「科学を拡張して、物理学の中では置きざりにされ、生物、行動ならびに社会科学的現象の特徴的な性質には関係しているような側面を扱うことが必要とされていると思われる。これが、導入されるべき<新しい概念モデル>にほかならない。
…これらの拡張され一般化された理論的な構造あるいはモデルは、学際的なものである——すなわち科学の在来の区分を越えたものであり、いろいろちがう分野の現象に応用できるものである。その結果、いろいろの分野に現われるモデルと一般原理と、特殊法則さえにも同形性が見られることになる。
要約すると、生物、行動および社会の諸科学と現代工学との内容は、科学における基本概念の一般化を必須のものとしている。これは伝統的物理学でのカテゴリーと対比しての新しい科学思想のカテゴリーを意味している。またそのような目的で導入されたモデルは、学際的な性質を帯びている。
…『全体性』と『オーガニゼーション』の一個の理論へと向かう現在のさまざまなアプローチは統合され統一されることになるかもしれない。じっさい、たとえば不可逆熱力学と情報理論のあいだでのいっそうの総合化というようなことは、ゆっくりと発展しはじめているのだ」92-3頁
「要するに私たちの見解は『ホメオスタシス原理を越えて』とでも定義できよう。 (1) S-R図式は遊びとか探検活動とか創造性、自己認識、等々の領域を見のがす。 (2) 経済的な図式はまさに人間特有の達成——漠然と『人間的文化』といわれるものの大部分——を見のがす。 (3) 平衡原理は、心理的および行動的な活動は緊張の緩和以上のものであるという事実を見のがす。緊張の緩和は最適状態どころか、たとえば知覚をうばう実験の場合などは精神病に近い攪乱を招くこともあるのだ。 S-R モデルや精神分析モデルは人間の本性の実際と非常にかけ離れた像であり、したがって、かなり危険なもののように思われる。私たちが人類特有の達成と考えるまさしくそのようなものは、功用主義[ママ]、ホメオスタシス、また刺激ー反応の図式のもとには、ほとんどもちきたすことができないものなのだ。…もしホメオスタシス的維持の原理が行動の黄金律だとしたら、最終的な目標はいわゆるうまく順応した個人、つまり最適な生物学的、心理学的、社会学的ホメオスタシスに自らを維持するよく油のきいたロボットということになろう」106頁
「『合理性の原理』は大部分の人間的行為よりもむしろ動物の『合理性のない』行動にこそ当てはまる。動物や一般に生物体は『擬合理的(ratiomorphic)』に機能して、維持、満足、生存、等々のような価値を最大にする。一般に彼らは、自分にとって生物学的に良いものを選び、有用さ(たとえば食物)の少ないほうより多いほうをとる。
これに対して人間の行動は、合理性の原理からだけではとても説明しきれない。人間において合理的行動の占める範囲がいかに小さいかを示すには、フロイトを引くまでもない。…すべての可能性と帰結をひとわたり調べるという合理的選択などしていない。…私たちの社会では、選択を不合理に<させる>のが、有力な一群の専門家たち——宣伝屋、動機研究家、等々——の仕事になっているが…これは本質的には、生物学的諸因子——条件反射、無意識衝動——をシンボル的な価値と結びつけることによってなされるのである」114頁
「全体としての生物体を考えてみると、それは平衡状態にあるシステムと似た特徴を示す… けれども、生物体の中には平衡状態のシステムがあるようにみえても、生物体自体は平衡システムと考えることのできないものであることは、すぐわかることである。 生物体は閉鎖システムでなく、開放システムである。システムに物質が全然出入りしないときそれを『閉じている(閉鎖)』と呼び、物質の出入りがあれば『開いている(開放)』と呼ぶ。 それゆえ化学平衡と代謝を行なっている生物体との間には根本的な対立がある。生物体は、外に対して閉じていて常に一定の成分を含むような静的なシステムではない。それは(準)定常状態にある開放システムであり、成分物質とエネルギーがたえず変化する中でも質量関係が一定に保たれつつ、その中で物質がたえず外の環境から入ったり、また外の環境へ出ていったりしている」118-9頁→
(承前)「定常状態(あるいはむしろ準定常状態)にあるシステムとしての生物体の特性は、そのいちばん大事な区別点の一つである。一般的な仕方で、基本的な生命現象をこのことの諸結果として考えることができる。比較的短い時間範囲で生物について考えてみると、それは成分の交換によって定常状態に保たれている形状(cofigulation)のようにみえる。これは一般生理学の第一の主要分野に対応する——すなわち、化学的、エネルギー論的側面を扱う代謝の生理学である。定常状態の上により小さな過程の波がかさねあわされていて、これは基本的に二種類のものからなる。まず第一にシステム自身の中から由来する、したがって自動的な周期過程がある…第二に、生物体は環境の一時的変化、『刺激』に対して、その定常状態の可逆的なゆらぎをもって反応する。これは外部条件の変化によってひきおこされ、したがって他律的な一群の過程であり、興奮の生理学に含められる。それらは、定常状態が一時的に攪乱されて、そこからまた生物体が『平衡』へ、すなわち定常状態の等しい流れへと復することであると考えられる」119頁
「物質とエネルギーのたえまない流れと交換の中でシステムを維持していくことや、このことを許すような仕方でなされている細胞内あるいは生物体内での無数の物理化学反応のもつ秩序や、いろいろにちがう条件下でも攪乱の後でもちがう大きさのときでもつねに成分の比が一定に保たれていることは、生体代謝の中心問題である。同化と異化における生物システムの表裏二面的な変化…一定状態の維持に向かう傾向、変質(退化)によって生ずる攪乱を補償するような更新(再生)をもたらす。…細胞内、生物体内の物理化学的過程について、私たちは非常に多くの知識を持ってはいる。しかし私たちは、『個々の過程の完全な説明がついた後でさえも、一個の細胞の代謝全体を十分に理解することからはほど遠いところにある』…ことを見すごしてはならない。…再三再四、問題が生気論的な結論…に持っていかれてしまったのも驚くべきことではないのである」121頁
「たえず連続的に仕事ができる能力は、できるだけすみやかに平衡に達してしまおうとする傾向のある閉鎖システムにおいてはありえず、開放システムにおいてだけありうる。生物体に見いだされるみかけ上の『平衡』は仕事のできない真の平衡ではない。それは真の平衡から一定の距離をつねに保っている動的準平衡である。それゆえに仕事をすることはできるが、他方、真の平衡から距離を保つためにエネルギーの流入をたえず必要とする。
『動的平衡』の維持のためには、諸過程の速度が正確に調和がとれていることを必要とする。このようにしてはじめて、一定の成分が壊れて自由エネルギーを放出していく一方で、エネルギーの流入によりシステムが平衡に達するのを妨げることができる。速い反応は、生物体においても、化学平衡に導く…遅い反応は平衡に達せず定常状態に保たれる。したがって、ある化学システムが定常状態に存在するための条件は、反応速度がある程度遅いことである。…生物体で定常状態が維持されるのは、生物体が複雑な炭素化合物からできているという事実による」123頁
F岡S一の元ネタはこのあたりですかね😅
「まず第一にそれ[等結果性の一般的な定式化]は、一見形而上学的あるいは生気論的な合目的性の概念に、物理的な定式化を与えうることがわかる。よく知られているとおり、等結果性の現象はドリーシュの生気論のいわゆる『証明』の基礎となっている。第二に、生物の根本的な特性の一つ、すなわち生物が熱力学的平衡状態にある閉じた系でなく(準)定常状態にある開放システムという事実と、もう一つの特性である等結果性とが、密接な関係にあることがわかる。…
…しばしば生気論的あるいは神秘的に考えられてきた生物のシステムの多くの特性が、システム概念といくつかのかなり一般的なシステム方程式から熱力学的、統計力学的考察と結びついた形で導かれる…
…個々の生物学的現象の理論は私たちの一般方程式の特殊例であることがわかるであろう」130-1頁
(承前)「第二に<調節>の問題がある。たしかに現代のオートマトン(自動機械)の理論からして自己修復機械というものは考えられる。勝手な攪乱を与えたのちの調節や修復を考えると問題がでてくる。…攪乱がどこで機械あるいは自動機械としての生物体から去ってくれるのだろうか。よく知られるとおりこうした種類の生物的調節は、生命機械がいわゆるエンテレキーと呼ばれる超物理学的な作用によって制御され修復されている証拠として、生気論者が利用したものである。
以上の二つよりずっと重要なのは第三の疑問である。生きている生物体はたえず成分の交換を続けながら一定に維持されている。代謝は生きているシステムの基本特徴である。いわば、たえず自らを消費しながら自らを維持しつづける燃料からなる機械が、ここにある。そういう機械はこんにちの技術の中にはない。別の言葉でいえば、生物体が機械類似の構造をもつことは生命過程の秩序を究極的に説明する理由とはなりえない。なぜならその機械自身が、秩序づけられた過程の流れの中で維持されているのだから。したがって第一義的に重要な秩序は過程そのものの中にあるのでなければならない」136-7頁
「開放システムは環境とのあいだで物質の交換を行なっていて、入るものと出るものがあり、その物質成分を組みたてたり壊したりしているシステムである。…
単純なものでさえ開放システムはいちじるしく注目すべき特徴を示す。一定の条件下では、開放システムは時間に依存しない状態、いわゆる定常状態(von Bertalanffy, 1942のいう<動的平衡>😅)に達する。定常状態は真の平衡からある距離のところで維持されるもので、したがって仕事をすることができる。生物システムの場合にも見られるとおり、それは平衡状態にあるシステムとは対照をなすものである。たえまなしに不可逆な過程、つまり出たり入ったり、組みたてたり壊されたりが生じているにもかかわらず、システムは構成が一定のままに保たれる。定常状態はいちじるしい調節の特徴を示し、それは等結果性ということにおいて特によく見てとられる。開放システムでは定常状態が達せられると、それは初期条件に依存せず、システムのパラメータ、つまり反応速度や輸送速度によってだけ決定される。これが多くの生物過程、たとえば生長の場合に…見いだされる<等結果性>と呼ばれるものである」137-8頁→
(承前)「それゆえ閉じた物理化学的システムと対照的に、異なった初期条件から出発したり過程に攪乱を与えたりしても、同一の最終状態が等結果的に達せられる。さらに、化学平衡の状態はその過程を促進する触媒に無関係だけれども、それと対照的に、定常状態は、存在する触媒とそれらの反応定数とに依存する。開放システムでは、<いきすぎ>(overshoot)や<出足の遅れ>(false start)の現象…がおこって、最初は逆の方向に進んでも、けっきょく最後には定常状態に導かれる。また、生理学でしばしばいきすぎと出足の遅れの現象が見られるということは、開放システムにおいての過程を扱っているのだということを示している。
熱力学の見地からいうと、開放システムは自らを統計的に高度に不確実な状態、秩序とオーガニゼーションをもつ状態に維持することができる」138頁→
(承前)「熱力学の第二原理に従えば、物理学的な過程の一般傾向はエントロピーを増す方向、すなわち確率を増し秩序を減らす状態に向かう。生物システムは自らを高度の秩序と不確実性の状態に維持し、あるいは生物体の発育と進化の場合のようにオーガニゼーションを増す方向に進みさえする。そのへんのわけはプリゴジーヌの拡張されたエントロピー関数の中に与えられている。閉鎖システム中では、エントロピーはつねにクラジウスの方程式に従って増大する。 dS≧0 …開放システムではそれと対照的に、エントロピーの全体の変化はプリゴジーヌに従えば次のように書かれる。 dS=deS+diS …deSは移入によるエントロピーの変化を意味し、diSはシステム内の不可逆過程、たとえば化学反応、拡散、熱輸送などによるエントロピー生成を意味する。diSの項は第二原理に従ってつねに正である。deSのエントロピー輸送のほうは、正でも負でもありうる。負になるのは、自由エネルギーの潜在的な担い手としての物質、すなわち『負のエントロピー』が入ってくることによる。これが生物体システムにおける負エントロピー傾向の基礎であり、『生物体は負のエントロピーを食べる』というシュレーディンガーの言葉の基礎でもある」138-40頁
「開放システムは普通の閉鎖システムに対して通常の物理法則に矛盾するようにみえる特徴を示す。こうした特徴はしばしば、生命の生気論的特徴、すなわち物理法則に従わず、生命事象に生気の類とかエンテレキー的要因をもちこんではじめて説明できると考えられた。生物的な調節の等結果性などはたしかにそうであって、たとえば、同一の『目標』である正常な生物体が、正常な卵からも分割された卵からも、二つくっつけ合わせた卵からも作られるというようなことがある。じっさいにこれはドリーシュによれば、もっとも重要な『生気論の根拠』であった。同じように、物理的自然においてエントロピーと無秩序が増加していく傾向と、発生や進化での負エントロピー傾向のみかけ上の矛盾は、しばしば生気論の論証として用いられた。そうしたみかけ上の矛盾は、物理学理論を開放システムへ拡張、一般化するとともに消えてしまうものである」140頁
「何年か前に、生命の基本特徴となる、代謝、生長、発生、自己調節、刺激に対する反応、自発的な活動、等々は結局は生物体が一つの開放システムであるという事実の結果からくると考えられることを指摘した。それゆえ、このようなシステムの理論はいろいろな面の異質の現象を同じ一般概念のもとに結びつけ、定量的な法則をひきだすべき統一原理となるであろう。私はこの予言がほぼ正しいことがすでに証明されて数多くの研究によって検証されていると信じている[😅]。
…開放システムの理論は<一般システム理論>の一部分である。この分野は、要素の性質やそれらを支配する力のいかんにかかわらずひろく一般のシステムに適用できる原理を論ずるものである。一般システム理論はもはや物理的、化学的な実体がどうであるということは論じない[😅]。完全に一般的な性質をもつ全体というものについて議論をするレベルに達する。だが開放システムのある種の原理は、種間の競争と平衡を扱う生態学から、人間の経済学その他の社会的分野まで、広い範囲に依然としてなりたち、成功裏に適用できるものである」144-5頁
「<開放システムとサイバネティクス>…
開放システム・モデルの基礎はその要素の動的な相互作用にある。サイバネティクス・モデルの基礎はフィードバック・サイクル…にあり、このサイクルは情報のフィードバックによって、望む値(目標値)を維持したり、標的に到達したりする。開放システムの理論は一般化された反応速度論と熱力学である。サイバネティクスの理論はフィードバックと情報に基礎をおく。…
反応速度論的および熱力学的形成の開放システム・モデルは情報については語らない、[ママ]他方、フィードバック・システムは熱力学的および反応速度論的には閉じている。それは代謝をもたない。
開放システムでは秩序の増加とエントロピーの減少が熱力学的に可能である。その大きさである『情報』は、負のエントロピーと形式的に同じ式で定義される。けれども閉鎖的なフィードバック機構の中では情報は減少する一方であり、けっして増加しない。すなわち情報は『ノイズ』に変換されうるが、その逆はない」145頁→
(承前)「開放システムは『能動的に』より高度のオーガニゼーションの状態へ向かってゆくことがある。すなわち、システムの条件に従って秩序の低い状態から高い状態に移ってゆくことがある。フィードバック機構は『学習』によって、すなわちシステムに供給された情報に『反応』して、より高いオーガニゼーションの状態に達することができる。
要するに、フィードバック・モデルはもっぱら『二次的』な制御、すなわち、言葉の広い意味での構造配置に基礎をおく制御に適用されるものである。けれども生物体の構造は、代謝と成分の交換との中で維持されているのであるから、『一次的』制御は開放システムの動力学から由来するものでなければならない。生物体は発生の過程でだんだんと『機械化』される。そのため後期になっての調節は、特にフィードバック機構に対応したものとなる(ホメオスタシス、合目的的行動その他)」145-6頁
「ここで私たちがとりあげている根本問題は、私の信ずるには、こんにちの生物学の信条が『じゅうたんの下に敷きこんで隠してしまった』たぐいの問題である。…
これに対しては、淘汰(選択)とか競争とか『最適者の生存』とかはすでに自己維持システムの存在を<前提>していることを指摘しなければならない。それゆえ自己維持システムは淘汰の<結果>ではありえない。…最大の子孫を生みだす遺伝子型の選択というようなことは、ほとんど助けにならない。増殖力の差によるのならば、いったい進化が増殖率ではかなうもののないウサギ、ニシン、それどころか細菌を越えてなぜ進んだか理解することはむずかしい[😅]。局所的に高度の秩序(および低確率性)をもつ状態を作ることが物理学的に可能なのは、ある種の『オーガニゼーションの力』が場面に登場しているときに限る。…けれどもそういうオーガニゼーションの力は、ゲノムを『タイプの打ちまちがい』の蓄積と考えるときには、あからさまに否定されているのだ」147-8頁
「これまで支配的であった自然の機械論的な概念は、物事を線形(一直線)の因果連鎖に分解すること、世界を機械的事象と物理学的またダーウィン的な『サイコロ遊び』(Einstein)の結果と考えること、生物学的過程を無生物的自然から知られた法則に還元することを強調してきた。これに対して開放システムの理論(および一般システム理論としてそれがさらに一般化されたもの)では、多変数相互作用の原理(たとえば不可逆熱力学における反応速度論や流束や力)が浮かびあがってくる。それは過程の動的なオーガニゼーションということであり、また生物学領域の考察のもとで物理学法則を拡張していく可能性があるということである。それゆえこうした展開は、新しい科学的な世界観定立の一部分をなすものである」😅 149頁
「細胞と生物体はいわゆる定常状態(流動平衡Fliessgleichgewicht, von Bertalanffy)の中でほぼ一定に保たれる。これが生物システムの一つの根本的な神秘である[😅]。代謝、生長、発生、自己調節、増殖、刺激ー反応、自律的な活動などのような他のすべての特徴は結局のところこの基本的な事実からの結果である。生物体が開放システムであることは今や生物システムのもっとも基本的な規準の一つとして、すくなくともドイツの科学に関するかぎり、認められている…
…合衆国の生物物理学や生理学では同じようにいえないのは残念である。私は代表的なアメリカの教科書をのぞいてみたが、『開放システム』とか『定常状態』とか『不可逆熱力学』という言葉さえ見つからずむだであった。これはつまり、生物システムを普通の無機的なそれから根本的に区別するまさにその規準が一般に無視され、もしくはすり抜けられているということである」😅 152-3頁
「閉鎖システムが最後には時間に依存しない化学的、熱力学的平衡に<かならず>到達するのに対して、開放システムは一定条件下では、時間に依存しない定常状態と呼ばれる状態に到達する<ことがある>。20年ほど前に私が導入した言葉を使えば、流動平衡に到達することがある。定常状態では、たえず成分が交代していてもシステムの組成は一定のままである。定常状態あるいは流動平衡は等結果性をもつ…。開放システムを扱うためには拡張と一般化が必要であった。これが<不可逆熱力学>として知られているものである。その結論の一つとして、古い生気論の謎が解明される。…[熱力学の]第二原理に対し、あるいはこれと『激しく対立して』…生物体は自己を思いもよらないほどありえそうにもない(確率の低い)状態に維持し、たえまない不可逆過程にもかかわらずその秩序を保ち、あまつさえ胚発生や進化では、より高度の分化のほうへ進みさえする。この見かけ上の謎は、古典的な第二原理が定義により閉鎖システムにのみかかわると考えることによって消えうせる。高エネルギーに富んだ物質をとりこむ開放システムでは、高度の秩序の維持や高度の秩序への進展さえも、熱理学的に許される」153-4頁→
(承前)「生物システムはその要素の多少ともすみやかな交換、変質と再生、異化と同化の中で維持される。生物体は開放システムの階層的な秩序である。あるレベルでは持久的な構造のように見えるものも、実際には、すぐ下位のレベルの成分がたえまなく交換することによって維持されている。こうして、多細胞生物体は自らを維持するのに細胞の交換によっているし、細胞は細胞内構造の交換によっており、また細胞内構造はそれを形づくる化合物の交換によっている、等である。一般的な規則としては、かかわっている要素が小さいほど代謝回転速度が速い…これは生物体がその中で、またそれによって維持されているヘラクレイトスふうの流れ[😅]を示すよい実例である」154頁
「開放システムの時間的な変化を眺めてみても、いちじるしい特徴がみつかる。そういう変化が生じうるのは、生物システムが初め不安定な状態にあって、それから定常状態に向かうからである。生長や発生の現象は大ざっぱにいえばそうしたものである[😅]。あるいは別の場合としては、定常状態が外部の条件の変化、いわゆる刺激によって攪乱を受けることもある。そうしてこれが——今度も大ざっぱにいってのことだが——適応や、刺激ー反応ということの内容である。ここでもまた閉鎖システムに対して特徴的な違いが出ている。閉鎖システムは一般に漸近的な仕方で平衡状態に向かう。これと対照的に開放システムでは、出足の遅れとす行きすぎもおこる…換言すれば、もし行きすぎや出足の遅れを見たときには——多くの生理現象でよくあるように——これは一定の予測可能な数学的特徴をそなえた開放システム内での過程であろうと予期してもよいのである」154頁
「フィードバック・システムと『ホメオスタシス』制御は重要ではあるけれども自己制御システムと適応現象のうちの特別な種類のものであるということを強調するのが、たいせつである。…
…典型的なフィードバック・システムあるいはホメオスタシス現象は、入ってくる情報にかんしては『開いて』いるが物質とエネルギーに関しては『閉じて』いる。ゆえに情報理論の諸概念は——特に情報と負のエントロピーが同等であることから——開放システムの不可逆熱力学よりもむしろ『閉じた』熱力学(熱静力学)に対応する。ところがもしシステムが(生物体のように)『自己組織的』…なものであれば、すなわち高度の分化に向かって進んでいくものであれば、不可逆熱力学が前提とならなければならない」157頁
「開放システムの動力学とフィードバック機構とは二つの異なったモデル概念であって、それぞれに適した範囲がある。開放システム・モデルは基本的にいって非機械論的であり、伝統的な熱力学を越えるばかりか伝統的な物理学理論で基礎となっている一本道の因果関係をも越えるものである…サイバネテイクス的アプローチは生物体のデカルト的機械モデルと一方向の因果関係と閉鎖システムを保持している。後者で新しいのは伝統物理学を越えた概念を持ちこんだこと、とりわけ情報概念の導入である。結局この一対のものは『過程(機能)』と『構造』という古来の対立物を現代ふうに表現したものだ。…
生理学的にいえば、フィードバック・モデルは代謝その他の領域でのいわゆる『二次調節』、すなわち神経内分泌制御の例のように、既存の機構と固定した経路を用いての調節を説明する。その機械論的な性格からして特にそれは器官と器官系の生理学に特によく適用できる。その反面、開放システムにおける諸反応の動的な相互作用は、より一般的かつ根本的な開放システム制御が認められる、細胞代謝…のような『一次制御』に適用される」157-8頁
(承前)「経験のカテゴリーは生物進化の中で生じ、生存競争の中でたえず自らを正当化しつづけてきたものである。もしこれらが、何らかの仕方で実在に対応しているのでなければ、正しい反応は不可能であり、したがってそのような生物は淘汰によりすみやかに消滅してしまったであろう」233頁
ここでフォン・ベルタランフィーは突如としてウォーフ&ユクスキュルの相対主義を脱して、珍しく自然淘汰説に正しく帰依しておる😅
「ローレンツ…は、経験の『先験的な』形は動物が仲間や異性や子や親や餌や捕食者その他の外界の状況に反応するときに従う本能行動の先天的図式と本質的に同じ性質をもつことを、説得力をもって示した。…直観とカテゴリーの『先験的な』形は、何百万年もの進化の中で適応的に進化してきた感覚器官と神経系の身体構造、さらには機械類似の構造でさえあるものに基盤をおくような、生物体の機能である。それらは馬のひずめがステップ地帯に適応し、魚のひれが水に適応しているのとまさしく同じように、そして同じ理由で『実在の』世界に適応している。人間のもつ経験の形だけが唯一可能なもので、すべての合理的存在に対して有効だと仮定するのはさかだちした擬人観である。これに対し、経験の諸形態がいく百万年にわたる生存競争の中で試されてきた一つの適応装置だとする考えは、『外見』と『実在』との間に十分な対応のあることを保証するものである。どんな刺激でもそのままの形で経験されるのではなくい生物がその刺激に反応した形のものとして経験されるのであり、この意味で世界像は心理物理学的なオーガニゼーションにより決定される」234頁
最終盤で適応主義者に豹変するフォン・ベルタランフィー😅
「ピラトの『何が真理か』という疑問には次のように答えるべきである、動物や人間が現在存在しているという事実がすでに、彼らの経験の形がある程度実在に対応していることを証明しているのだと。 …経験のカテゴリーが完全に実在の世界に対応する必要はないし、ましてそれを完全に表現する必要はない。刺激から選びとられたむしろ小さな一部分が、導きの信号として使われれば十分なのである——そうしてこれがユクスキュルの主張であった。これらの刺激の結びつきぐあい、すなわち経験のカテゴリーに関していえば、実際の出来事の網目をこれがそのまま鏡のように映す必要はないが、一定の許容度の範囲内でそれと同形でなければならない。…生物学的理由により、経験が完全に『まちがって』おり、任意のものであるということはありえない。しかし一方、経験が生物にその存在を続けさせるような形で導きを与えうるためには経験世界と『実在』世界との間に一定程度の同形性が存在することで十分である。… …知覚と経験のカテゴリーは『現実』世界をそっくりそのまま映す必要はない。ただしかし、自らの位置を正しく定め生きのびることができる程度にはそれと同形でなければならない」234-5頁
「空間、時間、物質、因果関係といった直観とカテゴリーの周知の形は、人間という動物が生物学的に適応している『中くらいの大きさ』の世界で十分その役割を果たしている。…
さて科学の世界に入ってくると、物理学的世界を数えきれないほどの生物学的外界の一つにすぎないとするユクスキュルの考え方は、まちがっているか少なくとも不完全なものとなる。ここでは漸進的な科学の脱擬人化ともいうべききわめて顕著な傾向が生じている。…
科学が次第に脱擬人化する、すなわち、人間特有の経験に負うような性格のものを次第になくしてゆくことは、科学のもつ本質的特性である。…
…観測可能なものを拡げていくのが科学の一つの機能である。機械論的見方と反対に、私たちはこの拡張につれて別の形而上学的な領域に踏み込んでいくわけではないことも強調しなければならない。…
…いずれこうしたことは、人間特有の心理物理学的オーガニゼーションによって課せられている経験の限界をとり去り、またこの意味で、世界像の脱擬人化に行きつくことになる」236頁
限界突破😅
「私たちは遠近法主義(perspectivism)とでもいうべき見解に到達する…『還元主義者』の主張では、ありとあらゆる科学と実在のすべての側面とが最後に還元されていくべき唯一のものは物理学的理論であるとするが、それに代わって、私たちはもっとつつましい見解を採る。…私たちがどんなシンボリズムを採るか、したがってまた実在のどんな側面を表現しようとするかは生物的、文化的因子に依存する。物理学の体系については、特異なものやとりわけ聖なるものはない。私たち自身の科学の内部では、他のいろいろのシンボリズムたとえば分類学のそれ、遺伝学のそれ、芸術史のそれのようなものが、精密さが同じとはとてもいえる滋養体にはないが、どれも等しく適法なはずである。そして人間の他の文化や、人間と異なる知性の世界では、実在の他の側面を私たちのいわゆる科学的世界像と同程度あるいはそれ以上にさえ反映する、根本的に異なった種類の『科学』が可能かもしれない」240頁
「人間は生物学的理由により本質的に、彼が投げ入れられた世界における実践者、行為する存在(ens agens)でなければならない。それなのに人間を一次的には傍観者として思索する存在(ens cogitans)と見ることは、プラトンからデカルトおよびカントにいたる古典西欧哲学のいちばん重大な欠点であるように思われる」233-4頁