新しいものを表示

「高次段階の特性と作用は、<分離して得た>成分の特性と作用をいくら寄せ集めても、説明できない。だが別々の成分の<総体>を知り、<成分の間になりたつ関係>を知れば、高次段階はその成分から導きだせる。
…個々の部分の条件をきめ、全システムの境界条件を規定すれば、全システム中の分配が《部分から》導きだせるのである。
…システムを知るには《部分》同様、部分の間になりたつ《関係》をも知らねばならぬことや、どのシステムも一つの《全体》であり《ゲシュタルト》…を表わしていることは、わかりきっている。このようなことが生物学分野で問題にもなり、必要な議論の緒にもなるのは、生物学がいわゆる機械論の仮定を誤って適用し、一方的に《部分》ばかりを気にして《部分の間の関係》をなおざりにしたからなのである。…
 いわゆる力学的世界像が物理学と生物学で基礎概念としていたのは、一度つくった一組の法則から自然現象がのこらず導きだせる、ということであった。ラプラスの理念がこれであった。…
…実在論の意味では、つぎのようにいえるのではなかろうか。どのシステムも<潜在的には>より高次の力を潜めているが、システムがもっと高次の構成にはいりこむときまったとき、はじめてこれが作用をおこす」156-8頁

スレッドを表示

「《全体は部分の総和以上である》、全体は部分に対して《新しい》特性と関係とを示すとの命題。存在の高次の段階は低次のものへ《還元され》うるかという問。これが《全体性的(synholistisch)》理論すべての核心をなす」155頁

スレッドを表示

「エントロピー命題によると、現象は秩序の度合が下がるほうへと向かってゆくのであるが、生きているものの中では、より高度の秩序へと移行が行なわれている。そこでヴォルテレックは《非空間的な内的生命》の《指導衝動》をもちだす。これに対して開放系は、まったく新しい観点を提唱する。この種のシステムではエントロピーも無秩序性もともに極大になる必要はおこらず、熱力学的平衡によって過程が停止する必要もまたない。自発的な秩序、さらに秩序の高まりさえ、現われてよいのである。もう一つの要素としては、遺伝子や染色体が分割しながらも《そっくりもとのまま》でいるという、同型複写が問題となる。ドリーシュはこれが《第2の生気論の論拠》だと考えた。だがこの現象も、定常状態にあるシステムとしての生体の特性からみれば、もっともなことにすぎない。しまいに、ドリーシュの《第3の生気論の論拠》は《行動》と《反応の歴史的な基礎》にもとづいている。これも、神経系の活動を動的に解釈する…ことと結びつくところの、記憶のシステム理論…をもってすれば説明できそうである」153-4頁

スレッドを表示

「目的指向性は生命のきわだった特徴で、その本質は生気論的にしか説明できないと思われていたが、これも生物の特有なシステム状態からでてきた必然的な結果だ…つまり、開放系としての特性が生んだ結果なのである。
…見かけ上物理的法則性に反するため《生気論の論拠》とされてきた要素も、開放系の理論の中では、あざやかにでてくることが、ことに注目すべき点である。ドリーシュの《生気論の第1の論拠》であった等結果性は、開放系の現象として当然の結果なのである。代謝の自己調整や、無数の反応の相互作用で細胞が維持されたえず更新されることは、エンテレキー因子の導きだとばかり思いこまされてきた…のであったが…原理的には開放系の原理から了解できる。…シュレディンガーのいうごとく、生物体は、無秩序の原理から統計的に生ずるところの熱力学的法則性できまるシステムではありえない。…けれどシュレディンガーは、生物が《仕組み》だとか《時計仕掛け》だとか考えるだけでは不十分だということを、じつはよく感づいて[ママ]いた…ので、《原子の運動を監督する》『私』というものを持出すほかなかったのである」152頁

スレッドを表示

「ドリーシュが生気論の証明とみなしたあの実験にもう一度たち帰れば、彼のウニの実験の注目すべき結果は、等結果性(Äquifinalität)の概念で説明される。エクウス(aequus)は等しいこと、フィニス(finis)は結果である。等結果的な現象とは違った初期条件・道すじを通って同じ最終目標に到着することである。ある種の例外を別とすれば、物理現象には等結果性はみられない。…等結果性は、生きているものの中でおこる現象の重要な基本特徴をなす。…
 開放系の行動を解析すると…閉鎖系は等結果的にふるまえないことがわかる。なぜ等結果性が無機の世界一般にみいだせないかの理由はここにある。これに対し、周囲と物質交代をする開放系では、システムが定常状態に達しているかぎり、この状態は初期条件と無関係、つまり等結果的である。等結果性は、定常状態に向いている開放系においては、現象の必然的、合法則的な帰結である。開放系の中では、止まることのない流入と流出、構成と崩壊がおきている。…最終の状態は初めの条件によるのではなく、いまいった関係を支配するシステムの条件によるだけなのである」150-1頁

スレッドを表示

「生物体の構造は静止的ではありえず、むしろ動的だと判断されねばならない。…
 生物体の巨視的構造に対しても、原理的には同じことである。巨視的構造のうちで最後までのこるのは、静止している構造ではなく、定常的過程の法則のほうだ。
 生物体を現象の流れの現われとして見ることから生まれる結論は、まことに深いものがある。それは《動的形態学》(フォン・ベルタランフィ)に導く。動的形態学とは、定常的法則によって支配される力の働きから、生物の形態を導きだそうというもので、このゆきかたによれば、代謝・生長および形態形成の領域を連合させうる。
 生物の根本の謎の一つは生長であり、生長できるという能力の中にこそ、人は生命の中心的な秘密をみてきた。…開放系として生物体を扱うというやりかたを使えば、正確な<生物生長の理論>を発展できるし、この理論は、生物の生長という基本現象に、説明と法則性を与えてくれる」144-5頁

スレッドを表示

「長いこと、生物学は2つの大分野に分かれてきた。一つは生物の形態・構造の理論である。…いま一つは代謝・行動・形態形成の中において生命の特性的過程を研究する生理学。この2分野への分裂は、技術的方法論にも思考上の方法論にも関係があり、必然的なものだった。だが形態学と生理学はそれ自体としては単一な対象を研究するための違った、そして補足しあう二道なのである。
 <構造>と<機能>、<形態学>と<生理学>を対置することは、生物を静止的に把握するところからくる。…しかし生きている生物に対して既製の構造と、この結果としておこる過程とを分離するのは間違っている。生物はたえずつづく過程の表現であり、この過程はその基礎をなす構造や組織化された形態によって支えられている。形態学が、形態ならびに構造として確認するものは、実は時空的な現象の流れの一横断面なのだ。
 構造とは、私たち人間の尺度で測って長期にわたる緩慢な過程の波である。機能とは、これに対して短く急激な過程の波である。…
 生物体の姿は秩序ある現象の流れの中で維持されている。このばあい、いつでもすぐ下のシステムが交代する中で、より高次のシステムは固定しているように見える」142-3頁

スレッドを表示

「システムとしての生物体——精密生物学の基盤
…開放系の説は、将来の<生体エネルギー論>の基盤にならねばならぬ。…生物を作りあげている化合物のふくむ化学エネルギーも、もし化合物たちが化学平衡にあれば、転用できない。けれども生物体は定常状態にあるシステムであって、その中では真の平衡にむかってたえず反応が進みつつある。…
…生物体が定常状態にあるシステムとすると、真の平衡との間隔を保ってゆくために、たえずエネルギーを補給する必要が生ずる。したがって生物体は筋や腺・運動その他の多様な活動をするためばかりでなく、定常状態を維持するためにも、エネルギーが必要ということになる。細胞や生物体が行なっているこの<仕事維持>の問題は、生物エネルギー論にとって基本的問題である。開放系の理論は、この問題に必要な原理を与えてくれる…
 生物の代謝の基本問題はその<自己調節>である。生きている生物体では全反応が、結果としてシステムを維持するようにおこっている。これが、生きている生物体と崩れゆく屍体との根本的な区別だ。…自己調節の主要特徴は開放系の一般特性から生ずる結果なのである」140-1頁

スレッドを表示

「刺激を与えることは状態を定常状態から<ずらす>ことを意味しており、生物は平衡状態にもどろうとする。…生物の定常状態はゆっくりと確立しては、ゆるやかに変化していくのである」139-40頁

スレッドを表示

「生物体の定義
…生きている生物体とは、開放系の階層構造を示し、そのシステムの条件にもとづいて構成部分の交代を行うところのものである…
…結晶は、物理学的単位要素(素粒子)にはじまり、原子・分子・さらに結晶格子にいたる階層的体制を示す。だが、構成部分を交代しなから自身を保ってゆくということが、結晶には欠けている。反対に、定常的な水流・炎・定常電流など、生きていないものの定常状態は、交代しながら維持するという要請をたしかに満たしている。だがそこには階層構造が欠けている。…システム自身の中の条件にもとづいて、交代しながら維持されてゆくということは、なんら生気論的なことではない。無生物の中にもこの種のシステムはある」136-8頁

スレッドを表示

へーバー(1926)「生物体の中で私たちがまのあたりにみる化学システムは、長いこと、動いている平衡、力学的平衡とみなされてきた。今日では生物体の動的平衡の問題は、もはや根なし草ではない。大胆な高層建築の要石であり、冠りであると思われている」135-6頁

スレッドを表示

「開放系の説は物理学同様、生物学にも新しい一章を画する。長いこと、生物体は《動的平衡》にあるシステムだといわれてきた。これは、生物が構成部分をたえず交代させ続けていることを表現している。…
 生物システムは定常状態システムで、しかもこの系の反応成分数は莫大なもので、はなはだ複雑である。生物体が開放系だというこの特性こそ、生命現象の前提である。…
 体制の段階構造、開放系としての性質、この両者は生きたものの基本原理である」135頁

スレッドを表示

「開放系理論と開放系中に現われる定常状態の理論が、閉鎖系の反応速度論や平衡に関して物理化学が提供してくれる理論を補わなくてはならない。…
 開放系の理論は<物理学のまったく新しい領域>を開拓した。《第2法則は定義により閉鎖系に対してだけあてはまるが、定常状態を定義するものではない》。…プリコジヌ…『<平衡状態と非平衡状態をともに包括する一般的な理論を設定するため、努力せねばならぬ>』…
…閉鎖系の現象はエントロピー増大によって規定されるが、開放系中の不可逆過程をエントロピーその他の熱力学ポテンシャルで特性づけることはできない。システムのむかう定常状態はむしろエントロピーの最小生産ということによって定義づけられる。ここから革命的な見解がでてくる。開放系が定常状態に移行するさいにはエントロピーが減少し、異質性と複雑さとかより高い状態に自発的に移ってゆけるというのである。生物の胚発生や進化…に見られる多様性の高まりを解釈するには、おそらく右[上]の要素が本質的な重要さをもっていよう」133-4頁

スレッドを表示

(承前)「<物理学的>な立脚点からは、この関係は次のように定義される。生きている生物体は外にむかって閉じられたシステムではなく、<開放系>なのであって、構成素材をたえず外部に与え、また外からうけとる。システムはこのようにたえず交代しつつも、ある<定常状態(すなわち流動平衡)>を保ち、またこの状態へ移行してゆく。
 物理科学はこれまで、もっぱら閉鎖系でおきる過程を扱っていて、反応動力学(分子反応論)、すなわち反応過程の学説に終始した。…生物は全体としては、けっして真の平衡にはない。わりに緩慢な物質交代の過程は、ある定常状態に達するが、定常状態は、流入と流出の状態がたえず一定の差をもつことによって保たれてゆく」132頁

スレッドを表示

(承前)「無生のものと生きた自然物の姿を比べると、本質的な違いが発見される。結晶はいつでも同じ構成部分からできていて、おそらくは百万年をも、結晶はそのままとどこおって動かない。ところが生きものの形態は見かけが止っているだけだ。実は生物は絶えることない現象の流れを示している。生物体は定常的に物質交代しているため、その構成部分は一瞬の間もそのままではない。生物の形態は<ある>(sein)というよりもむしろ<なる>(werden)のだ。生物の形態は、生物体にはいりこみこれを作りあげる物質とエネルギーの、ひき続く流れを現わしている。…
 この恒常的な交代は、生物学的体制のあらゆる段階でみいだされる。…どの有機体も一定の見方から眺めると、不変であり定常的であるが、ある段階では不変とみえることも、すぐ下のシステムがたえず交代し、できあがり、生長し、年とり、死んでゆくことによって支えられている。…
 生物をこうして動的に把握することは、近代生物の最重要な原理に数えられ、この原理から生命の根本的な問題が生まれ、この問題を解明することができる」131-2頁→
福岡伸一的なだけでなく、小林武彦的でもあるなあ…😅

スレッドを表示

「生命の流れ
 《同じ流れに二度とはもどれぬ。水は流れて常に新しいからである》。同時代人が晦冥の人と呼んだヘラクレイトスのこの章句は、古代のほの明るい暁の空から響き出る。ギリシア人にとって、ヘラクレイトスが異端の者と思われたのも無理からぬことであった。ギリシアの世界は動かぬ静謐とよぶアポロ的理念の中に息づいていたのである。…だがヘラクレイトスは永続する力のディオニソス的思考者であり、力学を実在の核心と考えた。かくして彼を彼の同時代人から疎外させたところのものが、彼をかえって私たちには近づける。…ギリシア人にとって、原子とは石工の眼をもって見ることのできる、しっかりした小粒子だった。ところが西方の地の物理学は、原子を力の演出、波動力学の結節点へと溶かしこんでしまった。
 たえず代りあって休みない流れを、ヘラクレイトスはこの世になぞらえた。だが汝をとりまく世界だけでなく——と、ヘラクレイトスもこう言いたかっただろうが——汝それ自身とて瞬時たりとも同じではない。このヘラクレイトス的思考によって、私たちは生命の核心に近づく」130-1頁→

スレッドを表示

「刺激現象と行動の領域では…有機体論の観点が必要であることがとりわけはっきりした。過程がシステム全体に依存することは、分析=加算的な見地に相反する。最初には動的秩序があって機械化がしだいにおこることは、静的構造的=機械理論的な立場と対立する。生命現象において能動性が根本であることは、反応性が第一義的だという観点と矛盾する。
…フォン・ホルストによると、反射は行動の根本をなす基本要素ではなく、根本である自律性を変化する末梢の条件に合わせるための適応なのだ」128-9頁

スレッドを表示

「等質的環境(外部の刺激のないこと)のもとでも、多くの生物の正常な状態は静止ではなくて急速な運動である。この活性は本能行動の中にもみられる。それは、一定の生理的状態においては外からの刺激がなくても一定の運動を行おうとする《衝動》として現われる。
…生物体がはじめから能動的システムであれば、私たちは次のように結論せねばなるまい——刺激(外的条件の変化)は現象を、自身としては静止的なシステムの中でひきおこすのではない。ただ現象を、もともと能動的なシステムの中で修飾変更するにとどまると。この命題から導かれる重大な帰結は、結局生物体の反応には外部の働きかけ、つまり刺激よりもむしろ内部状態、正規状態からの離れかた、心理学でいうところの《要求(欠乏感)》が決定的だということである。実際そのとおりなので、生物はまず刺激によってではなく要求によって、食物・異性等を探し求めるようになる。この《衝動運動》は、ふたたび正常状態が回復するまでずっとつづく。…ブリューゲル(1877)は古典的な命題をだした——《要求の理由は、要求充足の理由である》と。彼はこの言葉によって、生物に特有な霊魂的な目的追求の性質を表現しようとしたのだったが、この命題の中に生気論的なものや霊魂めいたもののことが言われているということにはならない126-7

スレッドを表示

「中枢神経系の中の過程と生物の行動とは、生物学的にも臨床的にもひとしく重要な領域である。この分野においては、新しい発展がおきて有機体論の立場の興隆が、とくにはっきりと示されている」121頁

スレッドを表示

(承前)「生物体は、部分構造・部分過程の交換関係を示す空間的全体物である。空間的システム全体(単なる因果の連鎖ではなく)が現象を規定するのであって、これと同じく、現象はまた時間関係の総体によって(単に目下の条件だけによるのではなく)きめられる。生命の空間的全体性と履歴性は結局、同一の空間=時間的全体の別の側面なのだろう。…空間的にも時間的にも、生きたシステムの中のことがらは一因的(生物体は現在条件により決定される因果関係の集積であるという意味で)にきまるとは思えない。むしろそれを決定するのは全空間=時間的なパターンである。…かりに私たちが生命現象を一つの式で片づけるならば、その式は空間的全体性と時間的全体性を同時に表明しているような微積分方程式となろう。理論物理学と一般システム理論…を関連づけて扱わねばならぬ深い問題がここにある」120-1頁

スレッドを表示
古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。