新しいものを表示

「ギリシャの家族の歴史の特徴たる不連続制[ママ]を説明したいと思うならば、本質的な要素はおそらく、ユスティニアヌスの平等主義核家族モデルの存在が長い間続いたことである。ビザンツの歴史が終わったのは、1453年のことにすぎない。これは、ローマ帝国末に成熟期を迎えた双方家族のイメージの優位が10世紀近くも続いたことを意味するのである」487頁

スレッドを表示

「〈ヨーロッパにおける古代の父系制から近年の父系制へ 全般的図式〉
 ヨーロッパへの父系制の伝播はきわめて部分的なものであった。…それは以下の4つの段階を含むものとなる。出発点は未分化状態、次いで、地中海への父系制の最初の到来、この最初の地中海の極の自己破壊、そしてヨーロッパのステップからやって来た父系制の新たな波の到来である。
 初めは、他の地域と同じように、ヨーロッパでも未分化のシステムが支配的であった。それは核家族とこの核家族を包含する親族集団を組み合わせたものと想像することができる」486頁

スレッドを表示

「ローマ法のユスティニアヌスによる変動は、平等主義核家族の出生証明であるとさえ言いたくなる。…晩期ローマが平等主義核家族にとって原型となっているという仮説は正しいだろう。
 この最終的な形式化は6世紀にビザンティウムで行なわれた。しかし本当のターニングポイント、つまり父系的家族観から双方的家族ヴィジョンへと移る転換点は、はるかに早い時期に位置づけられなければならない。早くも共通紀元前2世紀」479頁

スレッドを表示

「〈帝国期の変動 核家族の新たな類型〉
 ローマの家族の歴史の標準的な姿というものは、最近まで、複合性から核家族性への、また権威主義から個人主義への粛々と進む前進という、ラスレット革命以前の家族の世界史の姿を凝縮したものに類似していた。ゲンス〔クラン〕が、ついでファミリア〔家門〕が、姿を消して行き、後期ローマ帝国時代には核家族に席を譲った、というわけである。この図式は、核家族性への逆行という図式と両立し得ることを、指摘しておこう。重要な差異は…伝統的な図式はも、ともに強力な父系制と複合性から出発していたという点である。
 この古典的な進化論的ヴィジョンに対して…ローマの家族がより核家族的であると考えるサラーは、不変説へと向かうヴィジョンを対置する」476-7頁

スレッドを表示

「双方向性と核家族性への逆行は、2つの要因で説明がつく。まずローマの父系制が当初は脆弱であったことと、世帯の次元で稠密な父方居住共同体主義が不在であったこと。次いで、ローマが、蛮族の地か否かを問わず、女性のステータスの高さを特徴とする広大な空間を征服したこと。この空間は、西ヨーロッパだけでなく…エジプトも含む。敗れた者が破った者に作用を及ぼしたのだ」476頁

スレッドを表示

「〈ローマの進化の理論上の重要性〉
…分析を進めると、いくつかの歴史的変動の可逆性が浮き彫りになってくる。父系制の推進力が、微妙な差異に富んだ、時には局地的に偶然的な姿を見せるに至るのである。…父系制が今日でも、中国南部とインド南部において、いわゆる西洋的な近代化の外見を超えて、前進し続けている…日本のケースは、実質的な進化の例を提供してくれた。しかしその進化は、直系家族段階、すなわち息子がいない場合に娘による相続をつねに認める〈レベル1の父系制〉の段階で停止した。東南アジアの最大部分では、父系原則は、家族の母方居住反動、そして時には親族システムの母系反動を生み出したにすぎない。フイリピン人は長い距離と海とに守られて、起源的未分化状態からのいかなる変化をも免れた。
 父系制の作用は、全面的か部分的か、反動的か、もしくはゼロであるにしても、いずれにせよ不可逆的であるとこれまで思われてきた。これまでに研究されたケースは、つねに双処居住から単線性へと向かうものであった。ところがローマ帝国については、明瞭な逆行を経験することになるのだ。すなわち、親族に関しては、父系制から双方制へ、家族構造に関しては、複合性から核家族性への逆行である」475頁

スレッドを表示

「ゲンスはパトリキの制度であった。だからあらゆる時代を通じて、貴族階級の家族よりも平民の家族の方が核家族的で、夫婦の絆が強く、女性尊重的であったとする仮説を立てても大胆過ぎるようには見えない」466頁

スレッドを表示

「リチャード・サラー…ローマ人の心情や実践の中に、紛れもない夫婦家族が存在することを、掘り出してみせたのである。世帯の構造化に関しては、複数の夫婦単位の同居はまれで、正常でないとみなしている。彼によれば、法学者たちは、共和政時代の者も含めて、既婚の兄弟同士もしくは父親と既婚の息子を連合させる合同世帯(joint household)の可能性を排除していた、という。…きわめてラスレット的な核家族への選好の痕跡」464頁

スレッドを表示

「〈古典期のローマの家族〉
 ローマの場合にも、拡大の形態と家族の形態との間に関係があると仮定することができる…ローマの軍事的で系統的な領土拡大は、父系のクランに他ならないゲンスの存在の結果である。ゲンスは、左右対称化されており、兄弟とイトコが左右対称の位置を占めている。ローマのゲンスは、モンゴルのクランと同じように、戦争と征服にうってつけの制度であった。
 …ローマには長子相続権は存在しなかった。十二表法は、いずれも相続者である兄弟の間に区別を設けていなかった」462頁

スレッドを表示

「18世紀から20世紀までのヨーロッパの父系制は、ユーラシア大陸の中心部全体を含む地帯の西の先端として姿を現わすが、共通紀元前5、4世紀の父系制は、中東を中心とする地帯の西の端として姿を現わす。不一致は大きい。
 ギリシャとイタリア南部は、父系制の古代の分布地図に姿を見せている。しかしギリシャ島嶼部は今日では明らかに母方居住として姿を現わし、イタリア南部は双処居住として姿を現わしている」458頁

スレッドを表示

「〈アジアの父系制の影〉
 ヨーロッパの父系制空間の中では、共同体家族地帯と一時的同居もしくは近接居住を伴う核家族地帯が交互に存在し、また女性のステータスの低下がさまざまなレベルで分布している…
 父方居住は、アジアの父系制に連続する形で、〔ヨーロッパ〕大陸の東部に分布しているわけだが、これからしても、伝播のメカニズムが存在していることにはいかなる疑念の余地もない。とはいえこのメカニズムは、西および中央ヨーロッパの核家族空間と直系家族空間に到達するには至らなかった」453-4頁

スレッドを表示

「ロシアの家族は、フィンランドではなく、バルト諸国に近付くにつれて、最も明瞭に共同体家族として姿を現わすと結論づけることができる」436頁

スレッドを表示

「ロシアでは家庭集団の父系制は女性のステータスの根本的低下を引き起こさなかった。父系制は〈レベル2〉を超えることは決してなかったのである」435頁

スレッドを表示

「父系制の空間に、私は父方居住の直系家族を入れなかった。この選択は逆説的と見えるかもしれない。なぜならの直系家族の父方居住の比率は、全体的に見て一時的父方同居を伴う核家族における比率よりも低いわけではないからである。私は特に…父方居住の直系家族をどうやら父系原則の起源らしいと考えていた。では、何故、ヨーロッパでは、直系家族を共同体的形態、ならびに一時的父方同居を伴う核家族的形態に結びつけないのか。それはごく単純に、父系制が地理的に1つにまとまっており、その原因は、〔直系家族から父系原則へというのとは〕別の切り離された歴史的シークエンスに求められなければならない、という理由からである。…家族形態の地理的分布から分かることは、ヨーロッパの直系家族は内因的生産物であり、それは東および南を通った父系制の伝播のメカニズムとは、その主要部分において、無関係であったということである」432頁

スレッドを表示

「父系制は、4つの異なった軸にそってヨーロッパに作用を及ぼしている。
 1 中東の父系制が古典古代の全期間を通じて、地中海の東から西への軸に沿って広がり、ギリシャ、次いでローマに到達した。
 2 共通紀元5世紀のフン人の侵入は、ステップの遊牧民の父系原則——おそらく中国起源——の到来をもたらした。この侵入も東西の軸にしたがって行なわれたが、はるかに北方で行なわれた。それに続いて、同様の侵入が数波にわたって行なわれたが、その最後のものは13世紀のモンゴル人の侵入である。
 3 アラブの父系制は、ギリシャ人とローマ人のものと同じく中東に由来するが、7世紀から南を経由して、スペインと地中海西部の諸島嶼に達した。
 4 トルコ人の侵入は、15世紀から始まり、南東から北西への軸に沿って進んだが、これが父系制の4番目の勢力伸長にほかならない。
 全体としてみれば、父系制の勢力伸長は、東からの波動という形で押し寄せ、時には南に中継されている。ヨーロッパの北西部に最も核家族的にして最も女性尊重的な家族システムが存在するのは、理の当然と言えるのである」424-5頁

スレッドを表示

「初期の農業は粗放・移動型のものであった。耕作適合地域の安定化には、数千年を要することになろう。西ヨーロッパについては、この安定化が完成するのは、10世紀から13世紀の農業の拡大の終了の時であると考えることができる。14世紀前半には西ヨーロッパには、ピエール・ショーニュが〈満員の世界〉と定義した段階に到達する」423頁

スレッドを表示

「フランス、イタリア、スペインもしくはポルトガルの平等主義核家族は、かなり長い歴史の結果である。平等主義核家族は、ローマの家族の歴史を知らなければ理解することができない。それは古代性(アルカイズム)と近代性の精緻な組み合わせの結果である。イングランドの絶対核家族についても同じことが言える。この2つのケースでは、純粋な核家族的特徴が、次のような複合的形態との相互作用から生じていることを確認することになろう。すなわち、平等主義核家族の場合は、ローマの父系共同体的形態、イングランドの場合はフランス・ノルマン貴族によって持ち込まれた直系家族である」422頁

スレッドを表示

「ヨーロッパにおける直系家族の歴史は、中国に2000年の遅れをとっている…ヨーロッパのケースは日本のケースにかなり似通っているが、遥かに規模が大きい。ヨーロッパの多様性は、日出ずる国のそれより比較にならないほど大きいのである」421頁

スレッドを表示

「ユーラシア大陸の最西端部をなす複雑に入り組んだこの半島[ヨーロッパ]には、古代的(アルカイック)家族形態のかなり見事な見本集を観察することができるのである。しかしながら全般的に言って、この地域に家族の起源的形態を見いだすことはないだろう。内因的な原因によるにせよ、のちに父系原則が到来したことで誘発されたにせよ、ともかく変化が起こることは起こった。しかし、こうした変化は、本書で研究している進行過程の尺度からすれば、近年のこととなる。直系家族の例は特徴的である。中国の場合には、共通紀元前1100年頃に、長子相続の原則が貴族階級の中に出現した、と私は述べている。…これとほぼ同様の男性長子相続がヨーロッパに出現した。…フランク人の貴族階級における長子相続の出現は、10世紀末に遡る。…直系家族という人類学的類型の前進…これは耕作適合地の人口密度の上昇という内因的必然性の結果であると同時に、威信効果による伝播運動の結果でもある。…彼[ディオニジ・アルベラ]の研究によれば、それがアルプス地方に到達したのは16、17世紀のことだという。これよりもさらに時代は下るが、19世紀後半のアイルランドにおいて、1845年から1851年の大飢饉の後に、遺産分割の慣習が放棄され、男性長子相続が定着するようになった」420-1頁

スレッドを表示

「〈家族と人口密度〉
…中国、日本、北インドの場合、父方居住直系家族と人口密度の増加との間に機能的関係があるかどうか、私は先に自問したものである。全面的に操作が行き届いた〈満員の世界〉の実現が、長子相続という相続が浮上するための好適な枠組みをなしていると、示唆したことがあった。新たに開拓すべき土地の欠如は、やがて、長男を両親の農地に押し止め、農業実践を集約化することに立ち至る。そうなると今度は、父方居住直系家族が、その効率性によって農村の人口密度の追加的増加を促すことになった。とはいえ、いかなる厳密な因果関係も確証されておらず、私はまた人口稠密化とは無関係な直系家族観念の伝播の可能性も喚起したものである」379頁

スレッドを表示
古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。