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「原始構造を研究するにせよ、化合物の構造式や結晶の空間格子にせよ、何につけても体制が問題になり、この問題は近代物理学でもっとも緊急でしかも蠱惑的なものに思われる。そう考えてみると、生物に対して分析=加算的取扱いをするのはとんだ見当違いということになる。…
…生物学が当面する課題は、秩序と体制とが法則性をもっていることを生命の領域で確立する点にある。そして実際、これらの法則性は…あらゆる段階の生物学的体制について探究されなくてはならない。物理=化学的段階。細胞=多細胞的編成の段階。さらに多くの個々の生物体からできている生命共同体の段階と」16-7頁

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(承前)「第2に、全体は時々、ばらばらにした部分にはみられない特性や振舞いを示す。生命の問題とは<体制>の問題であり、個別事象を取りだしてみるかぎりでは、生物と無生物との間に根本的な区別は立てられない。…私たちが生物の中ででくわす部分や事象は、独特で特異的な配置をしているのであって、この本質的な問題点が、近頃になって提示されてきた。細胞を構成する化合物全部を知ったところで生命現象は解明されない。…むしろ生命とは個体となって体制化されたシステムに関係するものだ。システムを壊せば生命も消えうせる。
…個々の過程ではなしに一個の生物体中の過程全体とか、生体のうちの部分システムである細胞と器官とか、一定の区域の内部におきる過程全体を対象にとると、生きているものといないものの原理的な違いが明るみにでてくる。そうやってみるとわかることだが、あらゆる部分や過程はすべて、生体システムの維持・建設・修理または増殖を保証するように配置されている。この配置が、生体中での現象を、死んだシステムや屍体中の反応から根本的に区別する点である」14-5頁

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「生きたものの中にある個々の部分や経過を分析するのは、<欠くべからざる>ことであり、それぞれの構成要素をもっと深く知る前提でありはするが、分析だけでは<十分ではな>い。
 生命の諸現象——物質代謝・刺激に対する反応性・増殖・発生等——は、もっぱら空間的にも時間的にも有限で多少とも複雑に組立てられた自然物の中でおきる。まさにこの複雑な自然物を私たちは《生物体》とよんでいるのだ。生物体はそれぞれ一つの<システム>を意味している。システムという表現は、たがいに作用しあう諸要素の複合体をさす。
 このあたりまえに見える表現から、分析=加算的な考え方の限界がただちにみえてくる。まず第1に、生命現象をすっかり単位要素に分解してしまうことはできない相談で、各部分、各事象は自身に内在する条件のほか、多少とも<全体>によって左右される。全体とは個々のものを内に含みながら、部分より上位に位する単一体である。そこで一般に単離された部分における事態は、全体とのつながりをもっている場合とは違った関係にある。…生命の諸特性は物質と過程が組織化(体制化)することからおこり、またこの組織化と結びついているシステムの諸特性である。そこで、全体をかえれば特性もかわり、全体を破壊すればその特性もまた消えうせる」13-4頁→

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「これまでの生物学の研究や考え方は、3つの指導原理できめられていた。<分析=加算的>、<機械理論的>および<反応理論的>な見方と呼んでいるものがこれである」11頁

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「生物学の近時の発展は、古典的見解〔生気論と機械論〕のどちらにも無制限の権利を認めず、新しい第3の立場からこの2つを克服したのであって、これは近代生物学発展の揺がぬ成果といえるであろう。著者はこの第3の観点を<有機体論の見方>とよび、ざっと20年このかたその説を発展させてきた」10頁

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「機械論と生気論は烏鷺を闘わすこと二千年にわたっていて、さまざまないでたちと変化と形態とをとって現われこそすれ、本質的には同じ論議のむし返しである。これは結局人間精神の乖離しあう2傾向を、煎じつめて表現しているのだ。一方は、生命を自然科学の解釈と法則性に従うものと結論しようという努力である。他方には私たち自身の精神の体験というものがあって、これを自然界にある生命の尺度として用いるのであり、また私たちの科学的認識にある見かけの、また本物の隙間をこれで埋めようというのである」10頁

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「研究が進展するにつれて生気論的に考えられていた現象は自然科学の解釈と法則性の埒内にたえずとり込まれ続けていった。ドリーシュが胚発生の調節を目にして、生命の現象に向かって宣言した支払不能〔つまり彼の時代の科学、したがって彼自身の生命に対する《どうにもならなさ》〕が必然的なものではなくて、むしろ生気論的な立証こそまさに否定すべきものである」9頁

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(承前)「だが、どうあっても生気論を自然科学の教義として受けいれるわけにはゆかないことは、一見してわかる。生気論によると生物体の構造も機能もいわば妖魔の群の掌るところとなる。彼らが生物体を創りだし動きぐあいを支配し、また機械の破綻を補修するわけだが、こんな考えからはそれ以上深い洞察を引きだすことはできない。今でさえ説明しにくくみえるものを、もっと謎めいた原理にもってゆき、探究しえない疑問符にそれを集約するだけのことだ。生気論とは、まさに生命の本質的な問題点を自然科学の認識からひき離すことにほかならない、自然科学的探究は本来の意味を見失う。幼稚な自然観察者は生き物が見かけの上で合目的的に目標に向って努力するのをみて、自分と同様に知恵や意志が支配するのだと考える。最上級に手のこんだ研究方法をとっても、生気論はこういう観察者の擬人法的解釈以上のことをやれるはずはないのである。…何であろうと、生気論から受ける答はいつでも同じ一つのものだ——てっきり何か精気めいたもの要因があって、事件の後で糸をひくのだ。生気論の否定こそが生物学の歴史である。なぜなら歴史も示すように、その時々の研究段階では解釈できそうもない現象こそが、いつも生気論の縄張りだとされてきたのだから」8-9頁

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(承前)「そこで、ふつうには<機械論>および<生気論>と名づけられている2つの生物学上の基礎概念が対立しあうにいたった。…
 生気論は生命を洗いざらい物理=化学的に説明しつくせるものとは認めない。生気論は生きている物と生きていない物の間に質的差異があると主張する。この説はまずはドリーシュもいうとおり、調節現象から始まる。…他の生気論者たちは機械論を底の底まで考えたあげく、生気論の立場に行きついた。…ダーウィン理論は創造する神霊にかわって偶然性を据えた。…この解釈は各生物機能に関して予想を与えたが、同じように体制設計の大筋や、無数の生理過程の共同作業のなり立ちにも自然淘汰説ではたして間にあうのかどうかは現在ではまだ見通しをつけにくい。…見渡しきれぬほど多数の物理=化学的過程が秩序だっておこって、生物体を保ってゆき、ひどい攪乱の後でさえもとの通りに回復させるが、この秩序や、また精妙な生物《機械》の成立ちは、生気論の意見にしたがえば、特殊な生命要因の支配するところだという。エンテレキー、知られざるもの、世界精神など、物理=化学的現象の経過に干渉し、目標めざして舵をとるこのものをどう呼ぶかは、いろいろである」8頁→

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「いまでは古典ともなった研究の結果、ドリーシュは、物理=化学的に生命が解明できるという説に肯んじようとしなかった。
…生命を物理=化学的に説明することは、ここにきて原理的に行きづまり、ドリーシュの見解にしたがうと、残された解釈はただ一通りだけである。胚の中でも、また同様に生物体のその他の行動に関しても、物理=化学的自然力とは本質的に違う要因が働いていて、この要因が、最終の典型的生物体を目的として予想しつつ現象を補正してゆくと考えるのである。この要因は、正常の時も実験的に攪乱した発生の際でも典型的な生物体を産みだすという《目標を帯びている》。ドリーシュはアリストテレスの概念にならって、これをエンテレキーと呼んだのである。目的めざして働くような要因を探してみると、私たち自身の行動の中にもそうしたものがある。つまり私たちの目的指向作用という心理学的要因と比べてもいいようなもの——この目的意識こそ生命のないものとあるものの間の根本的な違いではあるまいか、また後者の超機械的・超物理的特性も、その要因が左右するのではあるまいか、ということになる」7頁→

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「生物の構造と機能には驚くべき《合目的性》があって…起こる事柄には秩序があって、その結果、ものすごく複雑な動きをたえず続けながらも細胞は保ちつづけられてゆく。生物はすべて負けず劣らず、器官においても行為においても合目的的に造りあげられ、ふだん住む環境に適合している」3頁

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「フランス啓蒙主義はこの[デカルトの]枠をも叩き破った。1748年に騎士ジュリアン・ド・ラ・メトリーはデカルトの動物機械論に相対して、人間機械(homme machine)を提示したのである」2頁

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「本書では有機体論という範囲の中で、生物学の諸問題と法則性にひととおりふれよう。それから生物学的認識という問題に移ってゆき、最後は結局、現代世界像の一般原理や《一般システム理論》の要請にまで行きつくことになる。
…一般システム理論を、包括的な一つの科学としてつっこんで説明するための基礎もひらける。生物学・医学・心理学・人類学・およびシステム理論の観点から、私たちは心理物理的なものとか実在の問題にまで行きついて、デカルトの流儀による《物質》と《霊魂》の二元論をのり越えようとするのである」vii-viii

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「現在ではあらゆる科学のうちに《全体性》、《体制》、《形態》などの概念によって、すなわちいちばん深い根を現代生物学の領土におろしている概念によって、いいあらわさなくてはならぬ問題がでてきている。
…現在までに生物学が自分の仕事を片づけてきたやり方はいささか安易なものがあって、その考えの基礎は他の諸科学からもってきていた。機械論は物理学、生気論は心理学、淘汰は社会学からの借り物であった。しかし、生物学が一個の科学として任務を全うすること、つまり生物分野に独自な現象を思うままに統御することや、さらにまた世界像の根本概念に寄与するという任務は、生物学が独自に発展してこそはじめて可能なことである。…
 著者は二十数年来、生物学上の一つの立場を発展させてきたが、これは現在では<有機体論の立場>としてひろく知られるようになった。…たとえば《開放系》理論は、物理学や物理化学の領域に新しい視野を開いたし、生物学の多くの分野でも、生物システムに独自の正確な法則性を展開するという課題を設けた」vi

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「生物学は物理や化学にもとづいていて、これらの学の法則性は生命現象の探究になくてはならない前提となる。けれどもまた生物学に固有の問題も多い。たとえば生物の形態・合目的性・系統発生的な進化などは物理学には見られぬもので、生物学者の研究やものの見方を物理学者から区別するのは、こうした問題に他ならない。そのうえ生物学は心理学と社会学とに足場を与える。…生物学はこのような立場にあるので、一般的な問題に富んでいる点では全自然科学の中でも最たるものにちがいない。《生命》現象こそは、ふつうの区分にしたがえば、一方では自然科学から、他方では精神科学から糸をひく考え方が出会う場所である」v

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von Bertalanffy, Ludwig. (1949) Das Biologische Weltbild I: Die Stellung des Lebens in Natur und Wissenschaft, A. Francke AG.
=1954→1974 長野敬・飯島衛訳『生命——有機体論の考察』みすず書房

「私たちは遠近法主義(perspectivism)とでもいうべき見解に到達する…『還元主義者』の主張では、ありとあらゆる科学と実在のすべての側面とが最後に還元されていくべき唯一のものは物理学的理論であるとするが、それに代わって、私たちはもっとつつましい見解を採る。…私たちがどんなシンボリズムを採るか、したがってまた実在のどんな側面を表現しようとするかは生物的、文化的因子に依存する。物理学の体系については、特異なものやとりわけ聖なるものはない。私たち自身の科学の内部では、他のいろいろのシンボリズムたとえば分類学のそれ、遺伝学のそれ、芸術史のそれのようなものが、精密さが同じとはとてもいえる滋養体にはないが、どれも等しく適法なはずである。そして人間の他の文化や、人間と異なる知性の世界では、実在の他の側面を私たちのいわゆる科学的世界像と同程度あるいはそれ以上にさえ反映する、根本的に異なった種類の『科学』が可能かもしれない」240頁

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「要素論的な性質に対する全体論的なもの——後者も前者に劣らず『実在の』ものなのだが——を取り入れることができるためには最大限の努力を払わねばならない」239頁

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「空間、時間、物質、因果関係といった直観とカテゴリーの周知の形は、人間という動物が生物学的に適応している『中くらいの大きさ』の世界で十分その役割を果たしている。…
 さて科学の世界に入ってくると、物理学的世界を数えきれないほどの生物学的外界の一つにすぎないとするユクスキュルの考え方は、まちがっているか少なくとも不完全なものとなる。ここでは漸進的な科学の脱擬人化ともいうべききわめて顕著な傾向が生じている。…
 科学が次第に脱擬人化する、すなわち、人間特有の経験に負うような性格のものを次第になくしてゆくことは、科学のもつ本質的特性である。…
…観測可能なものを拡げていくのが科学の一つの機能である。機械論的見方と反対に、私たちはこの拡張につれて別の形而上学的な領域に踏み込んでいくわけではないことも強調しなければならない。…
…いずれこうしたことは、人間特有の心理物理学的オーガニゼーションによって課せられている経験の限界をとり去り、またこの意味で、世界像の脱擬人化に行きつくことになる」236頁

限界突破😅

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「ピラトの『何が真理か』という疑問には次のように答えるべきである、動物や人間が現在存在しているという事実がすでに、彼らの経験の形がある程度実在に対応していることを証明しているのだと。
…経験のカテゴリーが完全に実在の世界に対応する必要はないし、ましてそれを完全に表現する必要はない。刺激から選びとられたむしろ小さな一部分が、導きの信号として使われれば十分なのである——そうしてこれがユクスキュルの主張であった。これらの刺激の結びつきぐあい、すなわち経験のカテゴリーに関していえば、実際の出来事の網目をこれがそのまま鏡のように映す必要はないが、一定の許容度の範囲内でそれと同形でなければならない。…生物学的理由により、経験が完全に『まちがって』おり、任意のものであるということはありえない。しかし一方、経験が生物にその存在を続けさせるような形で導きを与えうるためには経験世界と『実在』世界との間に一定程度の同形性が存在することで十分である。…
…知覚と経験のカテゴリーは『現実』世界をそっくりそのまま映す必要はない。ただしかし、自らの位置を正しく定め生きのびることができる程度にはそれと同形でなければならない」234-5頁

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