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(承前)「第3に個体発生でも系統発生でも、先へ進むにつれ、<より>機械化されず調節力ある状態から、機械化され、<より>調節力の少ないものへと移りかわってゆくのがいたるところで見うけられる。…いろんな生命現象について…ただ一つ特定の行動にだけむかって固定化されてしまうことがいたるところに見いだされる。これは前進的機械化と呼んでよいであろう」19頁→

(承前)「そこで結論は次のとおりだ。ます全システムに含まれている諸条件の交互作用で、つまり<動的>秩序によって、生物体の現象に方向が与えられる。生物の調節能力を裏づけているのはこの動的秩序である。つぎには機械化が進みだし、はじめは統一された行動だったものがばらばらにほぐれ、個々の過程が一定の構造のもとで行なわれる。構造的=機械的な秩序ではなく、動的秩序が第一であって…生物体は機械<である>のではないが、ある程度まで機械<となる>のだ。機械となって固定するのだ。もちろん機械になりきるわけではない。つまり全然機械になってしまえば、生物体は撹乱されても調節することができないから、外界の与える制約がしょっちゅう変わっても、これに辻褄をあわせていけないわけだ。生物体の諸過程は、構造にしっかり結びついた個々の過程が単に集まっただけのものてはなく、それはむしろ多少とも、動的なシステムの内部で規定される現象の性質を備えている。生物が、変化する要求に適応する能力をもち、攪乱に際して調節力をもっているのはそのためである」20頁

「生物体は外部条件が一定のままでしたがって外から刺激がなくとも、受動的なシステムではなく、基本的に<能動的>なシステムである。…崩壊や構築は生来本来のものであって、外の条件によって課せられるのではない。…現代の研究によれば、律動的自動作用が示す自律活性のほうが、反射的な反応性よりも基本的だとみなければならない。
 そこで有機体論の見方をまとめれば次の標語になる。<システムを分析=加算的に見るよりも全体的に>! <静的=機械的に見るよりも動的に>! 生体の<一次的な反応性>に注目するよりも<一次的に能動的なもの>であると考えること!」20-1頁→

(承前)「これらのモットーによって機械論と生気論の論争は克服できるのであって、そもそもこの両説はともに分析=加算的・機械理論的な見方からでてきている。機械論は生命のまさに基本の問題たる秩序・組織性・全体論的および調節に対してなんの解決も与えはせず、分析的研究においては、上の問題は解決されぬままに残る。…生気論はまさにこの未解決の問題から生まれたのであるが、これとて加算的・機械的な理解を越えるものではない。それどころかこの説においても生物体は部分や仕組みの集まりなのだ。ただ生気論では、これが何か霊気めいた操師の手に委ねられ、完成されると思うだけにすぎない。たとえばドリーシュは、胚とは細胞が《加算的に並びあったもの》で、これがエンテレキーによって始めて[ママ]完成されると述べている。生気論者も機械論者と同じく、有機的なシステムという中立の立場から出発せず、有機的機械という偏見から出発する。調節の問題や機械の起源という点にきて、生気論者はこの有機的機械という観念ではまに合わないことに気づき、機械論から生物を救わんものと、別の要因を導きいれるのである。この要因は秩序性が乱されれば機械を修復するし、時には機械の作り手としても働く」21-2頁→

(承前)「要するに生物体の秩序や調節を説明するのには2つの可能性しかないと思われていた。生物の秩序性は機械的に固定された構造によるとするか、生気論的な要因によるとするかである。どちらの理解のしかたも不十分であって、機械論的な見方は調節と《機械》の成りたちの問題に答えられない。他方生気論は自然科学的な説明を断念したものだ。
 有機体論の見方が、右[上]の両者と相対峙する。一つ一つの要素や過程を確定することも、生物の秩序性を機械類似の構造に帰することも、また秩序化要因としてエンテレキーのごときものに訴えることも、生命現象を認識する上では不十分なのである。…ここに生物学の本質的でしかも独自の課題がある。生物学的秩序性は特殊なものであって無生物領域の法則性を越えていはするが、探究を進めるにつれて、これに次第に近づいていくことはできる。秩序性はあらゆる段階で研究されねばならない。物理=化学的な単位過程およびシステムの段階、細胞と多細胞生物体という生物学的段階、個体を越えた生命単一体の段階、そのどの段階にも新しい〔それ以下の段階にはない〕特質と法則性がある。生物学的秩序性は、広く見て、動的性格のものといえる」22頁

「生命の自律性などということは、機械論では相手にされず、生気論では形而上学的疑問符をつけられっぱなしであった。だが右[上]のようなわけで、有機体論の問題を自然科学的に取り扱うことができるし、現にかなり調べてきている。
 《全体性》という表現は過去長くにわたって誤用されてきたが、有機体論でいう全体性とは神秘めいた実態でもなく、私たちの無知の隠れみのでもない。全体性は自然科学の方法で扱えるし扱わねばならない、一個の生物学的実体なのだ。
 有機体論は機械論と生気論の折衷でもなく中道でもない。…体制と全体性は、有機システムに内在しており自然科学によって解明できる秩序原理であって、まったく新しい立場にある。…
 有機体論の立場は、まず<生物学の研究方法ならびに理論>という意味で、次に<認識論としての意義>の見地から吟味されるべきものである。…有機体論は生物学の基本的問題とそれらへの可能な説明を見てとらせ、またこれと取り組むことを可能にしてくれる。以前の機械論や生気論の立場では、一般にこれらの問題説明をそもそも見いだすことができず、見いだされたにしても不可思議とされて自然科学の方法では手のつけようがないとされた」22-4頁→

(承前)「〔生物学の現在の〕目標は、<正確な法則性>をまず提示することであるが、この法則性は生命現象の基本特性に対応して、かなりの程度までシステム法則の性質をもつものでなければならない。その意味で有機体論の見方は、生物学が形態や過程を記述する博物学の段階から法則科学にうつり変わるための前提なのだ。無生物の世界では、アリストテレス的世界体系から新物理学に移行する際に《コペルニクス的転回》が起きたのだったが、生物学でもこの転回をやりおおせるの私たち現代に課せられた宿題である」24頁

「<超微視的形態学>の領域(フライ=ウィスリンク)で物理=化学的範疇から生物学的なものへの移りかわりがおきる。…新しい構造レベルに達するつど、自由度は増していく」28-9頁

「生物学的単位要素は安定な結晶として理解するべきではなく生物システム全体とおなじく、たえず物質交代をしている…
 この見方から普遍的な結果…まず、遺伝子や染色体が、静止的な巨大分子やその複合体ではなく、動的構造をもつもの、《物質交代する無周期性結晶》だということであって、それらが存続するのは静止的に続いているのではなく、定常的な姿で維持されているものと思われる」32-3頁

この場合の「結晶」て何だ? 😅

「安定な化合物としてのタンパク質は安定化の産物であって、生細胞中では…なんらかの動的平衡関係にあるととるほかあるまい」37頁

「体制の一般原理
 生物体にみられる段階構造は、生物学だけでなくひろく心理学や社会学の領域にもわたる一つのパターンの一斑なのである。それは<階層的秩序>と呼んでよい」40頁

「多細胞生物の<空間的階層性>…多細胞生物は、諸部分の段階構造からなっていて、各段階はいつでも、もっと高次の秩序をもつ体型へとまとめあげられてゆくのである。ここでW’は全生物体で表わされ、Mは生体の部分である。ある成分がもっと高い水準にある成分にたいしてもつところの体制関係がR(s)である」41頁

「2つの説が対立して、一方は細胞だけが生きており…物質は細胞の死んだ分泌物だと考えた。もう一つの説によると、生きている原形質が改造されて基礎物質になるという。この説は《生命質》なる言葉をもちだしたが、その中には細胞だけでなく基礎物質も含まれているのである。有機体論の見地からフォン・ベルタランフィは次のように指摘した(1930)。第1に、細胞間物質の生長と形態形成とは、それらの物質が自立して《生きている》というには十分でないこと、第2に、いうまでもないが、細胞間物質の生成は個々の細胞の仕事を寄せ集めたものではなくて、全体——しばしば合一された原形質から生ずる(共形質的symprasmatisch)組織であるが——の単一な働きだということ。第3に、生命質のかわりに、システムという見方で考えるべきだということ。階層的秩序をもって組み立てられた生物体という条件の中では、なによりまず細胞が、次には組織が《生きて》いる。組織という枠の中で細胞間物質の演ずる役割は、細胞の枠の中で細胞膜や繊維が果たしているものと同様にみてよい。膜も繊維も、それ自体で《生きて》はいないが、全体としては生きている細胞システムに属するものである」42頁

「<遺伝学的階層性>…関係R(g)が意味するところは《直接の子孫であること》だ。両性生殖では遺伝学的階層性は説くまでもなく複雑なシステムのほんの一部にすぎない。受精卵は両方の親に対してR(g)の関係にあるために、システムは網状構造の性格を持つ」44頁

「生物は形態学的な<部分の階層性>だけでなく、生理学的な<過程の階層性>をもあわせ示している。もっと正確にいいかえるならば生物体は形態学ですべてをつくせるような単一の階層性を示してはいない。それは幾重にも入りまじり、重なりあった諸階層性のシステムである。…
 過程の階層性は形態学上の編成よりもずっと移りかわりやすい。ある過程が形態学的な一成分と関係していれば、過程の階層性と形態学上の編成が一致することもある。しかし一致せねばならぬわけではない」45頁

「さらにまた階層的秩序の重要な型として<階層的分岐>といわれるものがある。…階層的秩序の概念を使うと、事象Wはここでは原初の統一された胚であって、これに続く準位面に対応するのは、分岐していく第1・第2級・・・・の部分システムである。重要なのは分岐が、分裂の階層性内での細胞的編成とは、一致しないことだ。…別個の各部分の運命をきめる要因は、発生しつつある卵が分岐によって細胞成分へと細分されたことにあるのではない。むしろそうした要因というのは、一群の細胞の集まりから一定の成分ができてくるように決定する動的先行経歴(Prius)である。…
 生物学的階層性でもそうだが、心理学的および社会学的階層性でも、分岐という性格がとりわけ目だつ。…生物学の領域では、全体がまず始め[ママ]で、これが部分システムへと分岐する。…しかし系統発生でも、生物体の分化が進むことは、生命機能が分岐することを表わす」46-7頁

「生物の段階を高く登れば登るだけ、関係しあっている全体のうちの各部分それぞれのふるまいかたは多様にはなってくるが、生物体全体の働きに比べると貧弱にもなってくる。…
 多様になること、つまり部分の<分化>が増すことは…漸進する統一化と結びついている。これはまた同時に、比喩的に《分業》といわれるところの特異化をも意味している。…
 分化が増していくことは、同時に《機械化》が増すことである。つまり、はじめ統一されていた行動が個々の別々の行動の集合体に分かれ、それとともに調節能力を失う。ある部分が、多少とも一つの機能ばかりを担当すれば必要の際に他の機能を代行する調節能力は退化する。その部分が失われると補いのつかぬ損傷になる。…特異化(専門化)によってはじめて行動をもっと高次にすることができる。専門家は一方ではかけがえのないものだが、他方またふだんの環境以外のところでは原始人よりもずっと始末におえないものだ[😅]。…個々の生物体や生物の部分についても、また外界に対して適応するときにも、分化と特殊化によってはじめて高次の発展がなしとげられる。生物体が機械化し、その部分が単一の機能にだけ結びつけられ、したがって攪乱に対する可塑性を失うという損失を代償に、はじめて高次の発展をあがなうことがてきる」48-9頁→

(承前)「さらにまた分化すると、体の一定の部分が他に対し優越性を得る。だから分化の増大は<集中化>の増大とむすびついている。そこで高次に発展した階層性では、階層の序列と部分の服従の原則(A. ミュラー)がみられる。…もちろん生物体は、軍隊のように単純な梯子上の階層ではない。幾重にもなり相互に働きあうよく編成された全体である。…
 階層秩序と《主導部分》の原理もまた、形態学的な編成を超えた普遍的性格のものである。…
 集中化の原理はこのように生物学的個体性の問題と密接につながっている」49-50頁

「われわれは自然科学的には、個体性について次のようなことしかいえない。系統発生的・個体発生的に統一化が増していき、その間個々の部分はたえず分化し続け、自立性を失ってゆくということだ。極言すると、生物学的個体性などというものはなくて、系統発生的・個体発生的に前進してゆく個体化があるにすぎない。この個体化はもとをたどれば前進的集中化に始まっている。つまりある部分が、他の部分に対して指導的役割をえて、全体の動きもの部分によって定まるのである。個体性とは一つの限界であって、発生においても進化においてもこの限界に近づきはするが、そこに到達することはない」52-3頁→

(承前)「個体化とともに死ということが生命の世界に現われる。経験の示すところによれば、原始的《分割体》である下等動物とちがって、高等動物として現われてくる複雑な統一的システムは、分裂によっては増殖できない。こういうシステムはいつまでも生存しつづけられず、自然損耗して老齢や死に陥る。個体を死によって定義することは、当をえないことではないだろう。統一のシステム、そのうちでも特に中枢神経系の集中化傾向と、生殖器官の解体的傾向との間には、対極的な対立ができあがる(A. ミュラー)。完全な個体化すなわち集中化は、増殖を逆に不可能にすることになる。増殖とはまさに、年とった生物体の一部分から新生物体を作りあげることを前提としているのであるから。他方、指導的中枢系である脳と心臓とは自然の老化過程で最初に破綻し、それゆえとりもなおさず死の器官なのである。
 このように個体の概念は生物学的には、限界概念としてでなければ定義しようがない。実際この概念の規準は、自然科学や客観的観察とはちがうところにある」52-3頁

「超個体的体制の世界
 生物体は空間的にかぎられた個々の存在として私たちの前に現われる。だが彼ら自身はもっと高次な単位の項(部分)であって、その単位体とは時間に関していえば<種>である。おのおのの生物体は増殖によって他のものから派生したり、また新生物体の源流になったりしながら超個体的結びつきのそれぞれ一員となっているが、同様に空間的にも生命の段階構造は生物個体のところで終るのではなく、個体を越えてさらに高次の単位がある。
 空間的高次単位に属するのはまず同種の個体の社会で、これは動物集団とか動物国家とかになって現われている。…専門化した動物個体の動きは、全社会を保ってゆくために協調し整頓されている。ちょうど細胞や器官の働きが生物体〔全体〕に対するのとかわらない。たとえばミツバチの結婚飛行・巣わかれ・新しい女王たちの哺育の場合のように、各動物の行動は全体によって規定される。各動物個体の予見によるとはとても考えられない驚くべき《目的性》が示される。…最高度に発達した昆虫国家にいたる道は、高度に体制化された生物個体に達する系統発生的道程と似ていて、系統発生上でもはじめはゆるい連絡だったものが、だんだん緊密な体制に固まってゆくのが見られる」53-4頁

「生物共同体は《動的平衡を保っている生物群落システム》だといえる(レスウェイ)。
 最高の生命統一体を形成するのはいうまでもなく地球上の全生命である。もしもある生物群がとり除かれると、平衡は破れるからさらに新しい平衡状態に移ってゆかねばならない。…あらゆる生物群の中を物質がどんどん動いて、これではじめて生命の流れは保たれる。…
 生物社会とは相互作用をしている成分のシステムである。その成分は相互依存・自己調整・攪乱のさいの適応・平衡状態への性向など特性的なシステムの特徴を表わすけれども、その統一性の度合が生物個体にくらべてひどく小さいことはもちろんである。生物共同体とはつまり集中化していないゆるい統一体であり、生物個体が自分自身の中にある条件で発展するのに対して、生物共同体の発展は外的条件によって定められる。だから生物共同体をシステムだというのは正しいが、よくやるように《高次段階の有機体〔生物体〕》だというのはよろしくない」55-6頁

「人間が手をいれない自然では動植物が生物学的平衡にしたがって、生物共同体を保っている。すなわちどの種も自分の自然の敵〔天敵〕をもっているから無制限には殖えられず、だからといって遺伝資質や外的条件が一変せぬかぎりは、死にたえることもない」56頁

「生物共同体を単一性あるいはシステムとしてみてよいものだろうか? 各項はたえずたがいに滅ぼし滅ぼされあって闘っているのではあるまいか? その答えからは次のような洞察が導きだせる。各部分の不断の闘いは、ルーの表現にならえば、生物共同体であれ、生物個体であれあらゆる生物学的システムの中に存在している。…生物個体も、超個体的生物統一体も、すべて生物学的システムにおいては統一体が部分の間で相争っていることがわかる。統一体をこういうふうに考えることは、ヘラクレイトス、ニコラウス・クザヌスまでさかのぼるあの深い形而上学的洞見の反映である。すなわち世界も世界の各個物も、それ自身対立物の統一(coincidentia oppositorum)であって、たがいに反抗し闘争しながら、しかもより大きな全体を構成し保ってゆくということである。この生物学的問題から、弁神論と世界悪という永劫の問題を見る展望がひらける。これは、たがいに相争う部分が個体化する(不可分化してしまう)ことからおこるのであって、各個体に対しては滅亡を、しかしながら全体にとっては前進する実現化を意味するところの闘いである」58頁

ギヨエテ1812年の日記「叡智ある人々のあらゆる頭脳から機械論的・原子論的な考えかたは逐いだされ、ものの現われすべてが力学と見え化学と見えるように、いつかはなり、その時にこそ、生命ある自然の神々しさがさらにいっそう目の前に展けてくることであろう」59頁

「発生能力つまり《ポテンシャル》は、実最に正常の発生で行われるところよりも一般にはるかに大きくて、発生初期の胚はある範囲では《等ポテンシャル・システム》[等能体系]である。つまり各部分それぞれが何でもできるし、同じことができる。すなわち完全な生物体を作りだせるのである。
 さて次にその時々のポテンシャルは、何によって決まるのかという問題がおこるが、ドリーシュの設定した原理がこの疑問に答えてくれる。発生過程で、ある細胞が行うことは、発生系全体の中で細胞がその時占めている場所によって決まる。…
…発生はまえもって原基に割当てられているのではない。胚の各部分は全体との関係でしだいに一定の発生方向にきまってくるのだ。そこで発生はたとえ見かけは前成的でも、原理的には後成的である。
 これで第1案、つまり前成説か後成説かということには答が与えられた。発生は独立の原基や発生機構の作用ではなく、全体に支配されるのである」61-3頁→

(承前)「さてここで<第2の選言命題>、あれかこれかがくる。《全体》とは、胚の物質系につけ加わる要因なのか、またはこの物質系の配置に内在するものなのかということである。第1案は生気論、第2案は自然科学的な全体性説である。
 ドリーシュが、自分の実験からどんなふうにして生気論に行きついたかは、前に…説明したとおりである。このことに関連しておもしろいのは、生気論に対する認識論的・方法論的な反対ではなくて、これが経験的に打破されたことだ。
 決定が依存している《全体》とは、将来到達されるべき特有の最終産物ではないことは、多くの経験から明らかである。全体とは自己発展するシステムの総合状態であって、その時その場に応じて、具体的に示すことができる。もちろん決定がまだおこらぬかぎり等結果性(等終局性…)がなりたつのであって、始めの状態は違っていても、到達した結果は同じになる。けれども発生の経過は、決して《目標めざして》進むものではない。《目標めざす》とは、その目標を予見してエンテレキーが働きでもしているように、できるかぎり有意味・典型的な結果が生みだされるということである。なにがおきるか、調節が行われるかどうか、そしていつどのように行われるかは、その時の条件によって一義的に決まることだ」63-4頁

「発生の過程は《必然性の無情な勤勉さ》でおきるのであって、結果が良くても悪くても、目的に合っても合わなくても、また元来目的などにはおかまいない。エンテレキーのほうとしては典型的な結果を目ざしているのだが、使える材料が不十分なためにに[ママ]、その目標が妨げられる、などということではけっしてない。…使える道具がすくないので、エンテレキーの威力が制限されているのではなく、むしろ現象は物質系の条件によって必然的にきめられるのだ。それ自体としてはおこることが可能な過程を《留保》するということが、ドリーシュにとってはエンテレキーの主要課題であったことを思いだせば、過剰再生に関する議論はとくに決定的なものである。ドリーシュの言い分によれば、正常な発生の場合にも、調節的発生のばあいにも、留保によって過程のうちのあるものが止められてできるだけ完全な全体ができあがるようになるのであ。過剰再生体や、その他の奇形体は、エンテレキーがまるで無力なことを示している」64-5頁→

(承前)「胚の物質系につけ加わって、それが到達すべき典型的な最終生成物の形を導きだすような原理を仮定することは、いま述べたように第2の選言命題から排除しなければならない。つまり発生過程に現われてくる《全体性》は内在的なのである。胚はヴァイスマン説と生気論がともに基盤としたように、はじめから発生機構や原基の集合ではなくて、統一したシステムであることを示している。生気論ではこの統一化のための仕組みを操るものは、ただ外部のエンテレキーだけであると信じたのであった」65頁→

(承前)「さてここで<第3の選言命題>が現われる。胚の全体性を説明するのに、無生物界で知られている原理や法則性でまにあうだろうか? あるいはまた全体性とは生物に特殊なものであるか?
 第1の、物理法則性でよいという案のあらすじを、はじめて大成したのはゴルトシュミットであった。彼によると、発生の本質というのは触媒類似の化学作用が遺伝子からでてきて、胚の原形質や胚の細胞区分を分化させることである。このさい物理=化学的平衡過程にもとづいて、ちがった種類の現形質が局在して《化学的分化》によって器官形成区域が現われるようになる。基本的の[ママ]化学分化が確立しないうちは、胚は単一な物理=化学的システムである。だから調節胚ならば攪乱のあとでも平衡状態が回復され、調節がおきるのであって、エンテレキー概念など考えだすことはない。…
 発生の化学要因についても、平衡状態という仮定についても、まだとても精細に定義できるところまではきていない。けれどその後の新しい研究によってゴルトシュミットの見解の正しさが証明された」65-6頁

「発生はひどく神秘めいた過程で、物理=化学的分化とは別もののようにも思われる。…
…発生のとき物理=化学的過程がおきていることは必要ではあるが、胚の体制化や形態形成の問題はこれによっても解ききれないのである。
 胚発生の問題を物理=化学的に説明しようとする要求は、もっと一般的な見地から提出することもできる。すなわち個々の過程を具体的に説明するのではなく、物理学・化学で知られている《物質的ゲシュタルト》…の原理に還元できるという原理上の可能性だけを、望もうとするのである。ゲシュタルトとは、一定の平衡状態に達していて物質的全体性を示すシステムをいうものである。だが、ここでも特殊な難点にぶつかる」67-8頁→

(承前)「胚がほとんど未分化の細胞の状態から高度に体制化された多細胞の形に移ってゆくことは、システムが内在する原因によって、次第に高い体制段階に移ってゆくことを意味する。このような動きは、物理学的には一見、逆理のように思われる。物理学的なシステムは、自分から秩序を増してゆくわけにはいかない。むしろ第2法則はどんな物理学的閉鎖系についても、現象が秩序の程度を減少させるような方向に進むことを強要している。実際、自己分解するのに任された屍体はそのようにふるまう。だが生きた胚については、その条件は充たされてはいない。生きた胚が前提としているのは第1に、<より>高次の秩序段階へと導くべき順路として、特異的な体制が存在しているということである。第2に、胚は閉鎖系として行動はしていない。胚は秩序を高めるために、いつでもエントロピー原理によって一部分ずつ消尽されていくエネルギーを補充している。このような体制は…前成的・静止構造的にではなく、動的なものとしてのみ把握できる。エネルギー的にみれば発生とは仕事をすることで、この仕事は胚中の貯蔵物質(卵黄)の酸化によってまかなわれる」68-9頁→

(承前)「第2の要素は有機体システムの歴史性によるものだ…この要素とは個体発生で順次あらわれてくる傾向が系統発生的に蓄積していくという問題だ。こうした意味の歴史的要素というものも、生きていないシステムでは珍しいものである。
 さて、第3の二者択一案から生ずる結論はつぎのようになる。胚発生を説明するには、無生物界に知られているゲシュタルト原理をただ適用してもだめである。むしろ…《生物に内在する特別なゲシュタルト原理》を予想せねばならない…この見方は生気論的なものではない。なぜならこの見地は、生命の世界に浸透している超越的な因子を考えるのではなく、逆にそんなものを排除しているからだ。この見方はむしろ有機体論的なものである。すなわち、生物システムに内在的である有機体制が特異的なものとみなされ、このゆえに生物体に独自の法則性があると主張するのだから」69頁

「ポテンシャルの概念は具体的な意味をもっていない点を、ここではっきりさせておかねばならない。この概念の底にあるのはアリストテレス流の静的二元論つまり形而上学だ。石塊の中にも<潜在的には>いろんな形像がひそんでいて、石工がそのうち一つを明るみにつれだすというのと同じ言いかたで、有機物質も《ポテンシャル》で充ち満ちているといえるだろう。まどろむ潜在力のうちには《ゆりおこされ》るものも《抑えられ》るものもある。だがこんな考え方を前提としてしまえば、天才職人にも擬すべきエンテレキーがこのゆりおこしをやったということ以上には、ほとんど一歩もでられない。…ポテンシャルという考えかたの性格は生物を本質的に活動のないものと見ている。この説は胚の基質の実体をも、単に死んだ物質とみなすものだから、当然物質を形どおりに仕上げる細工人として、外からのエンテレキーが入用になってくる」70頁→

(承前)「しかし実際の胚の発生は、やすみない動的現象である。各区域や細胞のいわゆる《ポテンシャル》は、次のように考えられる。反応速度調和の原理どおりに、どの区域や細胞の中でも、いろいろとちがった反応連鎖が並行してすすむ。いつでも欠けることのない主軸に沿った勾配は別とすれば、どの区域でも始めからはっきり優越性を獲ている反応連鎖などはない。…この状態ではシステムは、いま述べた軸方向の相違だけはあるにしても《等ポテンシャル》である。システムは等結果的仮平衡…といういちじるしい条件をもった状態にあるから、なにか攪乱が加えられてもすぐもとに戻る。…
 ある反応連鎖が決定的に優位を占めるようになると、もはや状況が変わってもこの連鎖を変えるわけにはゆかない。決定がおきたのである。各部分は一定の働きだけに縛られて、もう取消しはできない。…
 等ポテンシャルと早期の未決定状態、それにともなって分割・融合・移植を行なったときみられる調節力、漸進的な決定、多少とも特異的な刺激によって形成体が動きだすこと、自立的な部分発生系に分解すること——発生とおなじこれらの諸原理は再生作用にもあてはまる。…
…発生とは神秘めいた《潜在力》が醒めたり眠りこんだりすることではなくて、諸過程の動的な相互作用なのである。」71-3頁

「幸運にもメンデルが研究した形質の原基(遺伝子)は、[エンドウマメの7本の染色体のうちの]めいめい別々の染色体上に局在していた。同一染色体に乗っているために連れだって遺伝されるような形質を、彼が研究に用いていたら、メンデルは遺伝の過程がみつからず、したがっていまでは古典的となった遺伝法則の設定はできなかったろう」76頁

「完成した動物体はけっしてあれこれの形や色の眼・翅・剛毛がただ集まっただけのものではない。動物は一定の体制をもっている。その体制に対応するどんな排列[ママ]をも、遺伝子システムには見いだされない。したがって《遺伝子》ないし《遺伝原基》の概念にどんな意味があるのかということは、教科書では通常避けられていることであるけれども、根本的な疑問のたねになる。
 まったく、遺伝の分野でも有機体論の立場は欠くことのできぬものであって、遺伝学はこのところ有機体論の方向へと発展してきている。ここでもまた静的な解釈から動的な解釈へ移らねばならない。つまり、遺伝というのは遺伝原基と一定の形質とが機械的なやりかたで結びつているところの仕組みではなく、むしろ生理学的な現象であって、これに遺伝子が一定のやり方で干渉していると考える立場が必要なのである」😅 78-9頁

「形質の発現がさまざまな因子の影響を蒙るということも、遺伝現象の性格が動的である結果の一つの現われだ。…
…遺伝子として確認できるのは、ある色、ある形をした眼・翅・剛毛などの一定の形質や器官を自分の力だけでつくりだすような単位だの原基だのではなく、むしろ全体としては対応しあうゲノムの間での差異の表現である。染色体の一定の座にある巨大分子すなわち遺伝子の性質に応じて、度合はいろいろであるにもせよ、ゲノム<全体>が生物体<全体>をうみだすのである。…ゲノムは、めいめい別々に働く独立的原基の集合体とかはめこみ細工とかいうものではない。ゲノムは全体として完全な生物体をつくりだす一個体のシステムであり、このシステムの一定部分——いわゆる遺伝子たち——の性質が変わるにつれ、生物体のつくりも変わるということなのだろう」79-81頁

「すくなくともかなりな数の遺伝子の作用は《速度遺伝子》の影響をうけるが、速度遺伝子とは、一定反応連鎖の速度に影響する因子である[何だこれ😅]。…ある遺伝子が突然変異すると、その遺伝子に制御されていた反応の速度が変わり、またそれにつれて発生しつつある生物体に多少とも深刻な変化がおきる。これは《反応速度調和の原理》(ゴルトシュミット)…
 生長速度の相違が一定遺伝子の量的な相違に原因していて、この遺伝子の分量に比例するということは、しばしば証明されたり確実らしく思われたりしている。…
 遺伝子を調和した諸反応速度のシステムであると考えることは、系統発生的にも深い意義がある」81-4頁

フォロー

「中枢神経系の中の過程と生物の行動とは、生物学的にも臨床的にもひとしく重要な領域である。この分野においては、新しい発展がおきて有機体論の立場の興隆が、とくにはっきりと示されている」121頁

「等質的環境(外部の刺激のないこと)のもとでも、多くの生物の正常な状態は静止ではなくて急速な運動である。この活性は本能行動の中にもみられる。それは、一定の生理的状態においては外からの刺激がなくても一定の運動を行おうとする《衝動》として現われる。
…生物体がはじめから能動的システムであれば、私たちは次のように結論せねばなるまい——刺激(外的条件の変化)は現象を、自身としては静止的なシステムの中でひきおこすのではない。ただ現象を、もともと能動的なシステムの中で修飾変更するにとどまると。この命題から導かれる重大な帰結は、結局生物体の反応には外部の働きかけ、つまり刺激よりもむしろ内部状態、正規状態からの離れかた、心理学でいうところの《要求(欠乏感)》が決定的だということである。実際そのとおりなので、生物はまず刺激によってではなく要求によって、食物・異性等を探し求めるようになる。この《衝動運動》は、ふたたび正常状態が回復するまでずっとつづく。…ブリューゲル(1877)は古典的な命題をだした——《要求の理由は、要求充足の理由である》と。彼はこの言葉によって、生物に特有な霊魂的な目的追求の性質を表現しようとしたのだったが、この命題の中に生気論的なものや霊魂めいたもののことが言われているということにはならない126-7

「刺激現象と行動の領域では…有機体論の観点が必要であることがとりわけはっきりした。過程がシステム全体に依存することは、分析=加算的な見地に相反する。最初には動的秩序があって機械化がしだいにおこることは、静的構造的=機械理論的な立場と対立する。生命現象において能動性が根本であることは、反応性が第一義的だという観点と矛盾する。
…フォン・ホルストによると、反射は行動の根本をなす基本要素ではなく、根本である自律性を変化する末梢の条件に合わせるための適応なのだ」128-9頁

「生命の流れ
 《同じ流れに二度とはもどれぬ。水は流れて常に新しいからである》。同時代人が晦冥の人と呼んだヘラクレイトスのこの章句は、古代のほの明るい暁の空から響き出る。ギリシア人にとって、ヘラクレイトスが異端の者と思われたのも無理からぬことであった。ギリシアの世界は動かぬ静謐とよぶアポロ的理念の中に息づいていたのである。…だがヘラクレイトスは永続する力のディオニソス的思考者であり、力学を実在の核心と考えた。かくして彼を彼の同時代人から疎外させたところのものが、彼をかえって私たちには近づける。…ギリシア人にとって、原子とは石工の眼をもって見ることのできる、しっかりした小粒子だった。ところが西方の地の物理学は、原子を力の演出、波動力学の結節点へと溶かしこんでしまった。
 たえず代りあって休みない流れを、ヘラクレイトスはこの世になぞらえた。だが汝をとりまく世界だけでなく——と、ヘラクレイトスもこう言いたかっただろうが——汝それ自身とて瞬時たりとも同じではない。このヘラクレイトス的思考によって、私たちは生命の核心に近づく」130-1頁→

(承前)「無生のものと生きた自然物の姿を比べると、本質的な違いが発見される。結晶はいつでも同じ構成部分からできていて、おそらくは百万年をも、結晶はそのままとどこおって動かない。ところが生きものの形態は見かけが止っているだけだ。実は生物は絶えることない現象の流れを示している。生物体は定常的に物質交代しているため、その構成部分は一瞬の間もそのままではない。生物の形態は<ある>(sein)というよりもむしろ<なる>(werden)のだ。生物の形態は、生物体にはいりこみこれを作りあげる物質とエネルギーの、ひき続く流れを現わしている。…
 この恒常的な交代は、生物学的体制のあらゆる段階でみいだされる。…どの有機体も一定の見方から眺めると、不変であり定常的であるが、ある段階では不変とみえることも、すぐ下のシステムがたえず交代し、できあがり、生長し、年とり、死んでゆくことによって支えられている。…
 生物をこうして動的に把握することは、近代生物の最重要な原理に数えられ、この原理から生命の根本的な問題が生まれ、この問題を解明することができる」131-2頁→
福岡伸一的なだけでなく、小林武彦的でもあるなあ…😅

(承前)「<物理学的>な立脚点からは、この関係は次のように定義される。生きている生物体は外にむかって閉じられたシステムではなく、<開放系>なのであって、構成素材をたえず外部に与え、また外からうけとる。システムはこのようにたえず交代しつつも、ある<定常状態(すなわち流動平衡)>を保ち、またこの状態へ移行してゆく。
 物理科学はこれまで、もっぱら閉鎖系でおきる過程を扱っていて、反応動力学(分子反応論)、すなわち反応過程の学説に終始した。…生物は全体としては、けっして真の平衡にはない。わりに緩慢な物質交代の過程は、ある定常状態に達するが、定常状態は、流入と流出の状態がたえず一定の差をもつことによって保たれてゆく」132頁

「開放系理論と開放系中に現われる定常状態の理論が、閉鎖系の反応速度論や平衡に関して物理化学が提供してくれる理論を補わなくてはならない。…
 開放系の理論は<物理学のまったく新しい領域>を開拓した。《第2法則は定義により閉鎖系に対してだけあてはまるが、定常状態を定義するものではない》。…プリコジヌ…『<平衡状態と非平衡状態をともに包括する一般的な理論を設定するため、努力せねばならぬ>』…
…閉鎖系の現象はエントロピー増大によって規定されるが、開放系中の不可逆過程をエントロピーその他の熱力学ポテンシャルで特性づけることはできない。システムのむかう定常状態はむしろエントロピーの最小生産ということによって定義づけられる。ここから革命的な見解がでてくる。開放系が定常状態に移行するさいにはエントロピーが減少し、異質性と複雑さとかより高い状態に自発的に移ってゆけるというのである。生物の胚発生や進化…に見られる多様性の高まりを解釈するには、おそらく右[上]の要素が本質的な重要さをもっていよう」133-4頁

「開放系の説は物理学同様、生物学にも新しい一章を画する。長いこと、生物体は《動的平衡》にあるシステムだといわれてきた。これは、生物が構成部分をたえず交代させ続けていることを表現している。…
 生物システムは定常状態システムで、しかもこの系の反応成分数は莫大なもので、はなはだ複雑である。生物体が開放系だというこの特性こそ、生命現象の前提である。…
 体制の段階構造、開放系としての性質、この両者は生きたものの基本原理である」135頁

へーバー(1926)「生物体の中で私たちがまのあたりにみる化学システムは、長いこと、動いている平衡、力学的平衡とみなされてきた。今日では生物体の動的平衡の問題は、もはや根なし草ではない。大胆な高層建築の要石であり、冠りであると思われている」135-6頁

「生物体の定義
…生きている生物体とは、開放系の階層構造を示し、そのシステムの条件にもとづいて構成部分の交代を行うところのものである…
…結晶は、物理学的単位要素(素粒子)にはじまり、原子・分子・さらに結晶格子にいたる階層的体制を示す。だが、構成部分を交代しなから自身を保ってゆくということが、結晶には欠けている。反対に、定常的な水流・炎・定常電流など、生きていないものの定常状態は、交代しながら維持するという要請をたしかに満たしている。だがそこには階層構造が欠けている。…システム自身の中の条件にもとづいて、交代しながら維持されてゆくということは、なんら生気論的なことではない。無生物の中にもこの種のシステムはある」136-8頁

「刺激を与えることは状態を定常状態から<ずらす>ことを意味しており、生物は平衡状態にもどろうとする。…生物の定常状態はゆっくりと確立しては、ゆるやかに変化していくのである」139-40頁

「システムとしての生物体——精密生物学の基盤
…開放系の説は、将来の<生体エネルギー論>の基盤にならねばならぬ。…生物を作りあげている化合物のふくむ化学エネルギーも、もし化合物たちが化学平衡にあれば、転用できない。けれども生物体は定常状態にあるシステムであって、その中では真の平衡にむかってたえず反応が進みつつある。…
…生物体が定常状態にあるシステムとすると、真の平衡との間隔を保ってゆくために、たえずエネルギーを補給する必要が生ずる。したがって生物体は筋や腺・運動その他の多様な活動をするためばかりでなく、定常状態を維持するためにも、エネルギーが必要ということになる。細胞や生物体が行なっているこの<仕事維持>の問題は、生物エネルギー論にとって基本的問題である。開放系の理論は、この問題に必要な原理を与えてくれる…
 生物の代謝の基本問題はその<自己調節>である。生きている生物体では全反応が、結果としてシステムを維持するようにおこっている。これが、生きている生物体と崩れゆく屍体との根本的な区別だ。…自己調節の主要特徴は開放系の一般特性から生ずる結果なのである」140-1頁

「長いこと、生物学は2つの大分野に分かれてきた。一つは生物の形態・構造の理論である。…いま一つは代謝・行動・形態形成の中において生命の特性的過程を研究する生理学。この2分野への分裂は、技術的方法論にも思考上の方法論にも関係があり、必然的なものだった。だが形態学と生理学はそれ自体としては単一な対象を研究するための違った、そして補足しあう二道なのである。
 <構造>と<機能>、<形態学>と<生理学>を対置することは、生物を静止的に把握するところからくる。…しかし生きている生物に対して既製の構造と、この結果としておこる過程とを分離するのは間違っている。生物はたえずつづく過程の表現であり、この過程はその基礎をなす構造や組織化された形態によって支えられている。形態学が、形態ならびに構造として確認するものは、実は時空的な現象の流れの一横断面なのだ。
 構造とは、私たち人間の尺度で測って長期にわたる緩慢な過程の波である。機能とは、これに対して短く急激な過程の波である。…
 生物体の姿は秩序ある現象の流れの中で維持されている。このばあい、いつでもすぐ下のシステムが交代する中で、より高次のシステムは固定しているように見える」142-3頁

「生物体の構造は静止的ではありえず、むしろ動的だと判断されねばならない。…
 生物体の巨視的構造に対しても、原理的には同じことである。巨視的構造のうちで最後までのこるのは、静止している構造ではなく、定常的過程の法則のほうだ。
 生物体を現象の流れの現われとして見ることから生まれる結論は、まことに深いものがある。それは《動的形態学》(フォン・ベルタランフィ)に導く。動的形態学とは、定常的法則によって支配される力の働きから、生物の形態を導きだそうというもので、このゆきかたによれば、代謝・生長および形態形成の領域を連合させうる。
 生物の根本の謎の一つは生長であり、生長できるという能力の中にこそ、人は生命の中心的な秘密をみてきた。…開放系として生物体を扱うというやりかたを使えば、正確な<生物生長の理論>を発展できるし、この理論は、生物の生長という基本現象に、説明と法則性を与えてくれる」144-5頁

「ドリーシュが生気論の証明とみなしたあの実験にもう一度たち帰れば、彼のウニの実験の注目すべき結果は、等結果性(Äquifinalität)の概念で説明される。エクウス(aequus)は等しいこと、フィニス(finis)は結果である。等結果的な現象とは違った初期条件・道すじを通って同じ最終目標に到着することである。ある種の例外を別とすれば、物理現象には等結果性はみられない。…等結果性は、生きているものの中でおこる現象の重要な基本特徴をなす。…
 開放系の行動を解析すると…閉鎖系は等結果的にふるまえないことがわかる。なぜ等結果性が無機の世界一般にみいだせないかの理由はここにある。これに対し、周囲と物質交代をする開放系では、システムが定常状態に達しているかぎり、この状態は初期条件と無関係、つまり等結果的である。等結果性は、定常状態に向いている開放系においては、現象の必然的、合法則的な帰結である。開放系の中では、止まることのない流入と流出、構成と崩壊がおきている。…最終の状態は初めの条件によるのではなく、いまいった関係を支配するシステムの条件によるだけなのである」150-1頁

「目的指向性は生命のきわだった特徴で、その本質は生気論的にしか説明できないと思われていたが、これも生物の特有なシステム状態からでてきた必然的な結果だ…つまり、開放系としての特性が生んだ結果なのである。
…見かけ上物理的法則性に反するため《生気論の論拠》とされてきた要素も、開放系の理論の中では、あざやかにでてくることが、ことに注目すべき点である。ドリーシュの《生気論の第1の論拠》であった等結果性は、開放系の現象として当然の結果なのである。代謝の自己調整や、無数の反応の相互作用で細胞が維持されたえず更新されることは、エンテレキー因子の導きだとばかり思いこまされてきた…のであったが…原理的には開放系の原理から了解できる。…シュレディンガーのいうごとく、生物体は、無秩序の原理から統計的に生ずるところの熱力学的法則性できまるシステムではありえない。…けれどシュレディンガーは、生物が《仕組み》だとか《時計仕掛け》だとか考えるだけでは不十分だということを、じつはよく感づいて[ママ]いた…ので、《原子の運動を監督する》『私』というものを持出すほかなかったのである」152頁

「エントロピー命題によると、現象は秩序の度合が下がるほうへと向かってゆくのであるが、生きているものの中では、より高度の秩序へと移行が行なわれている。そこでヴォルテレックは《非空間的な内的生命》の《指導衝動》をもちだす。これに対して開放系は、まったく新しい観点を提唱する。この種のシステムではエントロピーも無秩序性もともに極大になる必要はおこらず、熱力学的平衡によって過程が停止する必要もまたない。自発的な秩序、さらに秩序の高まりさえ、現われてよいのである。もう一つの要素としては、遺伝子や染色体が分割しながらも《そっくりもとのまま》でいるという、同型複写が問題となる。ドリーシュはこれが《第2の生気論の論拠》だと考えた。だがこの現象も、定常状態にあるシステムとしての生体の特性からみれば、もっともなことにすぎない。しまいに、ドリーシュの《第3の生気論の論拠》は《行動》と《反応の歴史的な基礎》にもとづいている。これも、神経系の活動を動的に解釈する…ことと結びつくところの、記憶のシステム理論…をもってすれば説明できそうである」153-4頁

「《全体は部分の総和以上である》、全体は部分に対して《新しい》特性と関係とを示すとの命題。存在の高次の段階は低次のものへ《還元され》うるかという問。これが《全体性的(synholistisch)》理論すべての核心をなす」155頁

「高次段階の特性と作用は、<分離して得た>成分の特性と作用をいくら寄せ集めても、説明できない。だが別々の成分の<総体>を知り、<成分の間になりたつ関係>を知れば、高次段階はその成分から導きだせる。
…個々の部分の条件をきめ、全システムの境界条件を規定すれば、全システム中の分配が《部分から》導きだせるのである。
…システムを知るには《部分》同様、部分の間になりたつ《関係》をも知らねばならぬことや、どのシステムも一つの《全体》であり《ゲシュタルト》…を表わしていることは、わかりきっている。このようなことが生物学分野で問題にもなり、必要な議論の緒にもなるのは、生物学がいわゆる機械論の仮定を誤って適用し、一方的に《部分》ばかりを気にして《部分の間の関係》をなおざりにしたからなのである。…
 いわゆる力学的世界像が物理学と生物学で基礎概念としていたのは、一度つくった一組の法則から自然現象がのこらず導きだせる、ということであった。ラプラスの理念がこれであった。…
…実在論の意味では、つぎのようにいえるのではなかろうか。どのシステムも<潜在的には>より高次の力を潜めているが、システムがもっと高次の構成にはいりこむときまったとき、はじめてこれが作用をおこす」156-8頁

「生物学での《メカニズム》…メカニズムの意味のうちで、はっきりしているのは《非生気論》ということだけだ。つまり自然科学の研究が近づきがたい、擬人的な感情移入でしか説明できない要因を、排除することであるが、この意味てのメカニズムは自然科学と同義だから、自然科学的生物学はどれも《メカニズム的》である。しかし、もっと精密な定義ということになると、考えかたがまちまちである。…
 私たちは正確な理論的定量的生物学の闘士をもって自ら任じていればこそ、《精密》科学の中で《法則》だとされているものが、世界のほんの一かけらにすぎないことを力説したい。…
 この意味で、生物学はけっして物理学に《解消》しない。生物学が《自律的科学》として、物理学と相対する地歩を占めることはいうまでもあるまい。この確言は《生物学的メカニズム》の問題の外側にあることで、メカニズム的考え方〔自体の可否〕を判断することはまったく別である。メカニズムの問題を判断することは、私たちがそれを《法則》の形で言明しうるところの、生きたものの分野における一般的な秩序の特徴に関係するのである」159-62頁→

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