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「近代以前のヨーロッパは晩婚(平均初婚年齢は男女とも24歳以上)なうえ、生涯独身者も多い(15%以上)社会だった。結婚したら親と別居する新居制をとっていたため、奉公人として働いて結婚費用を貯めるまでは結婚できなかったのである。これを『ヨーロッパ型婚姻パターン(European marriage pattern)』と言う(Hajnal 1965)。ところが近代的職業の創出によって、20世紀初頭に皆婚化と早婚化が起こった。さらに、死亡率の低下が結婚の絆の安定化をもたらした。その結果、20世紀前半に結婚した夫婦は、史上もっとも安定した結婚生活を享受した」282頁→

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「筆者はさらに、『19世紀近代家族』と『20世紀近代家族』という類型の区別を行った。これはヨーロッパにおける成立時期による命名なので、むしろ『ブルジョワ近代家族』と『大衆近代家族』と呼びかえたほうがいいかもしれない。前者はブルジョワ階級にのみ成立した近代家族であり、社会の他の階級の人々は他のタイプの家族を営んでいるのを前提としている。ブルジョワ近代家族には下層出身の家事使用人がいる。後者は近代家族が大衆化した時代の近代家族であり、ほとんどすべての社会成員が近代家族に暮らしているのを前提としている。家事使用人は原則としておらず、主婦が自ら家事労働を行う…
 社会の全域に等質の家族が存在するようになり、家族が社会の基本的単位となったのは、『大衆近代家族』の時代のことである。その意味で20世紀はまさに『家族の世紀』であった。現代の日常語や社会科学における家族概念も、みな20世紀の『大衆資本主義』を投影している。世界的文脈に置き直してみると、戦後日本家族とは日本で成立した『大衆近代家族』であった」276頁

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「家族論の分野では、1980年代に『パラダイム転換』が起きた。それは一言で言えば、第2次世界大戦後の日本の家族を『家から核家族へ』という一方向的変化として見る枠組みから、ある時代に固有の1つのシステムととらえる枠組みへの転換であった。性役割や家族のあり方など、変わらないと思われがちな私生活にも歴史があるという主張をこめて、筆者は戦後日本の家族を『家族の戦後体制』ないしは『家族の55年体制』と見ることを提案した。そして『家族の戦後体制』は1955年から75年まで続き、それ以降は変容を始めたと考えた」275頁

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「合計出生率(TFR)と女性労働力率との関係が逆相関(1970年)から正の相関(2000年)に変化したのはよく知られている。女性の就労と出産・育児の両立がしやすい仕組みを作った社会ではその両方を高めることができるようになったのである。現在、経済発展を遂げた国々の合計出生率は1.8あたりと1.4あたり、そしてそれ以下の、だいたい3つのグループに分解している…合計出生率が1.8前後に集まったフランス・スウェーデン・イギリス、そしてアメリカ合衆国は、人間再生産コストの『脱家族化』に成功した国々と言える」215頁

これは今日ではもう妥当しないよねえ

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「『ケアの脱家族化』は人類史で初めての実験ではなく、人類史のノーマルへの回帰である」213頁

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「家族が『ケア』によって再生産を担うのは20世紀特有ではなく人類社会を通じて普遍的なはずだ、という疑問をもつ方もいるだろう。これに対しては、家族史研究の豊富な蓄積が答えを提供してくれる。子守など雇用された奉公人が家事や育児を担うことは、近代以前のヨーロッパでも一般的だった。ゴッドペアレントや名付親、宿親などのいわゆる擬制的オヤコ関係を結び、家族外の人々に責任を分有してもらう慣習も、洋の東西を問わず見られる。コミュニティによる群れとしての育児も当たり前で、とりわけ寺や教会などの宗教施設が孤児や親が貧困で育てられない子どもを引き受けたり、高齢者に居場所を提供したりした。家族がケアを担う場合も、その家族は今日とは異なり、広い範囲の親族や養子・養親、時には奉公人さえ含む多様で人工的な集団だった。しばしば男性や子どももケアする側に回った…
 公共領域から切り離された同型的で小さな家族(『近代家族』と呼ばれる)…に社会成員のほとんどが属し、その家族が、とりわけ家族の女性成員が『ケア』を担い、社会の中で『人の生産』(再生産)を一手に引き受けるという体制は、近代以前には、より正確には20世紀の先進国に成立するまで、けっして当たり前ではなかった」212頁

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「『少子化』と言っても、それぞれ第1次人口転換と第2次人口転換の一環である出生率の第1の低下と第2の低下は性質が異なる。出生率は(非有配偶出生が十分に少なければ)有配偶率と有配偶出生率の積に近い。第1の低下はおもに有配偶出生率の低下により起こり、多くの社会では有配偶率は同時期にむしろ上昇した。第1次人口転換は、皆が結婚する代わりに、皆が産児制限をして2、3人の子どもをもつ社会を実現した。いわば『再生産平等主義』の時代であった…。
 これに対し、出生率の第2の低下の主因は有配偶率の低下だった。結婚しない人、できない人、そして子どもをもたない人が増えてきた。皆婚社会も再生産平等主義も終焉した。さらに有配偶出生率もある時期から低下している。有配偶率と有配偶出生率の両方の低下に、さらに再生産年齢人口の縮小が重なって起きているのが、現在の少子化である」211頁

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「狭義の東アジアと南アジアでは、最初の出生率低下が始まって以来、高い性比が続いてきた。強い父系親族集団と男児選好をもたない日本はここでも例外である。小島[宏]は東アジアの第2の出生率低下期の特徴に高い性比を挙げている…1990年における出生性比(男子/女子)は、韓国で117、台湾で110であった…皮肉なことに、出生率低下が遅く始まったために、その時点でこれらの社会では妊娠時の性別判定が技術的に可能となり、性別選択的な人工妊娠中絶が行われることになったのである。『圧縮された近代』の典型例である」202頁

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「諸地域を比較すると、中国、台湾、およびシンガポールのほうが、タイや韓国よりいっそう親族の相互依存関係が強いようだ。中国系社会では親族間の食事や家事の共同が日常的で、世帯の独立性が低いのが通例である…そもそも伝統的に子どもの面倒を見るのは祖父母という規範があり、祖父母による育児援助は後の子どもによる老親扶養とセット、つまり互酬的な関係にあると意識されている。
 日本において親族の役割が相対的に小さいのは、1つには直系家族制をとってきたことと関係していると考えられる。日本の『家』は直系家族制を基本としており、直系と傍系親族の間に一線を画する傾向をもつ。中国系社会の合同家族制が兄弟間の平等な絆を規範とし、世帯分離後もそれを維持するのと対照的である」174-5頁

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「アジア的家族主義は伝統にではなく、政策的共通性に根差しているのではないかと考えさせられる。似ているのはアジアの家族ではなくアジアの国家なのではなかろうか。ケア役割を引き受けようとしないアジアの国家が、家族に重い負担を強いるアジア的家族主義を作り出しているのではないだろうか」106頁

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「社会的に構築された親族関係が円滑に機能するためには、自然の絆は抑制されねばならない。近代家族は愛情と親密性を吐露する場とされるが、大家族はそれを隠すからこそ成立する」103頁

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「徳川時代の人別改帳をデータベース化して歴史人口学的分析を行った落合(筆者)は、子どもとりわけ息子との同居による高齢者扶養が規範であったとされる徳川時代(18〜19世紀)の日本において、それを可能にする人口学的条件はあったのか、息子がいない場合はいかなる代替策がとられていたのかを検討した。その結果、高齢者の20%は婿養子か普通養子を迎えて同居していたことが明らかになった。…
 …朝鮮でも中国でも養子(adoption)が主要な戦略であったが、日本では婿(娘の夫)を相続者とするという方法が他のタイプの養子(たとえば父系の甥を養子にすること)よりも優先された点が特徴的である。すなわち日本では父系制が弱いということである」101頁

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「親族構造に注目し、アジア地域を『父系的アジア』と『双系的アジア』に分けて見ることを提案した。そのうえで、いくつかの大文明を作った『父系的アジア』のイデオロギー的および制度的影響が、中国化、サンスクリット化、イスラム化という文明化の潮流によって、周縁部に位置する『双系的アジア』に浸透していくことにより、アジア地域の多様な伝統を形作っていったという枠組みを示した。その過程がアジアジェンダー史、さらに言えばジェンダーのグローバルヒストリーの基本構造であった」92頁

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「明治民法では、子どもは父親の家に属するものとされた(733条)。婿取り型の結婚は維持されたが、婿が跡取り娘の父と養子縁組することにより、夫の家に妻が入るという形を整えた。近代化は双系的社会における男性の権力を強化し、ときに擬似父系化まで引き起こしたのである」73頁

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「儒教が東アジアと東南アジアに共通する伝統であるなどとは言えない。この地域には少なくとも2つの異なる社会的・文化的伝統が存在する。1つは外婚的父系出自集団が優勢な社会に根差す伝統であり、もう1つは双系親族集団が優勢な社会に根差す伝統である。父系的社会の社会秩序の思想的表現である儒教は、後に周辺の双系的社会に浸透していった。双系的社会の儒教は古来の伝統などではなく、輸入されたものであり、その時代の支配者の目的に合わせて作り変えられて利用されてきたのである。中国のジェンダー史学者たちは、さまざまな地域のさまざまな時代を精査することで、それと同じプロセスを中国史の中にも見ることができると主張している」71頁

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「韓国には、17世紀までは息子も娘も含めた均分相続制度があった。しかし、その後、女性の財産相続権は失われ、国家が貞女の規範化を推し進めていった。スイスの韓国家族史研究者であるマルティナ・ドイヒラーは、このような韓国社会の儒教化が15世紀から17世紀にかけて起こったと論じている」70頁

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「(承前)日本社会の基本構造は、親族構造と農業技術の面で東南アジアと共通する部分が多い。儒教は5〜6世紀に日本に伝わったが、その影響は限定的であった。…日本の社会制度は政治制度ほど儒教思想の影響を受けなかった。『家』として知られる日本の家族制度は、男性中心の傾向を強めたものの、純粋な父系制とはならなかった。男の子どもがいない場合は長女が跡継ぎとなり、長女は相続権をもつ娘として夫を家に迎え入れ(婿取り)、嫁入りする妻に比べて大きな権力をもった。歴史人口学的研究によれば、幕末には5組に1組は婿取り型の結婚であった…したがって、日本の『家』は、中国の家(jia)に似ているというよりも、クロード・レヴィ-ストロースが『メゾン(maison)』…と呼んだ…東南アジアやヨーロッパの特定の地域に見られる家族制度…に近いと考えられる。『メゾン』は土地や建物などの資産をめぐって形成されるもので、親族的絆に基づく出自集団ではない。これは中国家族研究の大家である滋賀秀三が、日本の家が中国の家と違う点として挙げたのとまさに同じ点である」70頁

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「離婚率の高い日本では、寡婦の再婚が一般的であっただけでなく、離婚後の再婚もまた一般的であった。…
 …日本の学界では、少なくとも東アジアの他の地域と比較する限り、日本社会への儒教の浸透は浅かったという見方が一般的である…ここで言う『浅い』には2つの意味がある。1つ目は社会階層についてであり、儒教が影響を及ぼしたのは武士という上層に限られたこと、2つ目には、儒教の影響は思想や政治のレベルにとどまりも日常生活には実質的に及ばなかったということである。…
 日本における儒教の影響が浅かった理由を理解するには、儒教がいかに中国の社会構造、とくに親族構造を反映したものなのかを知る必要がある。中国は、外婚的な父系親族集団の社会であり、親族集団への帰属は父親とのつながりによって決められる。そのため、一般的に女性の性行動は厳しく規制され、女性の相続権も制限された。
 一方、東南アジアの多くの民族集団は双系的な親族構造をもち、歴史的には中国に比べて女性の社会的地位が高く、女性には相続権と性的自由がある。また、農業技術も性別分業に影響を与える。東南アジアから中国南部にかけての稲作地帯では、女性が農業生産にかなりの貢献をしているが、農業従事者が牛を使う中国北部の小麦地帯では、男性が農業の中心的役割を担う傾向があった」69→

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