「〈ル・プレイの類型以外の類型〉
これまでに記述された3つの家族類型(平等主義核家族、直系家族、絶対核家族)は、共通して高レベルの形式化に達している。これらの家族類型を構造化しているのは、核家族性か同居か、平等か不平等か、それとも遺言を行なう絶対的自由か、といった規則である。ル・プレイは、これらの規範を特定することによって、自分の類型体系を築き上げることができた。しかしまぎれもない周縁部的な古代的形態(アルカイズム)の保存庫にほかならないヨーロッパは、ル・プレイによってリストアップされていない形態を観察することもまた可能にしてくれる。…昔のシステムの残滓を見いだすのは、周縁地域の保守性という分析観点からすればまったく正常なことなのである」553-4頁
(承前)「したがって平等主義核家族地帯と同じく絶対核家族地帯において、家族の核家族としての完璧性と農地の集中との間の連合が見出されるのは、意外なことではない。とはいえ大規模農業経営と核家族との相互補完性を強調するからといって、経済的決定の観念に賛同していることには、いささかもならない。農地の集中はたいていの場合、経済的近代化の過程の結果として出現するのではなく、ひじょうに古いかもしれず、もしかしたら社会が成立したとき以来であるかもしれない歴史に由来する構造的要素として姿を見せるのである。このことは、カウツキーが気付いたことであったが、マルクスはそれに気付かなかった。私は『新ヨーロッパ大全』で、中世の大領地と近代の大規模経営との間に存在する連続性を分析した。…
…イングランドのケースでは、17、18世紀のエンクロージャーの動きが、貧しい農民が持つ共同体内の権利を清算することによって、それまでにすでに二極化していた農村の形態を完成させた。しかしエンクロージャーの分布図それ自体、中世の大領地の分布図と合致していたのである」550-1頁
「工業化以前の社会保障も、世帯の純粋な核家族的構造も、平等主義的核家族のケースで、支配的ではあるが排他的ではないものとしてわれわれが出会った、大規模農業経営がなかったなら、考えられなかっただろう。確かに核家族は他の形で機能することもあるだろうが、次のようなことは確実である。すなわち、農業賃金労働は、昔の農村の枠内では、一般的に小さな家と、庭と、多少の家畜、それに共同体の土地での入会地放牧権と落ち穂拾いの権利の所有を随伴するが、ここの賃金労働は両親と子供の分離を可能にするということである。賃金労働が老人を助けることがあるとしても、それは副次的なことにすぎない。一方、賃金労働のおかげで、若者は使用人として働くことで資産を蓄積することができ、次いで両親から独立して収入を得ることができるようになる。イングランドでは大農民の息子たちも他の大農民の家に使用人として送り出されていた。こうしたセンディング・アウト〔送り出し〕の慣行は、純粋に経済的な面ではまったく正当化されるものではなかったが、これなくしては農村上流階級における絶対核家族の作動は、考えられないのである」550頁→
「絶対核家族——もっとも平等主義核家族もだが——は、いかなる人類学的・社会的実体もない空虚の中で、それだけがひとりでに機能することができると思い込むのは、大きな誤りであろう。絶対核家族は、起源的家族を囲い込んでいた双方的親族集団を脱ぎ捨てて、一時的同居および末子による高齢の両親の世話という実用的慣行を捨て去って——いずれにせよイングランド中心部では——、純粋なものとなったわけだが、これらの要素に代わる代替メカニズムに頼る必要が生じる。ケンブリッジ学派はもちろん、家族の超個人主義によって生み出された具体的な困難が、いかにして管理され得たかということを、思料した。…現地の共同体の機能の仕方…その重要性は、広範な親族関係の役割が減少するにつれて増大するのである。16世紀から19世紀までのイングランドの特徴の1つはまさしく、小教区の扶助と拘束の役割が、国家に依拠しつつ、早期に制度化されたことである。これはおそらくヨーロッパでも唯一無比の事例である」549頁
「長子相続制度は、最後はドイツ語圏を支配することになり、イングランドにも影響を及ぼしたが、生まれたのはフランスにおいてである。この革新はカペー朝初期に、パリ盆地のフランス貴族もしくはフランス・ノルマン貴族のもとで始まった。…本書の全篇を通じて一貫するテーマの1つは、人類学においては、ある概念とその反対概念とは相対的に近接しているということである。例えば、父系制と母系制については、そのそれぞれが未分化性に対して持つ距離よりも、互いの間の距離の方が近いのである。家族生活に関しては、権威と自由、あるいは平等と不平等についても同じことが言える。権威と自由の2つはともに、世代間の実践的相互作用が不明確な状況というものに対立する。平等と不平等は両方とも、個人を互いにランク付けすることに対する無関心というものと区別されるのである。分析がここまで来ると、未分化性の概念を以下のように一般化することができる。すなわちこの概念は、父方親族と母方親族、自由と権威、平等と不平等の間に打ち立てられる区別がいずれも存在しないということを含む、と」520頁
「ギリシャは多数の都市国家に細分化されていたために、アテネの勢力伸長以前の、女性のステータスの高さの痕跡を観察することができる。…スパルタの女性のステータスは、古典時代には文化的常識であり、スパルタが古代的(アルカイック)であることの印と解釈されていた。アテネあるいはローマの父系制を、インド・ヨーロッパ語族全体に共通した古代的(アルカイック)状態の残滓として提示するというのは、実のところ、歴史的な良識がかなり欠けているところを曝け出すことなのだ。なぜならアテネとローマは、まずは類型に収まらない都市国家であり、その後、歴史的成功を収め、伝統の保守よりもむしろ革新[父系革新?]の場となったのだからである」511頁
「<幻想2——インド・ヨーロッパ父系制>…
最初は父系制であったとする仮説は、家族構造が複合的なものから単純なものへと進化するという仮説と容易に組み合わされる。メインはインド・ヨーロッパ語族が過去において父系制であったと想像した時に、彼は北部インドの〈ジョイント・ファミリー〉を念頭に置いている。彼はそれを古代的(アルカイック)なものと考えたが、これはその時代のヨーロッパのすべての学者たちが、核家族とは近代の獲得物であると想像していたのと同じ考え方に他ならない。…インド・ヨーロッパ語族という幻想は、歴史社会学の〔父系制という〕この常識に調和的に統合されていたのである。
父系制の仮説それ自体は、本来的には母系制の幻想と矛盾するものではない。ギリシャ人は文明化された家父長制という理想が、家母長制の後に現われたと想像していた。この両概念の両立が難しくなったのは、インド・ヨーロッパ語族という仮説が付け加えられたからである。なぜならそれによって、父系制ははるか以前の過去のものとなってしまい、〔起源的過去のものとされていた〕母系制の幻想が処理不可能になってしまうからである」510頁
「母系制は北アメリカのすべてのインディアン住民の特徴というけではまったくなかった。北アメリカには多数の家族システムの変種が共存していたのである。しかし親族名称分析によって、実際に人類学の歴史に革新をもたらした重要人物であるモーガンが母系制を主張したとなると、もう取り返しがつかなかった。…この理論はいまや成熟し、中国人類学に影響を与えることになる。中国人類学の方は、婦人覇権的幻想を語る己自身の古典的著作を再発見することになるのである。円環は閉じられた。ギリシャ民族誌学者と中国のマルクス主義者は、同じ父系制の社会の出身であり、時間的・空間的に遠く離れているにもかかわらず、容易に意見の一致点を見いだすことができたわけである。過去において、母系制、母方居住、家母長制、等々が支配していたという一致点を」506-7頁
「現在の母系制社会と未分化社会の現実を観察した者にとってはまったく単純なある事実…女性のステータスは、実際は母系制社会よりも未分化社会の親族システムにおける方が高いのである。この真理は、母系制システム…が、征服的な父系制に対する反動にすぎないことを理解すれば、より容易に認められるようになる。女性がステータスと財産の継承の主体になったとしても、女性が未分化システムにおけるよりも支配的であるということにはならない。未分化状態では女性は単に男性と同じように自由に配偶者を選ぶことができる。母系制の下では、女性のステータスは、父系の組織編成におけるよりも当然高くなる。しかし女性はもはやシステムの中の1つの要素に過ぎないのであるから、そのステータスは、未分化の世界の中で占めていた位置と比べれば、自立性が減少したものとなるのである。母系制システムでの女性の中心性というものには、夫が平均して妻より10歳年上であるというような、きわめて大きな夫婦間の年齢差が伴う場合がある。要するに、未分化システムの特徴たる夫婦間の年齢の相対的同等性というものとは、大分異なるのである」505-6頁
「<幻想1——起源的母系制>
…母系制の罠は、ギリシャ人の民族誌学者によって仕掛けられたものである。彼らは女性のステータスを著しく低下させた父系世界の出身で、女性の自立性を示すいかなる印をも系統的に母系制の証拠あるいは痕跡と解釈した。ギリシャ語の専門用語を用いるなら、〈家母長制〉(matriarcat)とか〈婦人覇権〉(gynécocratie)ということになるが、ここでは母系制とのみ言っておこう。…この罠は人文科学の歴史の最大の誤りの1つ、意味を持たない文書を大量に生産する、まさに精神の墓場となっていった。…
1861年に出版されたバッハオーフェンの大著『母権制(Das Mutterrechit)』は、あらゆる誤りの生みの親とみなすことができる。…中国の民族誌学者たちはギリシャの民族誌学者と全く同じように父系制的精神を持っており、したがってわれわれにチベットとインド北部に存在する女性国家の存在と歴史に関する『証言』を残している。バーゼルのエリートたるバッハオーフェンは、ギリシャ人と中国人のように、父系制は文明のより進んだ局面として家母長制の後に出現した、と明らかに信じていた」504-5頁
「共同体家族の2つの変異体を区別すべきではなかろうか。1つは縦軸によって支配されたもので、もう1つは横軸によって支配されたものである。家族構造によってイデオロギーが決定されることを論じた私のこれまでの著作の問題系を再び取り上げるならば、縦型の傾向が見られる共同体家族と横型の傾向が見られる共同体家族を区別することによって、セルビアならびにイタリアの共産主義とロシアの共産主義との間に存在する重要な差異を理解することができるはずであると、認めなければならない。ロシアのボリシェヴィズムの厳格さとイタリアおよびユーゴスラヴィアの共産主義の柔軟性との間の対比は、第3インターナショナルの歴史の決まり文句であった」。おそらくこれはグラムシ…の柔軟性とユーゴスラヴィアの自主管理の起源に他ならないのである」503-4頁
「すでに中国のケースを検討した時から、父方居住で外婚制の共同体家族というものが、どれほど自然なものではなく、個人にとって拘束的なシステムであったかを、私は強調している。私の解釈では、この家族の出現には特別な条件が必要であった。中国では、まず定住民の間で父方居住直系家族が出現し、次いで北方の遊牧民に萌芽状態の父系原則が伝達され、この原則がステップにおいて対称化され、最後にそれが中国を征服することによって帰還を果たすという複雑な過程があった。ステップのクランの父系制的対称性が、中国の父方居住の直系家族の上に上塗りされることによって、父方居住の共同体家族の出現が可能となったというわけである。このモデルを私はインド北部に適用することができた」500-1頁
社会学と誤用進化論😅を中心に読書記録をしてをります
(今はストーン『家族・性・結婚の社会史』1977年)
背景写真はボルネオのジャングルで見た野生のメガネザル
https://researchmap.jp/MasatoOnoue/