間に打ち立てられる区別がいずれも存在しないということを含む、と」520頁
「絶対核家族——もっとも平等主義核家族もだが——は、いかなる人類学的・社会的実体もない空虚の中で、それだけがひとりでに機能することができると思い込むのは、大きな誤りであろう。絶対核家族は、起源的家族を囲い込んでいた双方的親族集団を脱ぎ捨てて、一時的同居および末子による高齢の両親の世話という実用的慣行を捨て去って——いずれにせよイングランド中心部では——、純粋なものとなったわけだが、これらの要素に代わる代替メカニズムに頼る必要が生じる。ケンブリッジ学派はもちろん、家族の超個人主義によって生み出された具体的な困難が、いかにして管理され得たかということを、思料した。…現地の共同体の機能の仕方…その重要性は、広範な親族関係の役割が減少するにつれて増大するのである。16世紀から19世紀までのイングランドの特徴の1つはまさしく、小教区の扶助と拘束の役割が、国家に依拠しつつ、早期に制度化されたことである。これはおそらくヨーロッパでも唯一無比の事例である」549頁
「工業化以前の社会保障も、世帯の純粋な核家族的構造も、平等主義的核家族のケースで、支配的ではあるが排他的ではないものとしてわれわれが出会った、大規模農業経営がなかったなら、考えられなかっただろう。確かに核家族は他の形で機能することもあるだろうが、次のようなことは確実である。すなわち、農業賃金労働は、昔の農村の枠内では、一般的に小さな家と、庭と、多少の家畜、それに共同体の土地での入会地放牧権と落ち穂拾いの権利の所有を随伴するが、ここの賃金労働は両親と子供の分離を可能にするということである。賃金労働が老人を助けることがあるとしても、それは副次的なことにすぎない。一方、賃金労働のおかげで、若者は使用人として働くことで資産を蓄積することができ、次いで両親から独立して収入を得ることができるようになる。イングランドでは大農民の息子たちも他の大農民の家に使用人として送り出されていた。こうしたセンディング・アウト〔送り出し〕の慣行は、純粋に経済的な面ではまったく正当化されるものではなかったが、これなくしては農村上流階級における絶対核家族の作動は、考えられないのである」550頁→
(承前)「したがって平等主義核家族地帯と同じく絶対核家族地帯において、家族の核家族としての完璧性と農地の集中との間の連合が見出されるのは、意外なことではない。とはいえ大規模農業経営と核家族との相互補完性を強調するからといって、経済的決定の観念に賛同していることには、いささかもならない。農地の集中はたいていの場合、経済的近代化の過程の結果として出現するのではなく、ひじょうに古いかもしれず、もしかしたら社会が成立したとき以来であるかもしれない歴史に由来する構造的要素として姿を見せるのである。このことは、カウツキーが気付いたことであったが、マルクスはそれに気付かなかった。私は『新ヨーロッパ大全』で、中世の大領地と近代の大規模経営との間に存在する連続性を分析した。…
…イングランドのケースでは、17、18世紀のエンクロージャーの動きが、貧しい農民が持つ共同体内の権利を清算することによって、それまでにすでに二極化していた農村の形態を完成させた。しかしエンクロージャーの分布図それ自体、中世の大領地の分布図と合致していたのである」550-1頁
「東ヨーロッパに戻るなら、ロシアでは、外婚が全く同じように支配的であり、イトコ婚は例外とみなされていることが分かる」631頁
「ショーとサラーは、きわめて重要な証言を見つけ出した。聖アウグスティヌスが『神の国』の中で次のように述べているのである。すなわち、イトコ同士の婚姻は、法律が認可している場合でも、稀である。このことは、教会がこの問題に興味を抱き、婚姻の禁止をはるか遠くの親等の親族にまで広げる以前にも、同様であった、と。聖アウグスティヌスは、その際ついでに、外婚制についてまことに見事な社会学的正当化を提案している。彼によれば、これは人々の間、集団の間につながりを広げる、というのである。実際、ローマの拡大と征服された民族の同化は、もともと外婚への強い性向がなかったら、想像することができないであろう。家族内婚と外からの妻の獲得を組み合わせることを可能にするのは、一夫多妻制のみであったろう。しかしローマ人は…きわめて明示的に一夫一婦の徒であった」634頁
「内婚は現実に存在したが、統計的には微弱であり、それは己の歴史的特異性を自覚し、外に向かって自らを閉ざした集団によって獲得されたものであるという結論に達する。これはすでに日本のケースですでに[ママ]喚起した結論に他ならない。
東南アジアもさることながら、ヨーロッパには、核家族と、双方制が優越する親族システムと、4つのタイプの本イトコとの婚姻の禁止に対応する外婚制という3つの要素が見出される。交叉イトコ婚は、フィリピンでもそうだが、ヨーロッパには存在しない。ヨーロッパ大陸の中央部および西部における父方居住直系家族形態の出現、東部における父方居住共同体家族の出現は、親族用語にも、外婚制にも何らかの変更を強いることにはならなかったようである。親族用語は、ヨーロッパ中どこでも双方的なままに留まっており、外婚制もやはり双方のままである。父系制のロシア人でさえ、常にこのモデルに従っている。四方外婚の放棄の唯一証明されたケースである古代ギリシャのケースは、父系変動の影響をすでに受けていたシステム、それゆえ起源的基底から遠く離れたシステムに相当している。ギリシャの内婚は、ひとたびヨーロッパから姿を消してしまったのち、他の地[中東]できわめて見事な拡大領土を見出すことになった」637頁
「〈人類学のアラブ問題 父系内婚制〉…
…レヴィ=ストロースは、以下のように述べている。
親族の問題の研究が、民族学研究の中で第一級の地位を占めて間もなく1世紀になろうとしているのは事実であるが(…)それにもかかわらず、われわれの思索と研究のなかには、言わば保留領域、私としてはほとんどタブーと言いたいような領域が存在する。それはまさしくイスラム社会における親族の問題と婚姻の問題からなる領域なのである。[”Entretiens interdisciplinaires sur les sociétés musulmanes,” 1959, p.13.]
レヴィ=ストロースにとって、所謂『アラブ風』婚姻、すなわち父方平行イトコ婚は、彼個人に関わる問題である。この選好婚の存在のみが、そして旧世界の中央部空間へのその伝播普及が、もう1つのイトコ、すなわち母方交叉イトコとの選好婚に固着した彼自身の考察を、相対化してしまうのである」648頁
「家族構造とイデオロギーの関係に関する,以前発表した研究の中で、私はアラブの家族慣習の人格を越えた力と、とり立てて抽象的なイスラムの神との間には、何らかの関係があることを強調した。フロイトその他が提唱する、神は父親の似姿てあるという仮説を受け入れるならば、娘をだれに嫁がせるかを選ぶことができないこのアラブの父親は、永遠なる神というものの明瞭で能動的なイメージをあまり強力に支えるものではないということを、認めなければならない。
それゆえ、内婚制共同体家族を主題とするモノグラフを見ても、この家族は、外婚制共同体家族の特徴たる家内暴力と怨恨を表に現わすことがない。それは、息が詰まる、うっとうしいものとして体験されるようであるが、同時に、しかもとりわけ、温かく安心できるものとして体験されるように思われる。内婚がその周りに組織されている中心的な絆は、父と息子の関係の縦型の絆ではもはやなく、兄弟の連帯の横の絆なのである。ある意味では、兄弟間の関係の優位は、父親と息子の絆以上に、十全に発展した1つの父系制イデオロギーを前提とする」669頁
「〈西トルコとイラン中心部における核家族的傾向〉…
トルコとイランという中東の2つの国家的な極は…家族構造の核家族性という要素と、父系親族の脆弱さという要素とに、それぞれ合致するのである。政治人類学の観点からすれば、それはきわめて正常なことに他ならない。父系にして共同体的にして内婚制の親族システムの力が強かったということが、中東における国家の台頭に対する主たる障害の1つであったし、いまでも依然としてあり続けている。官僚的組織編成というものは、己の支配空間の住人すべてを、非人格的かつ同等な態度で扱わなくてはならない。中央部的アラブ圏では、兄弟とイトコたちの横の連帯が、官僚機構の台頭に抵抗し、その中に入り込み、浸透し、遂には麻痺させてしまう。権力は、そこではしばしば、1つのクランの所有物、もしくは親族によって構造化された少数派的集団の所有物にすぎない。…国家の発達は、家族が核家族であって、親族が未分化的で選択可能であるがゆえに拘束性を持たず、とりわけ解体が容易であるところにおいて、より自然なのである」679-80頁
「フランスとイギリスという、西欧で最初に中央集権化された2つの国家は…核家族地域の中に地理的な土台を見出した。より複合的な家族システムによって構造化されているドイツとイタリアは、統一的で中央集権的な国家システムを作り出すのがより困難であった。とはいえイタリアには例外が1つあって、それがこの規則を証明している。すなわちナポリ王国である。この王国は、半島唯一の大きな国家であり、まさにイタリア・システムの中の核家族的・双方制的な地帯に設営された。スペインの統一は、ある意味では、一度として完了したためしはないが、スペインの政治的中枢たるカスティーリャはまさに核家族的である。とはいえ私は、西ヨーロッパの核家族核家族類型は、『概念的な直系家族空間』の中で、部分的には直系家族の諸価値への反動として生まれたことを強調した。…
…中東において、国家の台頭がより進んだのは、核家族的基層が観察される、もしくは予感させるところにおいてである。当初の官僚組織が、トルコにおいては軍事的なものであり、イランでは宗教的なものであった…トルコの軍隊とシーア派の聖職者組織は、国家や教会よりも親族ネットワークによって特筆すべきものであるイスラム世界において、特筆すべき2つの例外となっているのである」680頁
「とはいえ、核家族が国家の出現にとって不可欠な条件であると主張するなら、それは馬鹿げているということになろう。中国にもロシアにも核家族は見当たらないのであるから。国家の台頭は、いくつかの特殊な人類学的形態によって促進されるが、それらの人類学的形態は、多様であり得る。そういうわけで、国家と核家族の相互補完性というものが感じられる。しかし、もう1つ別のタイプの国家と外婚型共同体家族の間には、また別の相互補完性が存在するのである。外婚制共同体家族は、隷属的で平等な個人を生み出す。これだけでも、官僚制的ポテンシャルとしては、すでになかなかのものである。
私がここで喚起しているのは、核家族なり外婚型共同体家族を国家へと至らせる因果関係ではない。特定の時点における機能的関係である」681頁
「〈砂漠 内婚のベドウィン・モデル〉…
…起源的アラブ社会の理想型であるベドウィン人モデル…統計データは不完全であるが、中東におけるイトコ婚の頻度は、任意のある地域において、近隣に居住する定住民集団よりも遊牧民集団の方が高いようである。内婚の標準的な漸増のありさまというのは、都市から農村世界に移るときに、まず最初の増加があり、次いで遊牧民に達したときに、2度目の増加がある、というものである。内婚はアラビア、シリア、イラクにおいて最大限に達するわけだが、その全般的な地理的分布は、砂漠を中心としている、というか、より正確に言うなら、砂漠の外縁をなす乾燥したステップを中心としている。それはベドウィン人たちが行き来する道に他ならない」691頁
「〈家族類型の最初の歴史的解釈〉
中東のケースにおいては、周縁地域の保守傾向の原則は直ちに適用されるように思われる。…定住民集団の核家族類型(一時的同居あるいは近接居住を伴う)は周縁部に存在する。母方居住、末子相続、長子相続、残留型ないし手つかずで元のままの外婚制、こうしたものの痕跡もやはり周縁部に存在する。
こうした地理的分布から引き出せる主たる結論を要約すると、以下のようになる。
——起源的家族類型は核家族であったに違いない。
——中国や北インドと同様に、長子相続制が、兄弟間の平等に先行して行なわれていた可能性がある。
——父系原則は、この地域のどこかに位置する中心から周囲に広がった。
——内婚もまた、この地域に属するある中心から周囲に広がった革新であった。
家族形態のこの一覧を通覧して感じたのは,キリスト教諸教会やシーア派ら派生したイスラム教のさまざまな変種という少数派宗教と、残留型家族類型との結びつきである」695頁
「中東ではキリスト教の残滓が周縁部の孤立地帯を占めているのも、あまり驚くことではない。イスラムは、この地帯に遅れて起こった革新であり、1つの中心点から、征服によって周囲に拡散していったのである。…要するに、キリスト教が古代的(アルカイック)家族形態に結びついているのは、当たり前なのである。
シーア派と周縁部という概念との連合はより興味深い。いま検討した地理的ならびに家族絡みのデータは、シーア派とは、スンニ派イスラムと比べて革新者的なものと見なされるべきではなく、何らかの仕方で保守者的なものと見なされるべきだ、ということを強烈に示唆している。…シーア派とはとりわけ、古い人類学的要素に固執した住民集団の中で成功した、もしくは生き延びたものなのだ」696頁
「中東の例外的な父系制の強さは、それだけでも、数千年に及ぶ規模を喚起する。ところがイスラムというのは近年の現象であり、この宗教が中東に出現したとき、アラブ圏は最大限の父系制の地帯であったわけではないのである。…
宗教的要因、つまりイスラムが、父系制の歴史の中でひじょうに重要な役割を果たしたと、何の検証もなしに頭から決めつけるのは、避けなければならない。…ムハンマドの啓示の後の歴史が示しているのは、コーランがアラブの親族システムに重圧をかけることはなかったということである。ムハンマドは部族法から女性を守ろうとした。…ムハンマドの時代のアラブのシステムでは、娘は遺産相続から除外されていた。そこでムハンマドは、コーランの規則の中に娘の留保分を設定することで、娘の地位を改善しようと試みたのである。…
…イスラム圏の歴史の中で、親族システムの固有の力学の方が、コーランの啓示よりも強かった」697-8頁
「中国の家族の典型的なシークエンスの大きな特徴のうちの3つを思い出しておこう。…
1 中国の長子相続制は共通紀元前1100年頃に出現する。それは〈レベル1の父系制〉を含意していた。この父系制の程度を測定することはできないが、15から30%の母方居住権を存続させていたはずである。
2 この穏健な父系原則は、おそらくステップの遊牧民たちに伝えられたと思われる。彼らは兄弟たちに同等の役割を与えて、この原則を対称化した。その後、その反動が中国を襲う。いまや父系の対称性の観念を担うことになったこれら遊牧民に侵略されたのである。長子相続制と中国直系家族の上に遊牧民の対称性が張り付くと、共同体家族という複合的なシステムが生まれることになった。共通紀元前200から100年ころ、中国は、この父方居住共同体家族によって、〈レベル2の父系制〉に到達した。これは、母方居住婚には実際上敵対的で、おそらく95%を超える父方居住率の出現へと至るのである。…
3 これに次いで、中国において、女性のステータスの漸進的な低下が観察され、やがて〈レベル3の父系制〉に至る。このレベルは、共通紀元900から950年ころに、中国女性たちの纒足の慣習という兆候に行き着くのである」705-6頁
「ローマ人も外婚であった。これは、本来なら一言触れるだけで済む話だったのだが、ジャック・グッディーが、ローマはもともと内婚制だったが、後に教会によって外婚に転換させられたという説を案出したいという欲求にかられてしまったために、ことは厄介になった。…ブレント・ショーとリチャード・サラー…2人は、ローマではイトコ婚は形式的には禁止されていなかったが、滅多に実践されなかったと指摘している。…おそらく外婚制は、レヴィ=ストロースが考えていたのとは逆に、文化的なものというよりも自然的なものであり、それゆえ文言化される必要がないのである」633-4頁