「現在ではあらゆる科学のうちに《全体性》、《体制》、《形態》などの概念によって、すなわちいちばん深い根を現代生物学の領土におろしている概念によって、いいあらわさなくてはならぬ問題がでてきている。
…現在までに生物学が自分の仕事を片づけてきたやり方はいささか安易なものがあって、その考えの基礎は他の諸科学からもってきていた。機械論は物理学、生気論は心理学、淘汰は社会学からの借り物であった。しかし、生物学が一個の科学として任務を全うすること、つまり生物分野に独自な現象を思うままに統御することや、さらにまた世界像の根本概念に寄与するという任務は、生物学が独自に発展してこそはじめて可能なことである。…
著者は二十数年来、生物学上の一つの立場を発展させてきたが、これは現在では<有機体論の立場>としてひろく知られるようになった。…たとえば《開放系》理論は、物理学や物理化学の領域に新しい視野を開いたし、生物学の多くの分野でも、生物システムに独自の正確な法則性を展開するという課題を設けた」vi
「いまでは古典ともなった研究の結果、ドリーシュは、物理=化学的に生命が解明できるという説に肯んじようとしなかった。 …生命を物理=化学的に説明することは、ここにきて原理的に行きづまり、ドリーシュの見解にしたがうと、残された解釈はただ一通りだけである。胚の中でも、また同様に生物体のその他の行動に関しても、物理=化学的自然力とは本質的に違う要因が働いていて、この要因が、最終の典型的生物体を目的として予想しつつ現象を補正してゆくと考えるのである。この要因は、正常の時も実験的に攪乱した発生の際でも典型的な生物体を産みだすという《目標を帯びている》。ドリーシュはアリストテレスの概念にならって、これをエンテレキーと呼んだのである。目的めざして働くような要因を探してみると、私たち自身の行動の中にもそうしたものがある。つまり私たちの目的指向作用という心理学的要因と比べてもいいようなもの——この目的意識こそ生命のないものとあるものの間の根本的な違いではあるまいか、また後者の超機械的・超物理的特性も、その要因が左右するのではあるまいか、ということになる」7頁→
(承前)「そこで、ふつうには<機械論>および<生気論>と名づけられている2つの生物学上の基礎概念が対立しあうにいたった。…
生気論は生命を洗いざらい物理=化学的に説明しつくせるものとは認めない。生気論は生きている物と生きていない物の間に質的差異があると主張する。この説はまずはドリーシュもいうとおり、調節現象から始まる。…他の生気論者たちは機械論を底の底まで考えたあげく、生気論の立場に行きついた。…ダーウィン理論は創造する神霊にかわって偶然性を据えた。…この解釈は各生物機能に関して予想を与えたが、同じように体制設計の大筋や、無数の生理過程の共同作業のなり立ちにも自然淘汰説ではたして間にあうのかどうかは現在ではまだ見通しをつけにくい。…見渡しきれぬほど多数の物理=化学的過程が秩序だっておこって、生物体を保ってゆき、ひどい攪乱の後でさえもとの通りに回復させるが、この秩序や、また精妙な生物《機械》の成立ちは、生気論の意見にしたがえば、特殊な生命要因の支配するところだという。エンテレキー、知られざるもの、世界精神など、物理=化学的現象の経過に干渉し、目標めざして舵をとるこのものをどう呼ぶかは、いろいろである」8頁→
(承前)「だが、どうあっても生気論を自然科学の教義として受けいれるわけにはゆかないことは、一見してわかる。生気論によると生物体の構造も機能もいわば妖魔の群の掌るところとなる。彼らが生物体を創りだし動きぐあいを支配し、また機械の破綻を補修するわけだが、こんな考えからはそれ以上深い洞察を引きだすことはできない。今でさえ説明しにくくみえるものを、もっと謎めいた原理にもってゆき、探究しえない疑問符にそれを集約するだけのことだ。生気論とは、まさに生命の本質的な問題点を自然科学の認識からひき離すことにほかならない、自然科学的探究は本来の意味を見失う。幼稚な自然観察者は生き物が見かけの上で合目的的に目標に向って努力するのをみて、自分と同様に知恵や意志が支配するのだと考える。最上級に手のこんだ研究方法をとっても、生気論はこういう観察者の擬人法的解釈以上のことをやれるはずはないのである。…何であろうと、生気論から受ける答はいつでも同じ一つのものだ——てっきり何か精気めいたもの要因があって、事件の後で糸をひくのだ。生気論の否定こそが生物学の歴史である。なぜなら歴史も示すように、その時々の研究段階では解釈できそうもない現象こそが、いつも生気論の縄張りだとされてきたのだから」8-9頁
「生物学の近時の発展は、古典的見解〔生気論と機械論〕のどちらにも無制限の権利を認めず、新しい第3の立場からこの2つを克服したのであって、これは近代生物学発展の揺がぬ成果といえるであろう。著者はこの第3の観点を<有機体論の見方>とよび、ざっと20年このかたその説を発展させてきた」10頁
「生きたものの中にある個々の部分や経過を分析するのは、<欠くべからざる>ことであり、それぞれの構成要素をもっと深く知る前提でありはするが、分析だけでは<十分ではな>い。 生命の諸現象——物質代謝・刺激に対する反応性・増殖・発生等——は、もっぱら空間的にも時間的にも有限で多少とも複雑に組立てられた自然物の中でおきる。まさにこの複雑な自然物を私たちは《生物体》とよんでいるのだ。生物体はそれぞれ一つの<システム>を意味している。システムという表現は、たがいに作用しあう諸要素の複合体をさす。 このあたりまえに見える表現から、分析=加算的な考え方の限界がただちにみえてくる。まず第1に、生命現象をすっかり単位要素に分解してしまうことはできない相談で、各部分、各事象は自身に内在する条件のほか、多少とも<全体>によって左右される。全体とは個々のものを内に含みながら、部分より上位に位する単一体である。そこで一般に単離された部分における事態は、全体とのつながりをもっている場合とは違った関係にある。…生命の諸特性は物質と過程が組織化(体制化)することからおこり、またこの組織化と結びついているシステムの諸特性である。そこで、全体をかえれば特性もかわり、全体を破壊すればその特性もまた消えうせる」13-4頁→
(承前)「第2に、全体は時々、ばらばらにした部分にはみられない特性や振舞いを示す。生命の問題とは<体制>の問題であり、個別事象を取りだしてみるかぎりでは、生物と無生物との間に根本的な区別は立てられない。…私たちが生物の中ででくわす部分や事象は、独特で特異的な配置をしているのであって、この本質的な問題点が、近頃になって提示されてきた。細胞を構成する化合物全部を知ったところで生命現象は解明されない。…むしろ生命とは個体となって体制化されたシステムに関係するものだ。システムを壊せば生命も消えうせる。
…個々の過程ではなしに一個の生物体中の過程全体とか、生体のうちの部分システムである細胞と器官とか、一定の区域の内部におきる過程全体を対象にとると、生きているものといないものの原理的な違いが明るみにでてくる。そうやってみるとわかることだが、あらゆる部分や過程はすべて、生体システムの維持・建設・修理または増殖を保証するように配置されている。この配置が、生体中での現象を、死んだシステムや屍体中の反応から根本的に区別する点である」14-5頁
「次の3つの拠りどころから私たちは構造上の秩序を生命現象の基本だとは考えかねる。
まず第1、生命現象の全分野にわたり、調整——攪乱から回復すること——の可能性がみられる。たとえばドリーシュは、胚発生の時に行われる調節は《機械》ということを基盤にしてはありえないと主張したが、まさにそのとおりなのである。なぜなら、固定された構造は一定の働きかけにだけ応ずることしかできないので、勝手な要求に対しては応じうるものではないからだ。
第2に機械と生物との構造には、根本からの区別があって、前者はいつでも永続的な構築素材でできているが、後者はたえず更迭し、いつも崩れてはまた作られて、はじめて自分の体を保ってゆく。生物体の構造は秩序づけられた諸過程の現われそのものでさえあるし、また、これら諸過程にあってこそはじめて成り立つものなのである。だから、生物の諸過程がもつ根本的な秩序性は、既成の構造の中でなく、むしろ過程自身の中でしか探しだすことができないのだ」18-9頁→
(承前)「そこで結論は次のとおりだ。ます全システムに含まれている諸条件の交互作用で、つまり<動的>秩序によって、生物体の現象に方向が与えられる。生物の調節能力を裏づけているのはこの動的秩序である。つぎには機械化が進みだし、はじめは統一された行動だったものがばらばらにほぐれ、個々の過程が一定の構造のもとで行なわれる。構造的=機械的な秩序ではなく、動的秩序が第一であって…生物体は機械<である>のではないが、ある程度まで機械<となる>のだ。機械となって固定するのだ。もちろん機械になりきるわけではない。つまり全然機械になってしまえば、生物体は撹乱されても調節することができないから、外界の与える制約がしょっちゅう変わっても、これに辻褄をあわせていけないわけだ。生物体の諸過程は、構造にしっかり結びついた個々の過程が単に集まっただけのものてはなく、それはむしろ多少とも、動的なシステムの内部で規定される現象の性質を備えている。生物が、変化する要求に適応する能力をもち、攪乱に際して調節力をもっているのはそのためである」20頁
(承前)「これらのモットーによって機械論と生気論の論争は克服できるのであって、そもそもこの両説はともに分析=加算的・機械理論的な見方からでてきている。機械論は生命のまさに基本の問題たる秩序・組織性・全体論的および調節に対してなんの解決も与えはせず、分析的研究においては、上の問題は解決されぬままに残る。…生気論はまさにこの未解決の問題から生まれたのであるが、これとて加算的・機械的な理解を越えるものではない。それどころかこの説においても生物体は部分や仕組みの集まりなのだ。ただ生気論では、これが何か霊気めいた操師の手に委ねられ、完成されると思うだけにすぎない。たとえばドリーシュは、胚とは細胞が《加算的に並びあったもの》で、これがエンテレキーによって始めて[ママ]完成されると述べている。生気論者も機械論者と同じく、有機的なシステムという中立の立場から出発せず、有機的機械という偏見から出発する。調節の問題や機械の起源という点にきて、生気論者はこの有機的機械という観念ではまに合わないことに気づき、機械論から生物を救わんものと、別の要因を導きいれるのである。この要因は秩序性が乱されれば機械を修復するし、時には機械の作り手としても働く」21-2頁→
(承前)「要するに生物体の秩序や調節を説明するのには2つの可能性しかないと思われていた。生物の秩序性は機械的に固定された構造によるとするか、生気論的な要因によるとするかである。どちらの理解のしかたも不十分であって、機械論的な見方は調節と《機械》の成りたちの問題に答えられない。他方生気論は自然科学的な説明を断念したものだ。
有機体論の見方が、右[上]の両者と相対峙する。一つ一つの要素や過程を確定することも、生物の秩序性を機械類似の構造に帰することも、また秩序化要因としてエンテレキーのごときものに訴えることも、生命現象を認識する上では不十分なのである。…ここに生物学の本質的でしかも独自の課題がある。生物学的秩序性は特殊なものであって無生物領域の法則性を越えていはするが、探究を進めるにつれて、これに次第に近づいていくことはできる。秩序性はあらゆる段階で研究されねばならない。物理=化学的な単位過程およびシステムの段階、細胞と多細胞生物体という生物学的段階、個体を越えた生命単一体の段階、そのどの段階にも新しい〔それ以下の段階にはない〕特質と法則性がある。生物学的秩序性は、広く見て、動的性格のものといえる」22頁
「生命の自律性などということは、機械論では相手にされず、生気論では形而上学的疑問符をつけられっぱなしであった。だが右[上]のようなわけで、有機体論の問題を自然科学的に取り扱うことができるし、現にかなり調べてきている。
《全体性》という表現は過去長くにわたって誤用されてきたが、有機体論でいう全体性とは神秘めいた実態でもなく、私たちの無知の隠れみのでもない。全体性は自然科学の方法で扱えるし扱わねばならない、一個の生物学的実体なのだ。
有機体論は機械論と生気論の折衷でもなく中道でもない。…体制と全体性は、有機システムに内在しており自然科学によって解明できる秩序原理であって、まったく新しい立場にある。…
有機体論の立場は、まず<生物学の研究方法ならびに理論>という意味で、次に<認識論としての意義>の見地から吟味されるべきものである。…有機体論は生物学の基本的問題とそれらへの可能な説明を見てとらせ、またこれと取り組むことを可能にしてくれる。以前の機械論や生気論の立場では、一般にこれらの問題説明をそもそも見いだすことができず、見いだされたにしても不可思議とされて自然科学の方法では手のつけようがないとされた」22-4頁→
「2つの説が対立して、一方は細胞だけが生きており…物質は細胞の死んだ分泌物だと考えた。もう一つの説によると、生きている原形質が改造されて基礎物質になるという。この説は《生命質》なる言葉をもちだしたが、その中には細胞だけでなく基礎物質も含まれているのである。有機体論の見地からフォン・ベルタランフィは次のように指摘した(1930)。第1に、細胞間物質の生長と形態形成とは、それらの物質が自立して《生きている》というには十分でないこと、第2に、いうまでもないが、細胞間物質の生成は個々の細胞の仕事を寄せ集めたものではなくて、全体——しばしば合一された原形質から生ずる(共形質的symprasmatisch)組織であるが——の単一な働きだということ。第3に、生命質のかわりに、システムという見方で考えるべきだということ。階層的秩序をもって組み立てられた生物体という条件の中では、なによりまず細胞が、次には組織が《生きて》いる。組織という枠の中で細胞間物質の演ずる役割は、細胞の枠の中で細胞膜や繊維が果たしているものと同様にみてよい。膜も繊維も、それ自体で《生きて》はいないが、全体としては生きている細胞システムに属するものである」42頁
「これまでの生物学の研究や考え方は、3つの指導原理できめられていた。<分析=加算的>、<機械理論的>および<反応理論的>な見方と呼んでいるものがこれである」11頁