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「[H.]ウェーバーは(1938)は、生物学が一般に環境概念をどう摑むかということを、有機体論によって説いた。フォン・ユクスキュルは生体と環境の関係のあまりに一方だけを強調しすぎた。つまり感覚的刺激への反応ということで、したがって彼の環境概念は刺激生理学的であり、擬心理学的なものである。だがウェーバーのいうとおり、環境の概念はもっと広く考えねばならないものであって、体制に働き影響するシステム全体という意味にとるべきである。これは、生体の特別な体制によって決められると同時に生体の存続を可能にするシステムを意味している。したがって生体の刺激となりうる事物だけでなく、生体の存在条件に関する複合体全部が環境に属するのだ。他方人間の活動の場合に、環境条件はその限界に行きつく。動物の環境はその物質的体制に依存しているのだが、科学の進展につれて、次第に脱人間化(Entanthropomorphisierung)の進行が見られる。すなわち人間特有の感覚生活に源を発する要素がどんどん消去される点で、そういえる。[アーノルト]ゲーレンは、ユクスキュルの環境概念を人間に適用することを批判したが、右[上]の結論もこれと同種のものである。彼もまた人類の文化活動にはこの概念は適用できないと述べている」195-6頁

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「生体内の生命現象の秩序という本質的な問題…いままで部分的に知られているミゼルの秩序の法則性のすぐ先に、まだわかっていない法則性をもったずっと動的で柔軟な秩序、すなわち原形質や細胞の《生きた》体制性とよぶところの秩序が、おそらくつづくのである。もちろん、その生きた体制は《柔軟》であるほかに《動的で》もなければならぬだろう。ここにおいて、《体制》の問題は《定常状態》の問題と合流する…
…高い体制の水準においては、<構造>と<機能>の対立は動的な見方によって克服される。…生体とは、さまざまな速度をもった過程を伴う階層構造であると考えるわけだ」194-5頁

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「生物学のあらゆる理論的な考えは、体制の問題をめぐる。生物学でみられるようなことがらは、そのシステムの体制ということによって説明すればよいとホールデンは思ったのであったが、フォン・ベルタランフィやウッジャーの有機体論の立場では、逆に体制を作っている基礎を研究すべき必然性が生じてくる。体制は説明になるどころか、生物学におけるもっとも魅力的、もっとも困難な問題なのであって、この問題は生気論をもっとしては片づけようがない。…物理学者シュレディンガー(1946)は…独立に、有機体論とまったく一致する立場にたどりついた。『生きた物質が、いままでにうち立てられた物理的諸法則をのがれるものでないことは、確かめられている。しかしおそらくは、今まで知られなかった別の物理法則をも匿しているだろう。そして一たび知られた暁にはこの新法則も、もとからの物理法則とおなじく、この科学の不可欠な部分となることだろう』」193-4頁

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(承前)「機械論の解釈にも底がみえてくると、こんどはその見通しから、まず生気論が導きだされた。部分の和と機械的構造とを指導要因が支配するという仮定が生気論である。どちらの見方でも足りないことがわかってきて、ついに有機体論が生まれて、全体性の見方に科学的な意味を与えるのであるが、こういう道筋は生物学・医学および心理学に共通していて、いずれにも認められるものである。
 近代生物学に現われた基本の諸原理や、個々の領域でこれらがどのように働くかということは、いままで逐一論じてきた。その一つは、全体性の考え方であって、部分部分の過程だけでなく、幾重にもなった交代関係やその法則性を認めることが必要なのだ。この関係や法則性は、攪乱のさいの調節にも、またもちろん、正常の生命現象にもあらゆる分野で見られている。さらにまた体制の原理がある。…もう一つは力学的(動的)な考え方で、生物構造は存在するのではなく生ずるのであり、生体を維持し形成するエネルギーの不断の流れを現わしたものこそが構造であるという。こうした動的な見方はいろいろな領域で精密な生物学法則へのいとぐちを提供し、等結果性のように、自然科学では解けぬ生命の神秘とされていた現象も、これによって理解の基盤を与えられる」😅 191-2頁

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「生物学的思想は数十年このかた私たちが《有機体論的》と名づけた考えへ向かって動いてきた。…
 物理学での機械論が、生物学にどんな影響を与えてきたかはすでにみたが、生物学も一般の傾向にならって、生命現象を個々の部分、個々の過程に解消してきた。生体を細胞活動の和として表わそうとする立場などもこれで、物理現象が偶然の法則に支配されると思われたのと同様に、体制と機能をもつ生物も、無方向な変異と選択が生みだしたものと解されてきた。この見方はまた経済[学]の潮流や理論ともおおいに関係があり、じっさい…マルサス理論を、ダーウィンは生物界全体におしひろげた。その理論にもとづいて、生物界では生存競争がおし立てられたが、これは工業化開始のころ国民経済学のマンチェスター学派がもてはやした自由競争理論を生物学に応用したものである。生命現象すべてを有用性の観点で判断しようというのは、時代の思潮にかなうものなのであって、無生物の世界をその手に収めて勝ち誇ったこの時代は、生命をも機械としてとり扱った。生命の機械説はそうした時代を表現している」191頁→

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「遺伝子もまたとくに体制化して高度の安定性をもった巨大分子で、照射の作用によって、量子が命中するとか、自発的突然変異のばあいのように熱振動によるとかいう比較的まれなときにだけ、新安定状態に移りその状態に束縛される。物理学的な量子論と生物学の突然変異説の関係はこの点にあるのであって、遺伝子分子が新安定状態へ飛躍的に移行するのはエネルギーの受渡しが任意の少量では行われず、量子化されているからだ。そして生物学的にみれば、ある品種から他の品種への移りかわりが滑らかでなく、やはり飛躍的だということも…このような事情によって説明される」😅😅😅 189-90頁

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「古典物理学が仮定したのとはちがって、現象は連続的なものではなく、飛躍的性格を有しているという判断も基本的な要素であり、この認識を物理学的に表現したものが量子論である。…生物学の面ではこの認識は突然変異説として表現されており、この説にしたがうと種は滑らかに移りかわるのではなく、不連続な飛躍の結果、移行がおきる。量子論と、これに密接な関係をもつ突然変異説…が、同じ1900年にその基礎を与えられたことは、たしかに偶然ではない」187頁

ほんまかいな😅

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「結晶では格子による構造は確固としたものであって、ほとんどどんな結晶にもある歪みは、結晶の組立てに対して本質的なものではない。だが生きものの形においては、構造は可変的で形体が確定しており、形態はいわば鋳型とみてもよいのであって、個々の細胞は、数や位置についてはずいぶん任意に、この鋳型を埋めることができる。…
 さらに等結果性の中にも自由度の増大をうかがうことができるのであって、閉鎖系は最終状態にいたるまでの道程を初期条件によって指定されてしまうのに反し、開放系では同一最終状態が任意な道筋から達成される。…
…統計学の階層構造の中では、高次レベルに移るにつれてだんだんと自由度が大きくなってくるようだが、これは物理的単位事象が非決定論的だからという意味ではない。現象は全体としては合法則的にきまっているが、その個別事象ではいろいろ違う可能性がありうるのである」184-5頁

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「自然探求者が言及しようとしたほとんどすべての哲学的課題に有機体論はふれてきた。けれども物の本質や、生物と無生物の本質がどうちがうかという疑問に関しては、自然探求者はなんの発言もしない。実際、機械論対生気論の争いにおいても、問題になっている2つの自然科学的解明はけっして敵どうしではない。一方は物理=化学的法則性、他方は特別な活力の法則性から、生命現象を導きだそうとしていたのだ。むしろこの対立の本質的な相違は科学的な説明と擬人的《判断》の対立という類のものである。自然科学は客観的に確認できる現象を記述し、説明することにかぎられるものである。この場合《説明する》とは、一つのまとまった思考体系中に整頓するという意味である。生気論の目ざすところは別であって、物の《内部的本質》についてなにか発言し、私たち自身の体験の鋳型にのっとってこれを解釈しようとする。…自然科学とも詩ともつかぬ、生気論の奇妙な中途半端の立場は生気論の効力を失わせた。生気論が客観的に探求できる自然の中ではなく、先験的な生命原理の中に生命の全体を探しているかぎり、それはけっして生物学理論の礎とはなりえない。他方でまた生気論は形而上学的直観を合理化し、作用力として自然科学にひきこもうとすることによって、水を割ってしまう」181頁

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(承前)「有機体論は機械論対生気論の問題を解決することにはならない、としばしばいわれる。なるほど有機体論は、ふつういわれる代案と同列に置けるものではないかもしれない。生命現象を物理・化学に還元したがる《機械論者》には、物理=化学を越える法則とかパターンに言及することは話を混乱させるものと映る。《生気論者》の方では、そういう固有法則性は機械論的なものだと考える。なぜなら、その法則性は物理=化学的法則性の仲間であって、形式的にはなんら違わないからである。だが実のところ有機体論の本質は、機械論と生気論の対立をもっと高いところで克服するところにあった[😅]。生命固有の法則性を機械論者はしりぞけ、生気論者はその法則性が自然科学の手には負えないというが、有機体論は、生物に固有な法則性が自然科学的に探求できる問題だという立場をとるのである。
 かくして方法論的に新しい立場が生まれる。有機体論の方法は生物システム全体に対して正確に定式化しうるような法則性をさがすことである」

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「生物学的なものも含めて世界のあらゆる現象は、物理的最終単位や、それらの間になり立つ自然法則として働く力できまるのだろうか。あるいはまた、生きたものの領域ではその他に、結局は霊魂的な性質の実在要素があって、これが最後の粒子の運動に支配的な影響をおよぼすのだろうかという形而上学の問題がある。この質問に意味を認めることはできない。…《自然法則》とは因果的に働くにせよ、目的的に働くにせよどちらでもいいが、とにかく擬人的な力が支配することではあるまい。ここに擬人的というのは、因果的というばあいには私がある物体に与える衝撃などを範にとるということ、目的的というばあいには私たち自身の目的をめざしての行為を手本にする、ということだ。…形而上学的機械論と生気論の対立は、見かけの問題だ。なぜならばこの対立が仮定する二元論、すなわち形而上学的実在だときめられた生命のない物質と、たえず物質を支配する霊魂との二元論は、今日もはや通用せぬような物理学的世界像に基づいていたのだからである」179-80頁→

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「有機体論が実際に目ざすところは消極的であいまいな未来への予言よりはるかに本質的なもの、すなわち、現在のための積極的な研究計画である。いままでやられたことはほとんど生体中の過程の物理=化学的説明ばかりだったが、これでは生体の秩序の法則性を認識する役にはたたない。生体の法則性こそが、生体中の過程を生命の過程たらしめるのであり、これまで《機械論》生物学がほとんど眼中に置かなかった有機体のシステム法則を発見することが、生物学の根本の宿題なのである」179頁

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「物理的非決定性と意志の自由という、まったく別平面にある問題を並べて置こうとする試みがしばしばあるが、これは警戒されねばならない。…物理的因果性がほっておいた隙間に自由な意志がくい込むというような仮定は、エンテレキーが物質的現象を統御するという生気論の考えかたと軌を一にしている。私たちは、生体の中でエンテレキーなど働いていないことを直接証明してみせて、生気論に反対するわけにはゆかない。そのわけは、生体についてラプラス流の予見をするわけにはゆかないし、また古典決定論を仮定しようにも生体の物理的構成を十分あきらかにはできないから、私たちの知識の間隙に生気論的要因が《侵害》してくる可能性は、たえず残っているからである」177-8頁

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「生体はむろん思いも及ばぬ多数の原子や分子からできていて、その桁は100万の4乗(1兆の1兆倍)に達する。だから物質交代・生長・形態形成・大多数の刺激現象等、生物現象の多くのものには古典物理学の決定論的法則があてはまるのももっともなのである。
 だが、生物現象のうちにはこの例外となるものがある。著者は『物理学における大変革が生物学に対してどんな意義をもつか』について、はじめて疑問を投げかけた一人であった。…1932年には著者は次のように述べている——『生体中では、微視的な物理事象が、システムのさらに広い領域にゆきわたっていく結果、物理的・統計的確率が破られる可能性のあることを心に留めておかねばならない』と。この着想はパスキュアル・ヨルダンの手で《生体の増幅理論》として作りあげられた。遺伝のような調節中心でおきた微視物理的事件は、生体中で増幅されて巨視的な影響を表わすという」174-5頁

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「自然についての学説はどれでも、その学説に数学がどのぐらい含まれているかによって真の科学たる程度がわかる、というカントの命題は…正しい。…未来の生物学の法則系が、どんなふうなものかはわからない。そこには今日ぼんやりと予期されはじめたくらいでしかない生物構造の法則も含まれるかもしれない。だが、これらのことがどうあるにもせよ、未来の生物学の法則系は論理的演繹という性格をもちそれゆえ《数学》を含み、したがってまた形式的に物理学と同性質のものであるだろう」171頁

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「第2の問題は、生物学の法則性が結局は物理学へと《還元され》うるかというのであった。…結局は物理の法則界と生物学の法則界に統一が将来いつか生まれるだろうことは、ほとんど疑う余地もない。なぜなら、以前離れていた分野が総括されるのは、論理的にいっても科学の発展の一般的な特徴だからである。…だが一方基本的にはそうであっても、さしあたり生物学段階の法則性を、それ自体として確立する必要がなくなってしまうわけではない。…
…生物学の本質的な問題の多くは、量的な大きさの問題とはかぎらない《型》であり、《位置》であり、《形態》でもある。
 たとえば生物体の階層構造において…興味をひくのは定量的関係ではなく、上位と下位・集中化等の関係である。…
…問題が定量的性質のものではなくて、秩序関係・位置関係を取り扱っている。
…生物学の《機械論》は物理的自然法則の目録を、はじめから決定版だときめてかかったので、生命現象を説明するさいにも、この目録だけをただ間違いなく適用しなければならなかった。だが、実はそんな目録などありはしないのであって、物理学の概念システムに思考手段のどんな拡張が必要であるか、両分野の総合ができないうちは何ともいえない」166-70頁

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「生物学の法則は、物理・化学の法則をただあてはめただけのものではなく、ここには独自の法則領域がある。これは、生きたものの中で生気論的な力が活躍しているなどという、二元論ではない。しかし、生物学の法則領域は物理学の法則よりも、さらに高次であるように思われるのであって…またさらに複雑な第3段階としては社会学の領域がある」166頁

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「解析的な見方と、全体としての見方とはある種の相補性を示す。私たちは、生体中の個々の過程をつかみだして、これを物理=化学的に定義できるが、こうすると、生体はひどく複雑であるために全体からは遠ざかってしまう。あるいは、別に生物学的なシステム全体に対する法則性をうちたてることもできるが、その時には個別のことを物理=化学的に決定するほうはあきらめねばならない。
 第1のやりかたは、生化学・生物物理学および生理学の常套である。だが経験によるとこのやりかたは、まさに生命独自の《活きた》特徴から遠ざかるように思われる。…物理=化学的現象を調節的因子で補おうとする…生気論がかった見方に対して、むしろ正道な透過性のシステム理論…をとるべきではあるまいか。…解析的なやりかたは、生物システムの全体性からおこる別種の考察方法で補われる必要がいつもある」164-6頁

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(承前)「生物学はシステムや体制の法則を確立するという課題を生物の全段階を通じて課されている。これらの法則は二重のやり方で無生物のそれを越えている。
 I 生物的なものの中では無生物に比べて<より高次の秩序と体制の段階>がある。…
 II 生きたものの中の現象はとてもこみいっているのであるから<全体としての生物システムに関係する法則>を扱うには、物理=化学的な個々の過程ではなく、生物学的次元の大きさをもった単位と変数を用いねばならない。…今日の生物学でかなり広く用いられており、ゆくゆくは発達して生物学を正確な理論構造につくりかえるだろうところの…法則は《物理学的》ではない。なぜならこれらの法則は、生物学分野だけに現われる単位に関するものであるから。だが、領域が十分すすめば、論理的に物理学のどの分野とも同じような構造をもった理論システムができあがることになる」162-4頁

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「生物学での《メカニズム》…メカニズムの意味のうちで、はっきりしているのは《非生気論》ということだけだ。つまり自然科学の研究が近づきがたい、擬人的な感情移入でしか説明できない要因を、排除することであるが、この意味てのメカニズムは自然科学と同義だから、自然科学的生物学はどれも《メカニズム的》である。しかし、もっと精密な定義ということになると、考えかたがまちまちである。…
 私たちは正確な理論的定量的生物学の闘士をもって自ら任じていればこそ、《精密》科学の中で《法則》だとされているものが、世界のほんの一かけらにすぎないことを力説したい。…
 この意味で、生物学はけっして物理学に《解消》しない。生物学が《自律的科学》として、物理学と相対する地歩を占めることはいうまでもあるまい。この確言は《生物学的メカニズム》の問題の外側にあることで、メカニズム的考え方〔自体の可否〕を判断することはまったく別である。メカニズムの問題を判断することは、私たちがそれを《法則》の形で言明しうるところの、生きたものの分野における一般的な秩序の特徴に関係するのである」159-62頁→

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