「ローレンツ…は、経験の『先験的な』形は動物が仲間や異性や子や親や餌や捕食者その他の外界の状況に反応するときに従う本能行動の先天的図式と本質的に同じ性質をもつことを、説得力をもって示した。…直観とカテゴリーの『先験的な』形は、何百万年もの進化の中で適応的に進化してきた感覚器官と神経系の身体構造、さらには機械類似の構造でさえあるものに基盤をおくような、生物体の機能である。それらは馬のひずめがステップ地帯に適応し、魚のひれが水に適応しているのとまさしく同じように、そして同じ理由で『実在の』世界に適応している。人間のもつ経験の形だけが唯一可能なもので、すべての合理的存在に対して有効だと仮定するのはさかだちした擬人観である。これに対し、経験の諸形態がいく百万年にわたる生存競争の中で試されてきた一つの適応装置だとする考えは、『外見』と『実在』との間に十分な対応のあることを保証するものである。どんな刺激でもそのままの形で経験されるのではなくい生物がその刺激に反応した形のものとして経験されるのであり、この意味で世界像は心理物理学的なオーガニゼーションにより決定される」234頁
最終盤で適応主義者に豹変するフォン・ベルタランフィー😅
「直接経験に関するかぎり、その生物種の生物生理的オーガニゼーションによって決まる知覚のカテゴリーが、完全に『まちがいである』とか偶然あるいは任意のものだとかいうことはありえない。むしろそれらは、一定の仕方で一定程度までは、『実在』——これが形而上学的意味において何をいうにせよ——に対応しているのでなければならない。人間を含めてすべての生物は、単なる見物人ではない。すなわち世界の舞台をただ眺めているだけで、それゆえ神や生物進化や文化の『魂』や言語が気まぐれに彼の形而上学的鼻先にのせてくれためがねを、像がどんなに歪むしろものでも自由に掛けていい、というものでもない。むしろ彼はドラマの反応者であり能動者(役者)なのだ。生物は外界からやってくる刺激に対して、その生まれつきの心理物理的装置に従って、反応しなければならない。何が刺激、信号、そしてユクスキュルのいう意味での特徴として取上げられるかについては一定の許容範囲はある。けれども、その知覚は動物がその世界の中でうまく生きていくことを許さなければならない。このことはもし空間、時間、物質、因果性といった経験の諸カテゴリーがまったく偽りのものであったなら不可能であろう」233頁→
「物質と精神、外の客体と内なる自我、脳と意識、等々の<デカルト流二元論>は直接の現象論的経験に照らしても、またいろいろな分野の最近の研究からみても誤りだということである。これは元来17世紀の物理学から発する概念化であって、現在の論争の中でも相変わらず広く見られるけれども…すでに時代遅れのものである。現代の見方からすると科学は、唯物論的なものであれ観念論的なものであれ、あるいは実証主義的に感覚資料を至上とするものであれ、形而上学的な言明はしないものとなっている。それは経験の限られた側面をその形質構造の中に再現するための概念構築である。行動と心理の諸理論はその形式構造においても似たもの、つまり同形となるべきであろう。システムの概念はおそらくそのような『共通の言語』の最初のものであろう…遠い将来にはこの方向の発展は『一元的統一理論』を生みだして…物質と精神、意識と無意識といった二側面がそこから最終的に導きだせるようになるかもしれない」215-6頁
「生物的要求の直接的な満足を除くと、人間は事物のではなしにシンボルの世界に住んでいる…またこうも言えるのであろう。物質的であるか否かを問わず人間の文化を動物の社会と区別するいろいろなシンボルの世界は、人間の行動システムの部分、それもおそらくもっとも重要な部分である。人間が理性的動物であるかどうかはたしかに疑うにたりるが、人間が徹底してシンボルを創造し、シンボルに支配された存在であることは確かである。 …人間行動を特徴づけるのに使われるおそらくすべての概念がシンボル活動の結果あるいは異なった側面である…こうしたものはすべて創造的なシンボルの世界という根から由来するもので、それゆえに生物学的衝動と精神分析的本能とか満足の強化その他の生物学的要因には還元できない。<生物学的価値>と<人間特有の価値>との違いは前者が個体の維持と種の存続とに関係するのに対し、後者はつねにシンボルの世界に関係していることである」211頁
「生物体は機械とは違うものであるが、ある程度までは機械となる。機械へと凝固することができる。けれども完全にではない。というのは徹頭徹尾機械化されてしまった有機体は、たえまなく変化する外界の条件に反応できないだろうから…<前進的機械化の原理>というのは未分化の全体からより高度の機能への変換を述べたものであるが。これは特殊化という『分業』によって可能となる。この原理はまた、成分要素における潜在能力と全体の調節性が失われることをも意味している。
機械化の結果としてしばしば、<指導部分>、すなわちシステムのふるまいを統率する成分要素ができてくる。そのような中心は『因果連鎖の引き金』となることができる。すなわち『原因は結果と等価である(causaa equat effectum)』という原理とは対照的に、指導部分の小さな変化が<増幅機構>によってシステム全体に大きな変化をもたらす。こうして、部分と過程の<階層秩序>ができあがる」208頁
「一般に次のようなものにはホメオスタシスの図式はあてはまらない。(1)力動的制御——つまり固定された機構にもとづくのでなく、全体として機能するシステムの中で動く制御…(2)自発活動。(3)目標が緊張の緩和でなく増大となるような過程。(4)生長、発育、創造といったような過程。ホメオスタシスは非効用的な——いいかえれば自己保存とか生存のような一次要求にも、また多くの文化事象のようなそこからの二次派生物にも役立たない——人間活動に対しては説明原理として不十分であるということもできよう。…
…彼[キャノン]は、ホメオスタシスを越えた、『このうえもなく貴重だが不可欠ではないもの(priceless unessentials)』のこともはっきり強調しているのである」206頁
「機能主義、特にパーソンズの見解に対する大きな批判点は、それが維持とか平衡、調整、ホメオスタシス、組織構造の安定性、等々を強調しすぎ、その結果、歴史の流れ、社会文化の変化、内面から方向が決まるような発展、等々が脇役となり、せいぜいで否定的な価値づけの含みをもった『異常なもの』とみなされてしまう点である。それゆえこの理論は保守主義と順応主義の一つであって、『システム』(つまりマンフォードの言葉を使えば現代社会の巨大機構(megamachine))を現状のまま弁護する一方で、社会変革を考え方として無視し、それゆえ防止する立場になる。明らかに、本書で提案しているような形の社会システム理論は、維持も変化も、またシステムの保全も内部構想もともに等しく含むので、そのような批判とは無縁のものである」191-2頁
社会学と誤用進化論😅を中心に読書記録をしてをります
(今はストーン『家族・性・結婚の社会史』1977年)
背景写真はボルネオのジャングルで見た野生のメガネザル
https://researchmap.jp/MasatoOnoue/